第七話 十年後、百通の旅立ちに備える手紙
雪で屋根が崩れたあの夜から、十年が過ぎた。
雪の夜に避難した荷馬車の待機所は、町の寄付と職人たちの協力で改修され、いまは共同の住まいになっていた。
百人全員が一度に眠るには、近隣の借家も使う。
それでも食卓には、帰ってきた者のための席が残されていた。
働き始めた者、学びに出た者、近所に部屋を借りた者。
朝の食卓に空いた席が増えるたび、ライアンは椅子を片づけようとして、結局そのままにしていた。
「父さん。軍学校から返事が来た」
ガイアが封書を差し出した。
入学を認める王国軍の印章が押されている。
「おめでとう」
「まだ決めてない」
「どうしてだ」
「俺がいなくなったら、薪割りは誰がする。冬の食料の勘定だって、父さん一人じゃ間違える」
言い返せないのが悔しかった。
ガイアは幼いころから、食事の残りを誰より先に数える子だった。
今ではライアンより正確に倉庫を管理する。
「お前が残る理由を、俺の不器用さにするな」
「理由になるだろ」
「なる。だからこそ、俺が変わらなきゃいけない」
ライアンは帳簿を開いた。
以前は自分の字ばかりだった頁に、いまはマリナの計算、ノアの修繕記録、セーラの寄付契約が並んでいる。
「もう俺一人で回してない。お前が教えてくれたんだ」
ガイアは返事をせず、薪置き場へ目を向けた。
かつて自分がいなければ回らないと思っていた仕事を、年下の子たちが当番表どおりに進めている。
少し寂しく、同じくらい誇らしかった。
旅立つとは、必要とされなくなることではない。
任せられる人を増やしたということだった。
ガイアは封書を握りしめたまま、しばらく黙った。
その日の午後、セーラは法学院の奨学金の通知を持って帰った。
しかし、合格の文字を見ても笑わない。
「入学には、身元保証人が二人必要なんだって」
「俺だけじゃ駄目か」
「父さんは保証人になれる。でも、もう一人は公職者か登録商人じゃないと」
セーラは紙を裏返した。
「孤児だから、最初から無理だと思ってた」
ライアンは商人ガストンの店に向かった。
十年前、食料の仕入れ先を紹介してくれた男だ。
店の扉を叩く前、ライアンはセーラの保証書を握り直した。
「また無茶を頼みに来たな」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてある」
事情を聞いたガストンは、すぐには署名しなかった。
「保証ってのは、名前を貸すだけじゃない。あの子が困ったとき、俺にも責任が来る」
「分かっています」
「本当に? お前は何でも自分で背負う癖がある」
ライアンは頭を下げた。
「今回は、一緒に背負ってほしいんです」
ガストンは筆を取った。
「やっと言えるようになったか」
翌朝、エマは薬草の入った小袋を渡した。
「腰が痛いときの湿布。マルタ先生に作り方を習ったの」
「ありがとう」
「無理して荷物を持たないでね」
「分かった」
「父さんの『分かった』
は、信用できない」
エルが横から言うと、みんなが笑った。
ライアンは笑いながら、ふと胸が詰まった。
あの雪の夜には、この子たちが明日まで生きられるかさえ分からなかった。
いま彼らは、誰かを助けるための道具や知恵を持ち、遠くへ歩いていこうとしている。
嬉しかった。
それから、たまらなく寂しかった。
旅立ちの前夜、ライアンは皆に一つだけ頼んだ。
「困ったら、手紙を書いてくれ。返事が遅れることはあるかもしれない。でも、必ず読む」
マリナが眉を上げた。
「父さんは、助けてって書けるの?」
「俺か?」
「そう。私たちには頼れって言うのに、父さんはいつも一人で運ぶから」
ライアンは笑ってごまかそうとしたが、マリナは真顔だった。
「私、商会で帳簿を任されるの。もう小さい子じゃない」
「分かってる」
「だったら、私にも頼って」
ライアンは机に積まれた手紙を見た。
進学や就職の知らせ、まだ行き先の決まらない子の相談、すでに旅立った者からの便り。
やがて百人それぞれに返事を書くつもりだった。
送り出す言葉を書くのは簡単だった。
残る自分の弱さを認めるほうが、ずっと難しい。
「約束する」
その返事を聞いたマリナは、ようやく笑った。
夕食の席で、セーラは署名済みの書類を見て泣いた。
ガイアはわざと目を逸らし、マリナは手拭いを差し出した。
けれど旅立ちが決まったのは二人だけではなかった。
ノアは橋梁工房へ。
マリナは商会の会計係へ。
エマは助産師マルタの弟子となり、エルは町の学校で小さな子に読み書きを教えることになった。
赤ん坊だったユイは、母セラと暮らしながら、休みの日には倉庫へ遊びに来ていた。
その夜、ライアンは机に向かった。
ガイアへ。
怖いときほど周りを見ろ。
お前はいつも、誰が食べ損ねたか最初に気づく。
セーラへ。
難しい言葉を覚えても、助けを求める人の声を聞き逃すな。
ノアへ。
壊れたものを直す手を、いつか誰かが帰れる橋のために使ってくれ。
ひとりずつ書いた。
百通すべてを書き終えたとき、窓の外は明るくなっていた。
封筒に名前を書きながら、ライアンは気づいた。
誰も同じ言葉では送り出せない。
百人をまとめて「子供たち」
と呼んでいたころには、分からなかったことだった。
出発の日、ガイアは手紙を読んで顔をしかめた。
「俺のこと、そんなに見てたのか」
「親だからな」
「じゃあ、俺が怖がってるのも分かる?」
「ああ」
「父さんも?」
「怖いよ。お前が遠くへ行くのが」
ガイアの表情が崩れた。
「だったら、行くなって言ってくれれば」
「それは言わない。俺の寂しさで、お前の道を狭くしたくない」
ライアンは息子の肩に手を置いた。
「強くなれ。でも、弱い人を踏む強さはいらない」
ガイアは何度も頷いた。
見送りに集まった子供たちは、もう子供と呼ぶには背が高かった。
何人かは別の季節に出発する。
今日残る者も、いつか自分の道を選ぶだろう。
馬車が動き出すと、エルが手を振った。
エマは窓から身を乗り出し、マリナに引き戻された。
ノアは最後までライアンを見ていた。
ライアンは笑って手を振り続けた。
馬車が角を曲がり、見えなくなってからも。
背後でガストンが言った。
「泣いていいんだぞ」
「泣いてません」
「鼻が赤い」
「寒いだけです」
ガストンは笑い、温かい飲み物を渡した。
夜、食卓の席は半分ほど空いていた。
ライアンは皿を並べる手を止め、使わない皿を棚に戻した。
そのとき、戸を叩く音がした。
近所の少年が、読み方の分からない手紙を持って立っていた。
母親が遠くの町へ働きに出て、返事を書きたいのだという。
「入れ。明かりはまだある」
ライアンは少年を椅子に座らせた。
ライアンは少年に紙と筆を渡した。
「何を書けばいい?」
「最初は、無事だと伝えるだけでもいい。お母さんが安心する」
少年は何度も筆を止めた。
文字を知らないところはライアンに尋ね、一文字ずつ書き足した。
やがて紙には、短い言葉が並んだ。
『ぼくは元気です。
帰ってきたら、いっしょにごはんを食べよう』
「これで届く?」
「届けよう。宛先を一緒に確かめて、明日出しに行こう」
少年が帰ると、ライアンは引き出しから書きかけの封筒を取り出した。
ガイアに渡した手紙には、偉くなれとも、恩を返せとも書かなかった。
『困ったときだけでなく、嬉しいことがあったときにも帰ってこい』
同じ一文を、これから旅立つ子供たちの手紙にも残すつもりだった。
けれど百通すべてを今日書き終える必要はない。
幼い子にはまだ時間がある。
進路を迷う子には、決めるまで待てばいい。
百人を同じ日に送り出すことが、父親の役目ではなかった。
ライアンは明かりを消す前に、空いた椅子を一脚だけ食卓へ戻した。
明日の朝、誰かが帰ってくるとは限らない。
それでも帰ってきた人が、遠慮せず座れるように。
そして今夜、手紙を書くために訪ねてきた少年にも、同じ椅子を貸せるように。
この家の戸は、出発する人にも帰ってくる人にも開いている。
旅立ちの名簿を確認していたマリナが、ひとつの封筒を戻した。
「この子、進学を辞退したって。弟の面倒を見るからって書いてある」
ライアンは本人を呼んだ。
少年は叱られると思ったのか、膝を揃えて座った。
「弟を置いて行けない」
「弟の暮らしを一緒に考えよう。お前が学びたい気持ちまで、置いて行かなくていい」
弟を預かる人を決めるのに三日かかった。
引き受ける人にも都合があり、費用も要った。
マリナが当番表を作り、少年自身が弟に説明した。
出発の日、弟は泣いた。
それでも少年の袖を放し、ライアンの手を握った。
「兄ちゃん、帰ってくる?」
「帰ってくるよ。手紙も書く」
ライアンは初めて、空いた椅子がただ寂しさの印ではないと知った。
誰かの選択を支えたあとに残る場所なのだ。




