巻ノ一 - 天降り
「当の砌、昔は守屋大臣の所領なり。大神天降り御ふの刻、大臣は明神の居住を禦ぎ奉らんと、制止の方法を励ます。(中略)
大明神天降り給ひし刻、御随身せしむる所の真澄鏡・八栄鈴、並びに唐鞍・轡等これ在り」
(『諏訪信重解状』)
そして八坂斗女は鈴を高く掲げて、こう言った。
「見よ、この鈴を!」
朝日の光を受け、溶けた黄金のごとく輝く鎧を身にまとい、彼女は白馬の背にまたがっていた。
白馬の銀色のたてがみは、早朝の風を受けて静かに揺れている。
前には、武器を手にした人々が集っていた。
顔には疑念と抗う心が刻まれ、恐れと警戒を交えた眼差しで、天より遣わされた者をじっと見つめていた。
「これは高皇産霊尊の御心を告げるもの、
天照大日女尊の御意志を伝えるもの!
八百万の神々の集う高天原にて、
破るべからざる神勅が下された。
『葦原中国を平定げ、和へと導け』と。
天孫饒速日命の名において、
親兵八坂斗女はこの国を領す!
天つ神の御心に逆らう者は、何人たりとも許されぬ!」
その声は天の威光を帯び、谷間に響き渡った。
人々の間にざわめきが走った。
その時、群衆の中から一人の若い女が進み出た。
肩には弓を掛け、その眼差しには燃えるような反抗の意志があった。
彼女は答えた。
「高天原の御心を語るというか。
だが私たちは、こう聞いている。
『藤咲く頃に、オコウ来りて、古き世は終わりを迎える』と。
オコウとはすなわち、滅びをもたらす者!」
するとチカトは弓を構え、矢をつがえた。
「オコウよ!
遠き神々の裁きを携えて来たのだろう。
だがここに屈する者は居ない!
わが鹿児弓に誓う。
このモリヤ様の聖なる国を、お前に穢させはしない!」
そう言うと、チカトは矢を放った。
放たれた矢は風を裂いて一直線に飛び、遠くで草を食む一頭の鹿へと向かった。
矢は鹿の耳の先をかすめ、わずかに傷を負わせるに留まった。
鹿は驚き、身を震わせると、山の奥へと駆け去っていった。
人々はその精妙なる技に驚嘆した。
八坂斗女も、その腕を認めざるを得なかった。
「強き者よ。だが相手はお前ではない。
モリヤとやらをここに出せ。その者自らに語らせよ」
『我を呼ぶのは何處の者ぞ』
すると見よ、八坂斗女の前にモリヤが立っていた。
その声は雷鳴のように轟き、その足元に地は呻いた。
その眼は稲妻のように閃き、その御身より放たれる威は、見る者を畏れさせるほどであった。
『來たな 天つ神の使者よ 此の荒ぶる神の國へ』
人々は顔を覆い、地に伏した。
神の顔を仰ぐことなど、彼らには到底できなかったのである。
『神使 八坂斗女よ
若し此の我が國を治めむと望まば
汝が力を示してみよ 血を流すことなかれ
成さば 國は汝のもの
敗れなば 山は汝を葬らむ』
-----
やがて戦いの時が訪れた。
太陽が空の頂に達する頃、八坂斗女は谷の只中に、一人静かに立っていた。白馬は彼女のもとを離れ、自由に駆けている。
彼女の姿は、目の前に並ぶ戦士たちの中で、ひときわ際立っていた。
するとチカトが前へ進み出た。
彼女の手には長い杖、その先には鉄の鑰と鐸があった。
古老の語るところによれば、遥か昔、モリヤが山を起こし、川を切り開いた時代に、古の人々へ授けられた聖なる宝であったという。
ゆえに国の人々は、この世に現れしモリヤのしるしとして、その鑰を深く敬い、尊んだ。
「スハの者たちよ、聞け!」
チカトは叫んだ。
「あれはオコウ、滅びの使いだ!
立ち上がれ、スハの戦士たちよ!
進め!モリヤ様の名のもとに!!」
人々は声を一つにして叫び、一斉に八坂斗女へ向かって突き進んだ。
鉄の鐸は鳴り響き、大いなる力が彼らを満ちた。
武器は手に確かにあり、その血には火を宿っていた。
彼らの神が共にあったからである。
八坂斗女は彼らの武器を見つめ、心に思った。
(鉄は強いが、永久ではない。力で砕けぬならば、その限界を示してみせよう)
彼女は身をかがめ、地に生える藤の蔓を一本、取り上げた。すると藤の蔓は手の中で淡く光を放った。
力ではなく、知恵によって勝ち取る戦いもある――
師匠の言葉を思い起こし、八坂斗女はまっすぐに立ち上がった。
(わが師、布都主よ。私に力を)
-----
戦いはついに始まった。
八坂斗女の動きは、流れる水のようであった。
触れられず、砕かれず、誰にも捉えられない。
手にした藤の蔓は蛇のようであり、うねり、唸り、敵の鉄の武器を次々と無力化していく。蔓に触れた武器は黒ずみ、錆びつき、やがて塵となって崩れ落ちた。
戦士たちが倒れ、武器が失われるにつれて、チカトへの道は開かれていった。八坂斗女の眼差しは揺らがず、ただ目の前の敵だけを見据えていた。
八坂斗女の神威を前に、戦士たちの闘志は次第に失われていく。
そして最後に、藤の蔓は鋭く伸びた。
チカトが持っていた杖を絡め取ったその瞬間――
ドォォンッ!!!
天地を揺るがす轟音が響いた。
杖も鑰も鐸も、無数の欠片となって宙へ舞い、灰となって風に消えていった。
その衝撃に、チカトは地へと叩き伏せられた。
一人、また一人と、人々は膝をついた。
彼らを満たしていた力は、消えゆく炎のように薄れていった。
人々は八坂斗女を見上げた。
その顔には、畏れ、驚嘆、そして絶望が入り混じっていた。
八坂斗女は倒れている彼らを見て、声を上げた。
「お前たちの鉄は、真の力の影に過ぎない。
見るがいい、これぞ私を導く高天原の威力よ!」
そして山へ向かって叫んだ。
「モリヤよ!
お前の民は敗れた。
しかし誰一人、傷ついてはいない。
この土地は、今より天の秩序のもとに入る!」
山から返る声は、木々の葉擦れのように静かであった。
『八坂斗女よ
汝は我が試練に勝ち越へた
此の国の土 血に染まること無し
然れども 良く聞け
此の地は聖なる地なり
此處にて誓へ 國に害を齎さぬと』
八坂斗女は答えた。
「天つ神の言葉に偽り無し。
私は滅ぼすためではなく、築くために来た。
天のもとでこの国は栄えていくだろう。
ここに誓う」
そう言って彼女は藤の蔓を地へ投げ放った。
すると蔓は大地に根付き、やがて一本の大木となった。その枝には、鮮やかな紫の花が咲き誇った。
再び、山の奥より響いた声は、風に乗って谷間を渡った。
『然らば 此の國は汝に委ねる
此の木を以て 其の誓ひの標とせよ
我が民よ 天の使ひに頭を垂れよ
忘るゝことなかれ 大地は汝が行ひを見てゐる……』
人々は八坂斗女の前にひれ伏した。
しかしチカトだけは、その場にとどまり、こう言って放った。
「私たちが見ているからな、オコウよ。心しておけ」
そしてついに、チカトもひざまずいた。
八坂斗女は何も答えなかった。
この地はまだ完全には彼女を受け入れていないと分かっていたからである。
本当の試練は、まだ始まったばかりであった。




