ラミアと魔法少女
上半身は女性、下半身は蛇の怪物というのがこの世界には存在する。
彼女たちはラミアと呼ばれる怪物だ。その美貌で多くの男を篭絡し、食い物にしたという伝説が残っている。
しかし伝説としてではなく、現実問題として彼女たちと付き合いがある人間も少なからずいる。いや、いると信じたい。いるはずだ。
こんな苦労をしている人間が、ぼくだけであると思いたくはない。
「マリアちゃん……いる?」
来客など久しぶりだった。
四月のはじめの頃は近所の人たちが入れ替わり立ち代り訪ねてきたのだが、やよい荘に入居してから三ヵ月ほど経った今では、この二〇一号室を訪ねてくるのは郵便局員くらいになっていた。そのため、チャイムの音を聞いたのも久しぶりである。
「マリア、お客さんだぞ」
「余は居留守を使う。辰磨、お主が適当に追い返しておけ」
「お前なあ……」
銀髪の少女、マリア・カーマインはカーペットの上で億劫そうに寝返りを打つ。ぼくが中学時代に着ていた赤ジャージを身にまとった姿はまるでダメ人間のようだが「余は人間でないのでダメ人間などにはなりえん」というのがマリアの持論だった。
彼女こそこの部屋に住み着く居候であり、ぼくの頭痛の種でもあるラミアの少女だ。
マリアはうつぶせの状態で、下半身の尻尾の先をぱたぱたとさせながらテレビのスイッチを入れる。宣言したとおり、客の対応に行く気はないらしい。
「まったく、そんなにダラダラしてると……太るぞ」
「毎日散歩に出ておるから問題はない。そんなことより、早くあれを追い返してこい。この前大量の野草を部屋に持ち込んでおったから、どうせまたろくでもない薬でも作って持ってきたのだろう。関わらんほうが吉だ」
「まあ、そこだけは同意見だけど」
しかし、無視を決め込むのも申し訳ない。一六歳でも、ぼくは一応この部屋の主だ。
それでも、玄関のほうを見つつ立ち上がるのを少しだけためらってしまう。扉の外にいる少女は、変人揃いのやよい荘でも群を抜いた問題児なのだ。
彼女はぼくの隣の部屋の住人で、黒崎美紗さん。マリアと同じく魔界からやってきた異世界人で、向こうでの職業は薬学専門の魔法使いだったそうだ。
種族としては人間であるらしいのだが、元魔界住人の見た目ほどあてにならないものもないだろう。弱冠十七歳に見える可愛らしい姿であっても、美紗さんは多くの禁止薬を製造してきたマッド薬学者なのだ。若い姿を保つための薬くらい作っていてもおかしくはない。
「うーん、留守なのかな? でも、出かけていったような音はしなかったし……」
美紗さんは、なおも扉の外で粘っている。やはりマリアの予想通り、新薬の実験台になる人を探しているようだ。
「おーい、いないならいないって返事してよー」
「おらんぞー」
「あ、やっぱりいるじゃん!」
マリアはしまったという風に口を押さえたがもう遅い。マリアの声はしっかりと美紗さんの耳にまで届いていた。
「くっ、いつもの癖でついボケてしまった」
「お前いつの間にボケ癖ついてたんだ? とにかく、美紗さん上げるぞ」
ぼくは寝転がっているマリアの横を通って玄関に向かう。
人一人がやっと通れるくらいの細い廊下を抜けて扉を開ける。すると、美紗さんは扉に体重を預けていたのか、転がるようにして玄関に入ってきた。
夏だというのに全身を真っ黒なローブで覆い、頭には典型的な魔女がよくかぶっているとんがり帽子を乗せている。彼女いわく、これが魔法使いの正装らしい。
まあ、ローブの下にコスプレ用のセーラー服を着ているのがかなり意味不明ではあるのだが、いつものことなのでつっこまない。
「あ、悪いね、辰磨くん。マリアちゃんは……いるよね?」
「いますけど……もしかして、また薬の実験台にする気ですか?」
「うん、そうだよ」
屈託のない満面の笑み。
天使のような顔をしたまま、煮えたぎる液体の入った試験管を片手に迫られたらと考えると恐ろしい。部屋中のありとあらゆる入り口に板でも打ち付けたくなる気分だ。
ただ、今回のターゲットはぼくではないので、それほど怖がる必要もないだろう。むしろほっと胸をなでおろすほどに安心できた。
しかし、標的となっているマリアは別だ。ぼくが振り向くと、マリアは素早く身体を起こし、部屋で唯一の窓に手をかけたところだった。
窓の外には小さなベランダがあるが、まさかそこに篭城しようという気ではないだろう。窓の鍵は、部屋の内側からしかかけられない。
篭城以外の可能性は……と考え、マリアのしようとしていることを察した ぼくは、玄関から窓際まで慌てて近寄ってマリアの手を掴んだ。
「待て待て、マリア。飛ぼうとするな」
「離せ! これくらいの高さなら問題ない。それよりも、美紗の薬を飲むほうがよほど危ないわ」
「いいから、とりあえず落ち着け。窓からラミアが飛ぶところなんて、誰かに見られたらぼくはなんて言い訳すればいいんだよ」
彼女は魔物だからこれくらいの高さから飛び降りても平気なんですよ。すごいでしょう?
なんて言っても、頭がおかしいと思われる。
しかし、羽交い絞めにしてもマリアの抵抗は収まらない。右に左に身体を揺らされるが、ぼくも必死になってマリアを抑える。踊る銀髪の間からはほのかに甘い香りがするものの、激しく動くマリアに振り回されている最中にそれを楽しんでいる余裕はなかった。
ぼくはその場で反転するようにして、窓とマリアの間に自分の身体を押し込む。とりあえずこれで飛ばれる心配はなくなった。
ぼくとマリアは部屋の奥から玄関を眺める形になったので、いつの間にか部屋にまで上がりこんでいた美紗さんの姿が見える。
瞳だけ笑っていない笑顔。そしていつの間に用意したのか、右手には白くてドロっとした液体の入った三角フラスコを握っている。
悪魔の実験を手助けしてしまったと気付くのに、そう時間はかからなかった。
「辰磨くん、ナイス」
軽くウインクしてみせると、美紗さんはマリアの口へフラスコの先を乱暴に突っ込み、中の液体を一気にあおらせた。
「んぅ……んぐ、ぐ……うっ」
「ちょーっと苦いけど、我慢してね」
ぼくはマリアの後ろにぴったりとくっついているので、嬉しそうに薬を飲ませる美紗さんの顔が肩越しによく見えた。
その表情は、悪魔なんて生易しいものではなかった。微笑んだ瞳の奥にチラついて見えるものが何かなど、理解したくもない。
「……ちなみに、これってどういう薬なんですか?」
「ん? これはね、魔法が使えるようになる薬だよ。名づけて……えっと……白濁DX」
「それ、完璧に今ネーミングしましたよね」
「そんなの気にしちゃだめだよ。大事なのは薬の効果。名前なんて記号なんだから」
とは言うものの、魔法が使えるようになる薬なんていかにも胡散臭い。そんな薬が作れるのなら、いまごろ魔界との間には国交が結ばれていてもおかしくないはずだ。
こちらの世界に来ることはたやすいが、向こうの世界には帰れない。なぜなら、向こうの世界で使えていた魔法が、こちらの世界では使えないのだから。
そんな一方通行な転移方法のせいで、マリアをはじめとしたやよい荘の人たちは、元いた世界に帰れなくなって困っている。この状況を楽しんで、やりたい放題やっているのは美紗さんぐらいのものだった。
「……一応聞きますけど、臨床実験はしたんですか?」
「今してるところ」
「まあ、そうですよね」
マリアは最後の一滴を飲み干すと、咳をしながらぼくに身体を預けてきた。さすがにもう暴れる気力は残っていないらしい。
ぼくはマリアをゆっくりと床に座らせると、せめて背中をさすってやった。少しかわいそうなので、あとで胃薬も買ってきてやろう。
「はい、おしまい。これでマリアちゃんもこっちの世界で魔法が使えるように……」
薬の効果を得意げに語りだそうとした美紗さんだったが、台詞はそこで途切れてしまう。ぼくも呆気にとられて言葉を失った。
マリアは苦しげなうめき声を上げると、体中から赤黒い煙を放出しだしたのだ。
煙は立ち上ることなくマリアの身体にまとわりつき、その中から次第に青白い文字が浮かび上がる。散らばっていた文字は次々と帯状になっていき、螺旋階段のようにマリアの身体を取り巻いていく。
「ぐっ……く、うぅぅぅ……」
「美紗さん、これ、まずいんじゃないですか?」
「うーん、そうだねぇ……」
小柄な魔女はのんきにマリアの様子を観察しているが、その間にも文字の帯は増えていき、マリアの身体を繭のように包んでしまった。
「エヘヘ、この薬は……失敗、かな?」
美紗さんが恥ずかしそうに頭をかいた瞬間、マリアを包んでいた繭は砕け散った。噴出していた赤黒い煙も一緒に霧散する。
「こ、これは……」
文字の繭から現れたのは、ぶかぶかのジャージに身を包んだ、小さなマリアだった。単純な身体の大きさだけでなく、見た目年齢までも幼い子供になっている。
「ん……珍しくなんともない、のか?」
声の調子も、普段のマリアのものより高めだ。
ここまできたら、もう疑いようがないだろう。マリアは、薬の効果で幼くなってしまったのだ。
しかし本人は気づいていないらしく、何がおこっているのかわからないといった様子できょろきょろと部屋を見回している。
「あんなに体中が熱くなったわりには、なんの効果もないではないか。まったく、これだからお前の薬というのは……」
「いや、もう一回よく見たほうがいいぞ」
確認を促してやると、マリアは自分の身体をじっくりと見ていく。そこで初めて異常に気がついたようだ。丈の余ったジャージの袖を引っ張り、かなり短くなってしまった蛇の下半身をなでたあと、豊満だったはずの胸に手を当てた。
ただでさえ色白だったマリアの肌から血の気が抜けていき、蒼白とも言える不健康な色合いになっていく。
「………………ない」
「あー、えっと、でも、ちっちゃくなってもマリアちゃんはかわいいからさ、きっと大丈夫だよ」
重苦しい雰囲気の中、美紗さんの能天気な台詞が場違いな空気をかもし出した。
美紗さんの苦しい言い訳を聞いたマリアはぶるぶると肩を震わせると、唐突に一筋の涙をこぼす。そしてそれが引き金になったのか、堰を切ったように泣き出してしまった。
「ど、どうしてくれるのだ。余の身体を、こんなちんちくりんにしおって……」
「そんなに心配しなくても大丈夫。薬の効果なんてすぐに切れるよ……たぶん」
「たぶん?」
「ぜ、絶対。絶対。永遠に効果が続く薬なんて、ありえないよ。ほら、泣かないで。ね?」
美紗さんはマリアをなだめすかすように頭をなでる。こんなことをしようものなら普段はすげなく払いのけられるだろうが、今日のマリアは素直に頭をなでられている。これも幼児化の影響なのかもしれない。
ぼくは美紗さんの隣にしゃがみこんで、ハンカチでマリアの涙を拭いてやる。それでも、マリアは素直に涙を拭かれている。
「それで、実際にはどれくらいで治るものなんですか?」
「一応、一時間くらい効果が続くようには作ったつもりなんだけど、失敗してるからなんとも言えないね。五分しか持たないかもしれないし、意外と一週間くらい続くかもしれない」
やよい荘のミス無責任の言葉を聞いたら、険しい顔をせずにはいられなかった。語気も自然と強まってしまう。
「それ、すぐにわかる方法ってないんですか? できれば、マリアの身体をすぐに治す方法も」
「部屋に残りの薬があるから、やろうと思えばできるけど……ちょっと時間がかかるよ?」
「じゃあ、お願いしますね」
「いやでも、そのうち治ると思うし、そんなに焦ってやることじゃ……」
「お願いしますね?」
「う、うん。わかった」
美紗さんは何かを察したのか、ぼくのお願いを快く聞いてくれた。
「まったく、マリアちゃんのことになるとすぐ怒るんだから……」
「何か言いました?」
「なんでもないよ! すぐ調べてくるから、待っててね」
美紗さんは慌てて立ち上がると、ものすごいスピードで部屋から退散していった。
ぼくは美紗さんの背中を見送ると、マリアのほうに向き直る。
すると、マリアはぶかぶかのジャージの袖で乱暴に涙を拭い、腕を組んでそっぽを向いてしまった。
「悪い。まさかこんなことになるなんて思わなかった」
美紗さんの薬は失敗続きで調合に成功したためしがないが、今までの失敗作は軽い腹痛が起きたりものすごく酸っぱい味がするだけだったりと、笑って許せるようなレベルのものばかりだった。今回のようなケースははじめてなのでどうしていいかわからないし、ものすごく心配だ。マリアの身体のことも、気持ちのことも。
「あの……やっぱり、怒ってる?」
「怒っておる」
「でもその格好、かわいいだけだぞ?」
「――っ!!」
マリアはぼくの胸を力いっぱい殴りつけると、こちらに背中を向けて腰を下ろした。今度こそ本当にへそを曲げてしまったかもしれない。
「あのー、マリアさん?」
敬語を使って下手に出つつ、ぼくはそっとマリアの表情を覗き込む。
大きくてくりっとした可愛らしい瞳で睨み付けられた。
「なんだ?」
「どうせ小さくなったんだから、今しかできないこと、やってみませんか?」
「今しか、できんこと?」
少し興味を持ってもらえたようだ。この機会を逃さずに、ぼくは一気に畳み掛ける。
「そう。今しかできないこと。例えば……おしゃれとか。お前は普段、ぼくのジャージばっかり着てるだろう? 大家さんの服とか借りてみたらどうだ?」
「あくまで買うつもりはないのだな」
「それは……ごめん」
痛いところを指摘され、ぼくは迷った挙句に素直に頭を下げた。
玄関から部屋の奥まで楽々見渡せてしまう部屋に住んでいるということは、つまりお金の面で苦労しているということだ。お金さえあればこんなアパートから出て行ってやる……とは今更思わないが、それでもお金さえあればこの部屋の中でもう少しマシな生活ができると思う。
一人ぶんの仕送りで二人が生きていくというのは、やはり無理があったのだ。そろそろ、本気でアルバイトを考えなければいけない。
「そんなに、本気で暗い顔をするな。後ろめたくなるだろう」
「ん……ああ」
知らない間にまじめな顔になっていたらしい。表情にこびりついた現実を洗い流すように、両手で顔の筋肉をほぐす。
「居候の身で言えたことではないが、余はこの生活、なかなか気に入っておるぞ」
「そうなのか? でも、色々我慢させちゃってることも多いだろう?」
「それはそうだが……でも、これだけは我慢ではない」
優しい眼差しで手元を見るマリア。しかし、そこには何もない。しいて言うなら、ぼくが着古してくたびれたジャージの袖があるくらいだ。
「これだけ……って、どれだけだ?」
「……何でもない。さあ、美紗の様子を見に行くぞ。あやつめ、余が見ていないのをいいことに、部屋でサボっておるに違いない。この身体を治す方法がわかるまで、徹底的に監視してやるぞ」
「あ、ああ」
小さなマリアに手を引かれ、ぼくはよろめきながら立ち上がる。
我慢していないこととやらが気になったが、マリアに手を引かれていくうちに、そんな疑問は霧のように頭から消えてしまった。




