【ERROR】
…この曲を聴いた人へ…
最初に気づいたのは、ほんの小さなズレだった。
何度も再生しているはずの曲なのに、なぜか——初めて聴いた気がした。
サビに入る直前、確かに聞こえたはずの歌詞が、次の瞬間には“なかったこと”になっている。
——私はここにいない。
そう歌っていたはずなのに。
もう一度再生する。
同じ場所。同じタイミング。
今度は——
何も起きなかった。
音は、いつもより少しだけ“濁って”いた。
スピーカーの奥で、見えない何かが歪んでいる。
誰も気づかないレベルのズレ。
でも――永瀬智樹には、それがはっきり分かる。
「……またか」
小さく呟いて、ギターのボリュームを絞る。
ライブハウスの照明は安っぽく、
床は粘ついている。
客は、数えて三十人もいない。
終わってる。
そう思いながらも、音楽を創り続ける。
ここでやめたら、本当に終わる。
もう30代も半ば。
何度も解散して、何度もやり直して、それでも“何も変えられなかった”。
――だから、証明しなければならない。
この音で。
この曲で。
「準備いい?」
横から声がした。
ボーカルの黒瀬ミカ。
ステージ袖の薄暗い光の中で、彼女はぼんやりと立っている。
美しい黒髪。
吸い込まれそうな大きな瞳。
それとギャップのある、力の抜けた表情。
何も考えていないようで、何かを見抜いているようなミステリアスな視線。
「……ああ」
短く答える。
ミカは、少しだけ笑った。
「今日、なんか変だね」
「何が」
「音。……壊れそう」
軽く言ってのける。
冗談のつもりじゃない声だ。
スティックが鳴る。
ドラムの橘直人が、こちらを一瞥する。
「それじゃ、いくぞ」
いつも通りの声。
その奥にわずかな緊張が混じっていた。
マネージャーの白石遥は、客席の後ろで腕を組んでいる。
冷静な目で、ステージを見ている。
そして――
ステージに出る。
ライトが当たる。
観客の顔がぼやける。
スマホの小さな光がいくつか揺れている。
その中の一人。
最前列で、こちらを見ている少女と目が合った。
――期待している目。
理由もなく、そう思った。
「……新曲、ERROR…」
マイクに触れずに呟く。
アレンジは完璧だ。
頭の中では、何度も鳴っていた。
完成してしまっている。
――あとは、出すだけだ。
最初のコードを鳴らした瞬間。
空気が、わずかに沈んだ。
誰も気づかないレベルの違和感。
でも確かに、何かが“ズレた”。
ミカが歌い出す。
【触れたはずの温度
指の隙間でバグってる】
その声は、静かだった。
囁くように、観客の内側に入り込む。
【呼ばれた名前
振り向いたのは誰だっけ】
永瀬は弾きながら、気づく。
音が“合いすぎている”。
全てが正確に、狙った場所に落ちていく。
――いや。
狙っていない。
なのに、そうなっている。
【ログにも残らない声が
喉の奥でループする】
客席の空気が変わる。
ざわめきが消える。
全員が“同じ感情”に引きずられていく。
【“ここにいる”って証明は
その時点で意味がない】
――おかしい。
永瀬の指が、一瞬だけ止まりかける。
でも、止められない。
この音は、気持ちいい。
完成している。
【正しさなんていらないよ
今、感じたそれだけで】
ミカの声が跳ね上がる。
空気が一気に引き絞られる。
【壊れていく順番を
選べるならいいじゃない?】
そして――
【ERROR ERROR
私はここにいない】
サビに入った瞬間。
何かが、切れた。
視界が一瞬だけ暗転する。
照明じゃない。
世界の“繋がり”が、一瞬だけ途切れた感覚。
【名前を呼ぶたびに
形がズレてく】
観客の中の誰かが、息を呑む。
誰だったかは、分からない。
【ERROR ERROR
消えていくほうが正しい】
永瀬の背筋に、冷たいものが走る。
でも同時に、理解してしまう。
――これ、いける。
【ねえ、その一秒だけ
永遠にして】
曲が終わった。
一瞬の静寂。
そして――爆発する歓声。
スマホの光が一斉に上がる。
「やば……」「何これ」「鳥肌立った」
断片的な声が飛び交う。
永瀬は、呼吸を整えながら客席を見る。
さっきの少女を探す。
――あれ?
一人、いない。
違和感。
でも、何が違うのか分からない。
最初からいなかった気もする。
「……なあ」
直人が小声で言う。
「今、客……減ってねえか?」
永瀬は答えない。
答えられない。
ポケットのスマホが震える。
通知。
動画投稿サイト。
【再生数:12,843 → 28,901 → 57,220】
異常な速度で伸びている。
その画面を見ながら、永瀬は小さく呟いた。
「……今の、どのコードだ?」
その瞬間。
客席の誰かが、確かにこう言った。
「ねえ、今……誰か他にいなかった?」
でも、その声も…
誰のものか分からなかった。
――次回、第2話
【LOOP】




