第七十四話 ライアンの娘である女王が、王冠を賭けて国境の門を開いた
廃関所から救出された人々は、国境の門の前で立ち尽くしていた。
王国側の山道は雪崩で塞がれた。
病人を施療所へ運ぶには、隣国の道を通るしかない。
「門を開ける許可が下りません」
使者が告げると、セーラは担架の上の少年を見た。
息が荒く、母親の呼びかけにも反応しない。
「あと何時間、ここで待てますか」
「それは……」
「私には、その時間を保証できません」
セレスタとは別の隣国、リューネ王国の女王エレナは、王宮で報告を受けていた。
ライアンに育てられた娘の一人であり、セレスタの女王アデルとは幼いころ同じ食卓を囲んだ仲だった。
財務官が地図を指した。
「門を開けば、今後も避難民が押し寄せます。備蓄は冬を越す分しかありません」
「では閉じておけば、冬は越せますか」
「国民の分は守れます」
「門の向こうで死ぬ子は、国民ではないから数えなくていいと?」
財務官は顔を上げた。
「そうは申しません。ただ、受け入れた後の責任を誰が負うのか、決まっていないのです」
その指摘は正しかった。
エレナは使者に、救出人数、病人の数、使用できる寝台と薪の量を確認させた。
数字には未確認の欄もあった。
「緊急の開門は、女王の権限で命じられます」
宰相が言った。
「ただし長期の滞在を認めるには議会の承認が必要です。失敗すれば、陛下の地位を問う者も出ます」
「地位を守るために、今夜の命を見捨てることはできません」
エレナは封蝋を押した。
「まず門を開けます。病人と子供を先に通し、名前の分からない人も仮登録してください。医療班と食料の担当を分けます」
「費用は?」
「王宮の緊急備蓄から一時支出します。明日の議会には、支出額も不足分も隠さず示します」
門が開くと、セーラの医療班が担架を運び込んだ。
少年の母は礼を言おうとしたが、セーラは首を振った。
「先に、この子の名前を教えてください」
「ルイです」
「ルイ。今から温かい部屋へ行くよ」
少年の指がわずかに動いた。
翌朝、議場には怒号が響いた。
「王国の人間のために、我が国の薪を使うのか!」
エレナは昨日の帳面を広げた。
受け入れ人数、診察した人数、使った食料、まだ必要な寝台。
「この数字は今日のものです。明日には変わります。だからこそ、毎日公表します」
財務官は立ち上がった。
「住民にも薪が足りません。避難民に配れば、門の内側の子が凍えます」
「その子も守ります」
「両方守るとおっしゃるだけでは、薪は増えません」
エレナは一瞬、言葉に詰まった。
父なら、ここで何と言うだろう。
だが今は父の答えを借りる時ではない。
「私が誤りました。開門を命じる前に、住民の不足分まで調べるべきでした」
議場が静まった。
「備蓄を再点検し、王国には費用分担の署名を求めます。薪の輸送は民間業者へ有償で依頼します。議会には七日ごとに見直しを求めます」
「王国が払わなかったら?」
「その事実も公表します。命を救ったことを理由に、こちらの国民へ無期限の負担を押しつけるつもりはありません」
夕刻、王国の財務官の署名が届いた。
必要額の全てではない。
けれど、最初の支払い期日は明記されていた。
反対派の大臣がエレナに近づいた。
「私は今でも開門に不安があります」
「私もです」
女王が答えると、大臣は驚いた。
「だから明日も数字を見ます。一緒に確認してください」
施療所から、ルイが意識を取り戻したとの知らせが届いた。
母親はまだ彼の手を離せないという。
エレナはその報告を読み、ようやく王冠を外した。
父が昔、自分に渡してくれたのは、無条件の約束ではなかった。
今夜の食事を出し、明日の分を考え続けるという、地道な責任だった。
門は開いた。
その向こうの明日を守る仕事は、ここから始まる。
門の内側では、隣国の衛兵が受け入れ人数を数えていた。
エレナはその数字を見て足を止めた。
担架に乗せられた少年が、母親と別の列に入れられている。
「家族は離さないでください」「身元確認が終わらなければ」と衛兵は言う。
エレナは相手の規則を無視せず、治療と確認を同時に進める場所を示した。
「ここに机を置きましょう。母親の証言と、医師の記録を並べて残します」
セーラは少年の脈を確かめながら、呼ばれた名前に小さな反応があることを伝えた。
母親は泣きながら頷いた。
国境の向こうで命令できる立場ではない。
だからこそエレナは、相手が守るべき規則を一つずつ聞き、命を守る方法を探した。
門番長は鍵束を握りしめていた。
「女王陛下、規則を破れば私の部下が処罰されます」
エレナは門を指ささず、門番長の手元を見た。
「ならば命令書には、あなたの名前ではなく私の名前を書きます。開門時刻と通過した人数も残してください」
門番長はしばらく黙り、震える手で帳面を開いた。
最初に通ったのは、咳き込む老人を乗せた荷車だった。
車輪が敷居に引っ掛かり、護衛の兵が持ち上げる。
「先に子供を通して」
老人が言った。
後ろに並んでいた母親は首を振る。
「あなたも、ここで待たせたくありません」
エレナは通過順を医師に任せた。
王冠を賭けると宣言するより、現場の判断を邪魔しない方が難しかった。
夜、門番長は最後の人数を読み上げた。
「病人十二、付き添い十七。取り残し、なし」
エレナはその数字を自分で写し、隣国へ礼状を書くことを決めた。
開けた門を、翌日また閉ざさないために。
開門を許された人々は、向こう岸の施療所へ向かった。
エレナは最後の荷車が見えなくなるまで門前に残り、次に同じ事態が起きたときの連絡先を門番長と確認した。
使者は隣国の印を押した受領証を持って戻った。
誰を通したかだけでなく、どこへ運んだかまで記されている。
エレナはその紙を国境の記録簿に綴じさせた。
開門から三日後、国境の施療所で寝台が足りなくなった。
エレナは会議を開き、入院が必要な患者と、宿で休養できる人を医師に分けてもらった。
「門を開けたのだから、全員を宮殿に入れればいい」
若い廷臣の案に、エレナは首を振った。
「宮殿には暖房も寝台もある。でも、医師は増えない。患者の状態で場所を決めてください」
財務官は支出の増加を報告した。
エレナは数字を隠さず掲示し、受け入れに協力した町の宿には正規の宿泊料を支払うよう命じた。
ルイの母親は、帰国できる日を尋ねた。
「まだ道の安全が確認できません」
使者の返事に、母親は唇を噛んだ。
エレナは約束を急がなかった。
「帰れる日が決まるまで、毎朝ここで状況を伝えます。分からないことも、分からないままお伝えします」
母親は初めて、女王の顔を正面から見た。
国境の記録係は、避難者の名前を書き終えると、ためらいがちに女王へ尋ねた。
「身元を証明する紙を持たない人は、どう扱いますか」エレナは担架の列を見た。
雪崩から逃げた者が証文まで持ち出せるはずがない。
「名前が分からないなら、服装と同行者を記録して。治療を先にしてください」
記録係は新しい欄を引き、母親から離れた少年の特徴を書き留めた。
後で迎えに来た母親は、その記録のおかげで子を見つけられた。
門を開ける決断だけでなく、門を通った一人を見失わない仕事も必要だった。




