最終話 じゃあな
魔王城を出てから、しばらく二人は無言で歩いていた。
魔王軍の領域から東の森へ向かう道。
空はすっかり明るくなっていた。
冷たい風が草を揺らし、美咲の髪をなびかせる。
先に口を開いたのは美咲だった。
「……なんなの、あの魔王?」
「さぁ〜な……」
悠斗は頭の後ろで手を組みながら歩く。
「少なくとも、人間を滅ぼしてやる、とかは思ってないよ」
「へぇ〜」
美咲が横から悠斗の顔を覗き込んだ。
「ずいぶんよく理解してるのね?」
「そういうわけでもないけど」
「二人でずいぶん長くお話ししてたみたいだし?」
「なんだよ」
「別に?」
美咲は前を向いた。
数歩歩いてから、ぽつりと言う。
「……すっごい美人の魔王だったね」
「そうか?」
悠斗は本気で首を傾げた。
「そうか? って……あれを美人じゃないって言ったら誰が美人なのよ」
「知らねえよ」
「好きになったりして?」
「バカ。そんなわけねーだろ」
「ふーん」
「なんだよ、その顔」
「別に〜」
「お前なぁ……」
二人の声が、静かな道に響いた。
少し前まで。
戦争をしていたとは思えないほど穏やかだった。
やがて――。
前方から大量の足音が聞こえてきた。
悠斗と美咲が立ち止まる。
「……魔王軍?」
森へ続く道を、魔族の軍勢が進んでいた。
だが。
こちらへ向かっているのではない。
逆だった。
魔族領へ向かっている。
撤退しているのだ。
先頭を歩く魔族たちが美咲を見る。
一瞬、緊張が走った。
美咲も剣へ手を伸ばしかける。
だが――。
誰も武器を抜かなかった。
魔族たちは二人の横を通り過ぎていく。
人間と魔族。
つい先ほどまで敵だった者たちが、何もせず、ただすれ違う。
悠斗はその光景を見送った。
「……撤退させたんだな」
「みたいね」
美咲も振り返る。
遠ざかっていく魔王軍。
「本当に、よく分からない魔王」
「本人も分かってないんじゃねえの?」
「何を?」
「人間のこと」
悠斗は少し笑った。
「まだまだ勉強が足りないって言ってたし」
「魔王が勉強ねぇ……」
美咲も笑う。
「変なの」
「ああ」
二人は再び歩き出した。
東の森へ入った。
以前なら魔物を警戒しながら進んだ道。
今は不思議なほど静かだった。
時折、木々の奥から魔物の気配がする。
だが襲ってこない。
風が枝葉を揺らす。
その音を聞きながら、悠斗は魔王の言葉を思い出していた。
――この世界の魔力は、すべて大地を巡っておる。
――人も、魔族も、魔物も、大地より力を借りておるにすぎぬ。
そして。
――そなたにも、還る時が来る。
悠斗は自分の手を見る。
今はまだ、何も変わっていない。
ちゃんとここにいる。
でも。
いつか。
その時は来る。
「悠斗?」
「ん?」
「どうしたの?」
「いや。なんでもない」
美咲は何か言いたそうだった。
だが、それ以上聞かなかった。
二人とも。
もう分かっていた。
言葉にしないだけだった。
森を抜ける。
視界が一気に開けた。
平原。
そこには――。
「勇者様!」
「悠斗殿!」
王国軍が待っていた。
「美咲!」
「悠斗!」
歓声が上がる。
その中から、身体中に包帯を巻いた師団長が歩いてきた。
「無事だったか!」
「師団長!」
悠斗が駆け寄る。
「そっちこそ……ボロボロじゃないですか」
「この程度、どうということはない」
「いや、どう見てもどうということありますよ」
「ははは!」
師団長が笑った。
「勇者様も、ご無事で何よりです」
「師団長も」
美咲が笑う。
「勝ったんですね」
「なんとかな」
その時。
悠斗は平原の一角に描かれた巨大な魔法陣に気づいた。
「……なんだ? このデカい魔法陣」
直径だけでも何十メートルある。
まだ淡い魔力の光が残っていた。
「ああ、それ?」
美咲が答える。
「みんなが、わたしを馬ごと転移してくれたのよ」
「馬ごと!?」
「そう」
「それであそこに美咲が来たのか」
悠斗はようやく納得した。
「うん。詳しい座標までは分からなかったけどね」
美咲が魔族領の方角を見る。
「あの第一砦より、もっと東。それだけは分かってたから」
「無茶したな……」
「誰のためだと思ってるの?」
「……俺です」
「よろしい」
悠斗が笑う。
美咲も笑った。
師団長はそんな二人を見てから、王国軍へ振り返った。
大きく息を吸う。
「全軍!」
兵士たちが一斉に姿勢を正す。
「王都へ撤退する!」
「おおおおおっ!!」
長かった戦いが――終わった。
王宮へ戻った悠斗たちは、すぐに王へ報告を行った。
玉座の間には王だけでなく、大臣、近衛兵、魔法使い、魔道具研究所の者たちまで集まっていた。
悠斗は魔王との会話を、できる限りそのまま伝えた。
魔王が人間そのものに興味を持っていること。
なぜ人の想いが世代を越えて残るのか疑問を抱いていること。
そして。
今回の戦いを終わらせたこと。
王は長い間、黙って聞いていた。
やがて。
「悠斗よ」
「はい」
「そなたは、魔王をどう見た?」
悠斗は少し考えた。
「……話し合いができる奴でした」
周囲がざわつく。
「悠斗」
美咲が小さく名前を呼ぶ。
だが悠斗は続けた。
「もちろん、敵じゃなくなったって意味じゃありません」
「これからも魔族と人間で、小競り合いはあると思います」
「長く続いてきた戦争が、今日いきなり全部終わるなんてこともないと思います」
王は黙って聞いている。
「でも――」
悠斗は魔王との会話を思い出す。
「話せるんです」
人間のことを知りたいと言った魔王。
美咲の言葉に、分からないと答えた魔王。
知らないまま滅ぼしては、永遠に答えが分からないと言った魔王。
「だったら」
悠斗は言った。
「また争いが起きたら、その都度話せばいいんじゃないですか」
「何度でも」
玉座の間が静まり返る。
やがて王は目を閉じた。
「……そうか」
そして。
ゆっくり頷いた。
「覚えておこう」
それだけだった。
和平が結ばれたわけではない。
戦争が永遠に終わったわけでもない。
明日になれば、また何かが起こるかもしれない。
それでも。
話せる相手だと知った。
それだけで。
昨日までとは少しだけ違っていた。
報告を終えた二人は、王宮の一室を借りて休んでいた。
窓の外は夕暮れ。
戦いから帰った王都にも、少しずつ日常が戻り始めている。
悠斗は床に座っていた。
美咲もその隣にいる。
二人とも――。
何も話さなかった。
魔王の言葉。
二人とも分かっている。
悠斗が、この世界にいられる時間は永遠ではない。
でも。
いつなのかは分からない。
今日なのか。
明日なのか。
もっと先なのか。
だからこそ、何を話せばいいのか分からなかった。
「…………」
「…………」
悠斗が耐えきれなくなった。
「なあ」
「ん?」
「ゲームでもするか?」
美咲が悠斗を見る。
そして。
小さく笑った。
「うん」
悠斗はゲーム機を取り出した。
魔力を流す。
二人の前に、大きなゲーム画面が浮かび上がった。
「これも久しぶりな感じするな」
「この前やったばっかりじゃない」
「いろいろありすぎたんだよ」
「それはそうね」
コントローラーを握る。
対戦開始。
一戦目。
「はい、わたしの勝ち」
「クソ!」
二戦目。
「また勝ち」
「待て待て。今のはボタン間違えた」
「言い訳しない」
三戦目。
「はい」
「…………」
「三連敗〜」
「もう一回!」
「いいわよ」
四戦目。
美咲が勝った。
「お前、本当にこのゲームだけ強いな」
「このゲーム『も』でしょ?」
「うるせえ」
「ふふっ」
少しだけ。
いつもの二人に戻れた。
戦争も。
魔王も。
異世界も。
全部忘れて。
昔と同じように。
ただゲームをする。
五戦目が始まった。
「今度こそ!」
「何回聞いたかな〜」
「黙ってろ!」
悠斗がコントローラーを操作する。
その時だった。
美咲の指が――止まった。
「……悠斗?」
「なんだよ」
「ちょっと……」
「今話しかけんな。今回いいところなんだから」
「違う」
美咲の声が震えた。
「悠斗……」
悠斗が美咲を見る。
「何――」
美咲は。
悠斗の手を見ていた。
「…………」
悠斗も見る。
指先。
向こう側が――。
見える。
「……あ」
ほんの少し。
悠斗の身体が透けていた。
美咲がコントローラーを落としかける。
「悠斗……!」
画面の中。
美咲のキャラクターが止まった。
「……来たか」
悠斗は自分の手を見る。
怖くないと言えば嘘になる。
でも。
どこかで分かっていた。
「悠斗……」
美咲が立ち上がろうとする。
「待て」
「でも!」
「続けよう」
「何言ってるの!?」
「まだ終わってないだろ」
「ゲームなんて――!」
「美咲」
悠斗が笑った。
「最後までやろうぜ」
「…………」
美咲は何も言えなかった。
震える手で。
もう一度コントローラーを握った。
「……バカ」
「知ってる」
ゲーム再開。
でも。
美咲の動きは明らかにおかしかった。
悠斗を見る。
画面を見る。
また悠斗を見る。
身体が。
少しずつ。
本当に少しずつ薄くなっていく。
「美咲」
「……なに」
「画面見ろよ」
「見てる」
「見てねえだろ」
「うるさい……!」
声が震えていた。
悠斗のキャラクターが攻める。
いつもなら美咲は簡単に防ぐ。
だが。
遅れた。
一撃。
二撃。
「おいおい」
悠斗は笑う。
「今日のお前、弱いぞ」
「……うるさい」
「このまま勝っちゃうぞ」
「……うるさいってば」
最後の一撃。
画面に大きな文字。
WIN
「…………」
悠斗が勝った。
初めて。
このゲームで。
美咲に勝った。
「……勝った」
美咲は何も言わなかった。
「やっと勝ったぞ」
「…………」
「美咲?」
美咲は俯いている。
「……ずるい」
「何が」
「こんな時に……初めて勝つなんて……」
悠斗も笑えなくなった。
ゲーム画面が静かに消える。
二人の間に。
沈黙が戻った。
その時。
――カチャ。
小さな音。
二人が同時に顔を上げた。
何もなかった王宮の壁。
そこへ。
ゆっくりと。
ドアが現れ始めていた。
「…………」
悠斗が立ち上がる。
「ドアが……」
美咲は何も言わなかった。
ただ。
そのドアを見つめていた。
悠斗の腕は、もうはっきりと透けている。
「……時間だな」
「早すぎるよ」
美咲が呟いた。
「もう少しくらい……いいじゃん」
悠斗は答えられなかった。
美咲の目に涙が溜まっている。
でも。
悠斗は笑った。
「でもさ」
「……なに?」
「二度と会えないところから――」
悠斗は美咲を見る。
「ちゃんと別れの言葉が言えるところまで来られたんだ」
美咲が唇を噛む。
「……うん」
「これって、奇跡だよ」
美咲は涙を拭った。
「……そうかもね」
悠斗の身体が、さらに薄くなる。
向こう側の壁が見えるほどに。
「もう戻らないと」
悠斗はドアの前へ歩いた。
美咲も立ち上がる。
悠斗の隣まで来る。
「…………」
「…………」
言葉が出なかった。
もう。
何を言っても足りない。
美咲が一歩近づいた。
悠斗も。
そして。
二人は無言で抱き合った。
悠斗の腕が美咲の背中へ回る。
美咲が強く悠斗の服を握った。
「…………」
「…………」
顔を離す。
目が合う。
どちらからだったのか。
分からなかった。
二人は――。
初めて、キスをした。
ほんの短い。
触れるだけのキス。
唇が離れる。
美咲の目から、涙が一筋落ちた。
悠斗は笑った。
「俺も」
美咲を見る。
「美咲も」
少しだけ間を置いて。
「もう大丈夫だな」
美咲は泣きながら笑った。
「……うん」
悠斗はドアノブへ手をかける。
ガチャ。
今度は。
何の抵抗もなく開いた。
向こうには。
あの部屋。
自分の部屋がある。
悠斗が一歩入る。
そして。
最後に振り返った。
美咲がいる。
異世界で生きる美咲。
もう。
連れて帰る必要はない。
助ける必要もない。
美咲は。
ここで生きていける。
悠斗は笑った。
「じゃあな」
美咲も笑う。
涙を流したまま。
「じゃあね」
ドアが閉まった。
「…………」
悠斗は自分の部屋に立っていた。
静かだった。
机。
ベッド。
ゲーム機。
本棚。
何も変わっていない。
時計を見る。
「……マジかよ」
時間が――。
ほとんど進んでいなかった。
まるで。
異世界で過ごした時間すべてが、夢だったかのように。
悠斗は自分の手を見る。
透けていない。
元に戻っている。
「……帰ってきたんだな」
悠斗は部屋を見回した。
ここから始まった。
美咲との思い出が残りすぎていて。
捨てることも。
片づけることも。
前へ進むこともできなかった部屋。
「……ありがとう」
悠斗は呟いた。
誰に言ったのか。
自分でも分からなかった。
美咲へなのか。
異世界で出会った人たちへなのか。
それとも。
この部屋へなのか。
返事はなかった。
「……そっか」
悠斗は少し笑った。
その時。
ガチャ。
部屋のドアが開いた。
「悠斗?」
「母さん」
母親が立っていた。
「どうしたの?」
「いや……」
母親は悠斗の顔を見る。
そして。
静かに言った。
「悠斗」
「ん?」
「悲しいけど……前を向かなきゃダメよ」
「…………」
異世界では。
あんなに長い時間を過ごした。
だが母親にとっては。
まだ何も時間が経っていない。
あの日のままなのだ。
美咲を失って。
部屋に閉じこもっていた悠斗へ。
母親は言っている。
悠斗は笑った。
「分かってるよ」
「……悠斗?」
「もう大丈夫だから」
母親は少し驚いた顔をした。
だが。
それ以上、何も聞かなかった。
「……そう」
小さく笑って。
部屋を出ていった。
ドアが閉まる。
窓から風が吹き込んだ。
カーテンが、ふわりと揺れる。
悠斗は部屋を見回した。
机。
ベッド。
ゲーム機。
美咲と何度も遊んだ場所。
何も変わっていない。
時計の針さえ。
ほとんど動いていない。
異世界で過ごした時間など、最初から存在しなかったかのように。
けれど。
悠斗には分かっていた。
何もなかったわけじゃない。
美咲ともう一度笑った。
一緒に歩いた。
戦った。
ゲームをした。
そして――。
今度は。
ちゃんと別れを言えた。
悠斗の視線が、机の上で止まる。
そこには。
美咲の写真があった。
笑っている。
以前なら。
その笑顔を見るだけで胸が締めつけられた。
今も悲しい。
きっと明日も悲しい。
これから先も。
ふとした瞬間に思い出すだろう。
忘れることなんてない。
悠斗は写真を手に取った。
しばらく見つめる。
そして。
伏せなかった。
引き出しにも入れなかった。
机の上へ。
見えるように、そっと戻した。
窓から、また風が吹く。
写真の端が小さく揺れた。
悠斗はそれを見て。
少しだけ笑った。
そして。
部屋の出口へ歩き出した。
もう。
この部屋から出ることは怖くなかった。
思い出は、忘れるためにあるのではない。
抱えたままでも、人は前へ進める。
悠斗はドアを開けた。
そして、自分の足で部屋の外へ出た。
部屋はもう、何も答えなかった。
その必要が、なくなったからだ。
――完――




