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光の剣、剣の影  作者: 万卜人
第十六章 剣の影
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 汪直は自分を責めた!

 成化帝が、完全に官僚の操り人形と決め込んでいた己の愚かさに、腹が立っていた。

 今まで、成化帝が見せた、愚帝の振る舞いは、成化帝の演技だったのか?

 人が変わったように、成化帝は堂々とした物腰で、居並ぶ百官に向かい、宣言をした。

「我が皇太子、朱三平を、後継とする! 皆の者、ようく、我が息子の顔を覚えて貰いたい。さあ……」

 と、皇帝は皇太子を促し、立たせた。肩に手を置き、四面を向かせた。

「この顔を、とっくりと目に焼き付けるのじゃ! 決して、偽物に惑わされる間違いは、許されぬぞ!」

 成化帝は言葉の途中で、汪直に鋭い眼差しを向けた。

 汪直は凝然となった。

 今の言葉は、汪直の計画を承知していたとしか、考えられない。

 汪直は、部下のコンに向け、囁いた。

「例の巫士を、連れて来い!」

 坤は「えっ!」と小さく、驚きの声を上げた。瞼を裂けんばかりに、両目を見開き、反問する。

「今、で御座いますか?」

 汪直は、噛み付きそうな勢いで、命令を繰り返した。

「今、だ! 儂に、もう一度、命令をさせるつもりか?」

「は、はいっ! す、すぐっ!」

 ぴょこりと、発条仕掛けのように、坤は回れ右をして、そそくさとその場を離れた。

 苛々と、爪を噛む。部下が汪直の命令に対し、反問するなど、普段の薫陶からは考えられない事態だ。それほど、汪直は冷静さを失っていた。

「直よ……」

 傍らの万貴妃が、蒼白な顔色で汪直を見上げ、呼び掛けた。

「何がどうなっているか、妾には丸っきり、判らぬ……大丈夫であろうな?」

 汪直は答えない。今は、万貴妃に答える余裕はない!

「直よ……答えてたもれ!」

 万貴妃は身体をずらし、腕を伸ばして汪直の裾に指を絡めてきた。

 汪直はかっとなり、万貴妃の手を振り払った。

「煩いっ! 少し、黙っておれ!」

「何と申した?」

 万貴妃は声を高めた。蒼白だった顔色が、見る見る、どす黒く変色した。

「もう一度、聞きたい。お主は、妾に何と申したのじゃ?」

 汪直は、ゆっくりと首を動かし、万貴妃を見下ろした。専用の寝椅子に、まるで巨大な芋虫のように太った身体を横たえている万貴妃は、汪直の視線に、ぎくりと、全身を慄かせた。

「煩い、と申したのだ! 良いか、儂はもう、お前に一々、答えぬ! これ以上、煩く付き纏うと、無事ではおられぬぞ!」

「直……お主……!」

 万貴妃の表情は、恐怖で凍り付いている。

 今、ようやく万貴妃は、汪直の本性を悟ったらしい。汪直は決して、万貴妃の奴隷ではなく、思うが侭に操っていたつもりが、実は、操られていたのは万貴妃であった事実を、この瞬間、思い知ったのかもしれなかった。

 汪直の無言の圧力に、万貴妃は項垂れ、視線を落とした。急速に、万貴妃の本当の年齢が、その顔に現われたようだった。

 汪直の眼前にいるのは、権力を渇望する、怪物のような女ではなく、ただの老婆であった。

 たたた……と、軽い足音が汪直の耳に届いた。

「汪直様、今、巫士をお連れしました」

 坤は、いつものように、感情を喪失した、平板な口調で汪直に報告した。汪直は軽く頷き、背後を振り向いた。

 巫士は、昆の背中に隠れるように、心持ち膝を曲げて佇んでいる。相変わらず、表情の読めない、仮面で顔を隠している。

 巫士は手を伸ばして、相棒の猿の手を握っていた。猿は大人しく、巫士の隣で蹲っている。緑色の毛並みに、黄色い顔色、口の中は紫色という、不気味な動物である。

「お呼びで……?」

 心持ち顔を挙げ、巫士は汪直に声を掛けた。

 汪直は頷き、巫士に近づくと、腰を落として顔を近づけた。

 巫士に近づくと、背筋が寒くなるような、悪臭が漂う。しかし汪直は、平然と顔を近づけ、話し掛けた。

「今、この場におる、全員を殺せるか?」

 巫士は驚いた様子は、微塵も見せなかった。汪直の下問に、僅かに頭を傾げただけだった。

「はて、以前に命じられた際には、人知れず皇太子様を殺せと、承りましたが?」

 汪直は顔を顰めた。

「事情が変わった! 今すぐ、この場におる全員を殺せ! やれるか?」

「それは、もう……」

 部下の坤が喘ぎ声を上げ、汪直に詰め寄った。

「汪直様! そ、それは、いったい、何ゆえで御座いますか? なぜ、そのような無謀な命令をお下しになられるのです? それでは、帝国の権を握るための、我らの努力が総て水泡に帰すのでは?」

 汪直は立ち上がり、決死の表情で詰め寄る坤に向き直った。坤の背後には、ケンシンカンの五人の部下が、同じような表情を浮かべていた。全員、表情には汪直への、初めてといって良い疑念があった。

「権を握る、だと? それが儂の最終目標だと、お主らは思っておったのか?」

 つい、汪直の口調が、嘲るようなものになった。興奮が、汪直の全身を奮わせた。

「違うっ! 儂の目的は、明帝国を滅ぼす、それしかないっ! 今、この瞬間、ここには帝国を支配する、皇帝、皇太子、官僚、有力者に全員が集合しておる。ここにおる全員を殺せば、即ちそれが、明帝国を消滅させる結果となるのだ!」

 部下全員を代表して、坤は汪直に訴えかけた。

「なぜで御座います……! 我らが身命を賭し、汪直様に全身全霊をもってお仕えた結果が、そのような信じられない目的だったとは……。承服できませぬ!」

 坤は眉を顰め、何度も首を左右に振った。表情には苦悩があった。

「承服できぬと申すか?」

 汪直の口調に、何事か感じ取ったらしく、坤は、はっと顔を上げた。上がった坤の首筋を、汪直の手に隠し持った薄刃の武器が、素早く切り裂いた。

「では、死ぬのだ!」

「あぐうっ!」

 坤は絶叫し、首筋を両手で押さえた。押さえた両手の指の間から、驚くほど大量の血液が、どばっと噴き出した。血液は鮮やかな赤色をしていた。

 すとん、と坤の両膝が床に突き、しなやかな上体がゆっくりと後ろに倒れ掛かる。

「汪直様っ!」

 残りの五人が、驚きの声を上げた。床に倒れた坤の死体に駆け寄り、信じられないものを見た驚愕に、全員が茫然自失していた。

「総ての人間を殺せっ! 一人として、生きて帰すなっ!」

 汪直の怒号に、巫士は冷然と一礼し、猿を伴って謁見の間へ跳躍した。

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