猫と子猫の過ぐる日々6
なにも出来ずに、ただ立ち尽くしたのは、エルデュアにとって初めての経験だった。
それは、とても恐ろしいことのはずだ。だが身が震えることもない。ただ、体の中から表面だけを残して、すべてがストン、と抜け落ちたような気がした。
なぜ、も。どうやって、も。
疑問はわく。だが答えは聞きたくなかった。
歪む。なにかが、歪んだ。心か。身体か。
背もたれに、手を付くと、両腕の間に、リィ・ウォンを閉じ込める。
静かな金の瞳が、これほど憎く、これほど愛しく……これほど焦がれるものだとは、知らなかった。呆気なく去っていてしまう。それはずっと……思い知らせるかのように、経験していた。
「そこまでして……あなたは私から離れていくと?」
囁きは、聞き取れぬほどかすかに。耳元で唇が動いた。
「……」
初めて、虎の雰囲気が変わった。ゆっくりと顔を見合わせた。
きょとん、とした少々間の抜けた顔が、虎にはひどく似合わないのを、エルデュアは知った。目を瞬いている。
「いいえ」
あっけからんと、闇の虎が否定する。
「虎がエルデュア様から離れることはあり得ません」
「……」
「方法はいくらでもありますから」
「……」
エルデュアは元いた場所に戻った。音もなく腰掛けてから、お茶を飲んだ。――冷めている。
内側で渦巻いていたのは、一体なんだったのかと自問したくなるほど、リィの風のような言葉で、呆気なく砂のごとく崩れた。否、戻ってきたのだ。落としたと、失ったとそう思い込んだものが。
つまり、リィは邪魔になるものを捨てようとしたのだ。氏素性が、まとわりつく、余計なものだと判断し、捨て去ってただの「リィ」になりたがった。
それは、己のためではなく。
「……」
沈黙。それも、相応に、たっぷりと時間を空けてから……はあ、と長い、長い息がエルデュアの口から洩れた。
「リィ・ウォン」
「はい」
「この話、止めましょう」
「ご不快でしたか?」
「ええ……そうですね、非常に」
「申し訳ありません」
変わらない表情。おそらく、全然、なんっにも、理解していないだろう。リィが示した問題よりも、はるかにひどく悩ませるのは、そのリィ自身について、だなんて。頭痛がする。
こんな時の特効薬は、決まっていた。
手招くと、あっさりと近づいてきた。すぐに膝をついて、目線を下げる。丁度良い位置にあった頭を撫でて、綺麗な毛並みを手櫛ですく。少し力を入れて、膝の上に落とす。
緊張感は、もうどこにもなかった。
「リィ・ウォン」
「はい」
「消えるなど、二度と……言わない――言う必要はありません」
「そうでしょうか」
「そうです。誰が何と言おうと、です」
「……」
「理由を聞きたいですか」
「きかせていただけるのなら」
不満なのは、すぐに分かった。子猫の時も虎の時も変わらない。手を伸ばしてもリィは逆らわない。この二人は決して別人ではない。腕を取って、中腰になったところを引き寄せる。小さな体が、エルデュアの腕の中で丸くなる。
「では、その前に一つ、あなたに聞きたいことがあります」
「はい」
「リィ、あなたが私の側を離れない、と言ったのは、なぜです?」
「……」
「その理由は」
「理由……」
意地が悪いのは承知の上だ。自分のことに、あまりに鈍感なリィは、呆然としている。一応は考えているのか、理由、と声なしで口が動く。
「リィ」
優しく囁いているのに、どうにもせっつくようにしか、聞こえないに違いなかった。急かされたリィは、生真面目な表情でなんとか答えを絞り出そうと焦った。
「リィ? 理由は?」
「あのそれは……エルデュア様に万が一があってはならないから。怪我も病も、なければいいです。憂いがあるなら取り除きます。邪魔なものは排除します。誰であろうと……だから」
「だから?」
促したのは、視線が強さを失ったからだ。揺れた金色の両目が、戸惑いと……迷いを浮かべている。振り払うように、リィが顔を上げた。
「近くにいることだけは……許してください」
笑いたくなった。許す――それは懇願。ほとんど無表情だと、知らない人間なら言うだろう。だが、先ほどの仮面のような冷たさはどこにもない。いつもと変わらないようで……少しだけ濡れている瞳だけが、雄弁だった。
知っているのはエルデュアだけだ。
そう思えば、心の底から歓喜が広がる。
「リィ・ウォン」
「はい」
「私は……たとえあなたが今持つ力をすべてなくしても……あなたにここから去ってほしいとは、断じて思いません」
「でもあの……魔力がなくなったら、出来ることがないですが」
心底不思議だ、という顔でリィが首をかしげる。
「構いません。ずっと、ここにいればよいのです。それなら、出来るでしょう」
「ここ?」
「私の隣です。ちゃんと目の届くところにいるのですよ? 勝手に出掛けるのは……事情によっては許しますが、きちんと帰ってきなさい」
「あのでも」
反論しようと、身を起こしてエルデュアから距離を取ろうとするリィを、やや無理に押さえつけた。余裕の笑みすら浮かんだエルデュアをどうとったのか、リィが抵抗をやめる。すかさず軽く口づけると、驚いた拍子に落ちそうになった。素早く、抱き直す。
「まだわかりませんか?」
「え?」
「私も、あなたの側にいたいのですよ、リィ・ウォン」
「……」
瞬きを繰り返すのは、あどけない子猫だ。考え込むと、下を向いてしまう。つまらないなと思いつつ、好きなだけ時間を与えてやる。
きっと。
ずっとふらふらと彷徨っていたから……帰る場所に、いていいと、いて欲しいと願われても、分からなかったのだ。
けれど、それも今日までの話。
躊躇いながら、ゆっくりと肩口にリィの額が寄り添った。徐々に伸ばされた腕が、背中に回る。
おかえり、と。エルデュアは心の中でつぶやいた。