第3話 スシオースキルで、店に平和を取り戻しました
第3話、寿司テロ事件の決着編です。
第1話・第2話から続けて読むのをおすすめします。
俺は罠を仕掛けていた。
西街区に残ってバイトをしていたこの数日間、俺は新しいスキルを解放していた。
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・Lv1 メニュー記録 使用可
・Lv2 需要予測ダッシュボード 使用可
・Lv3 皿追跡サラメトリー 使用可
・Lv4 寿司テロアラート ロック中
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「サラメトリー? ダジャレか…?」
「寿司皿に魔力を込めて発動。皿が見聞きした記憶を、最大数十分間記録。同時に仕込める枚数は魔力に比例する。」
要するに皿限定のサイコメトリーか。皿に手を当て念じると、その皿が見ていた光景と、聞いていた音声が再生されるようだ。
試しに、店の備品の皿に手を当ててみた。淡い光が走って、視界に映像が浮かぶ。
ペンタが朝、皿を磨いている姿。ミミがその横を耳を揺らして通り過ぎる姿。湯気の立つレーンの音。
……これは思っていた以上に使えそうなスキルだ。
しかし、制限がある。俺の今の魔力では一枚しか仕込めないようだ。だから、無差別に張るんじゃなく、一枚の皿を確実に犯人の席に届ける必要がある。
ペンタの店を手伝いながら、俺は不良グループの行動パターンを、滞在中ずっと頭の中に刻みつけていた。
メンツに多少の差はあるが、来店時間は決まって午後三時前後。座る席はボックス席の三番か四番。頼むのはアルコールいくつかと揚げ物盛り合わせ。そして、コラボキャンペーンのピックを集めたがっている。リーダーは貝の皿を狙っていることが、聞こえてくる会話から分かっていた。
あとは、コラボ皿を、確実にリーダーの席まで届ければいい。
そんなこと、できるのか…?
と、いうのも海響亭のレーンは、店舗中央を一周する楕円形の従来型だ。皿は厨房から流される瞬間に方向が決まり、あとは一定速度で循環する。スシオーのような短かいループ型ではない、異世界人の俺からすると「少し懐しい」、昔ながらのレーンルートになっている。
この楕円型のレーンには席による有利不利がある。
厨房から最初に流れてくる席は、皿の選択肢が一番多い。逆に、レーンを半周近く回ってから到達する席は、その間に他の客が手を伸ばす可能性がある。席次第で残りものしか回ってこない可能性がある訳だ。
特定の席に狙った皿を確実に届けるには、この昔ながらのレーンでは乗せるタイミングが重要になる。客の配置や食べたい皿の傾向など——全部を計算する必要があった。
幸い、俺はそういう計算はお手の物である。
ペンタ店長とミミに、罠の概要だけは説明しておいた。
「証拠を取る方法があります。明日、不良グループが来たら、いつも通りに対応してください」
「なんで、明日不良グループが来ると思うんだい?」
ペンタ店長は怪訝な顔をした。
「コラボキャンペーンの期間ってあと5日ですよね。 前回ヤツらが来たとき、まだコラボピック揃えきれなかった。今日は来なかったので、期間中の祝日は明日が最後。 グループで来れるとしたら明日が一番可能性が高いんです。」
ミミは「わ〜、楽しそう♪」と耳をぴょこぴょこさせて、能天気に協力的だった。
ペンタは「失敗したらどうしましょう……うう、また泣いちゃう……」とビクビクしていたが、最後には「やります…」と頷いた。
あとは、不良グループが来るのを待つだけだった。
◆◆◆
予想が当たった…! 俺がレーン脇で皿を整えていると、暖簾が騒々しく揺れた。
あの四人組が、また入ってきたのだ。
ジャラジャラとしたアクセサリー。サングラス。革ジャケット。リーダーの犬獣人が、勢いよくこちらに向かって笑った。
「おいおい、まだこの店、営業してんのかよ!」
「俺らがしっかり見てやんねとダメだなぁ!」
「ちゃんと衛生管理してんだろうなぁ?」
「噂、もっとひどくなってんぞ!」
ペンタが厨房の奥で、ヒッ、と短く息を吸い込んだ音が聞こえた。
俺は厨房の影から、ペンタに小さく耳打ちした。
「ペンタさん、いつも通りで」
「ううっ、はい……」
ミミが「いらっしゃいませ〜♪」と、いつも通りののほほんとした様子でフロアを回る。
不良グループはボックス席の三番に座った。空いているから好きな席に座る。レーン開始位置に座ってくれた。閑古鳥は良くないが今だけは感謝した。ヤツらがアルコールと揚げ物盛り合わせを注文する。
リーダーが、流れる皿を眺めながら言った。
「コラボピック、あと1つだってのによぅ。集まってねぇんだよなぁ。今日は何にすっかな。まず、唐揚げだろ? あとは…」
来た。情報通り。
俺は厨房に戻って、サラメトリーを仕込んだコラボ皿を準備した。皿の上には唐揚げ。釉薬の輝きの粒度、模様の彫りの深さ、縁の角度、底の重みのバランス——いつ見ても惚れ惚れする皿だった。
貝殻を粉砕して練り込んだ釉薬は、前世で見た螺鈿細工そのものだ。決めた。お前の名前は今日から「螺鈿皿」だ。
「頼むぜ…螺鈿皿…!」
皿に手を当てて、魔力を込める。淡い光が走って、皿が記録モードに入った。
あとは、流すタイミングだ。
他の皿の配置を、頭の中で再計算する。レーンに今乗っている皿の位置、速度、他の客の手の動き。リーダーの席に皿が到達するのは、流してから約九十二秒後ってところか。
皿が、ゆっくりと動き出す。
他の客の席を通過していく。誰も手を伸ばさない。そう設計した。皿の前後には、客の年齢層が好まないメニューを並べてある。鯵の煮付けと、薄味のスープ。リーダーの席まで届くまで、誰も貝の皿には手を伸ばさない。
計算通り、リーダーの席にコラボ皿が到達した。
「お、来た来た!やっぱ揚げもんだよな! もらうわ」
リーダーが皿を取った。
……罠にかかった!
◆◆◆
リーダーは、唐揚げをペロリとたいらげて、皿を席に置いた。シェアとかしないんだな…。
皿はそのまま、テーブルの彼らの上で、全てを記録し続けている。
ヤツらは気付かず話し始めた。
「今日も毛ぇ入れて噂さらに広めるか」
「リーダー、また毛? ワンパだろwww」
「いいんだよ、ペンタの泣き顔がいい肴になるんだから」
「ぎゃはははは」
俺は厨房の影から、淡々と聞いていた。皿は喋らないが、その代わりに全部を覚えてくれている。
しばらく盛り上がった後、リーダーが新しい皿をレーンから取った。手元で何かをして、髪の毛を一本、わざとらしく落として、レーンに戻す。
例によって、声を上げる。
「うわっ、なんだよこれ! 毛が入ってんじゃねえか! この店、不衛生だぞ!」
手下が呼応する。
「噂、本当だったんだな」
四人は次々に皿を押しのけて立ち上がった。
「こんな不衛生な店、金は払わねぇからな!」
「当たり前だよなぁ!」
ペンタが厨房の奥で、ヒレで顔を覆って震えていた。どうしたらいいのかと、すがるような目で俺を見ていた。
大丈夫、今日は土下座させませんよ。店長。
俺は、レーン脇から進み出た。
◆◆◆
「待ってください」
不良四人がぎょっと足を止める。
リーダー「あぁ? なんだよ、お前、毛がねぇな、人間か!」
俺は静かに彼らに告げた。
「お会計、お願いします」
リーダー「だから、毛が入ってたって言ってんだろ! 不衛生な店に金は払わねぇ!」
「毛が入っていたという証拠は?」
「証拠? 目の前で見ただろうが!」
「私たちが見たのは、あなたが皿に毛を落とす瞬間でした」
不良グループが一瞬、固まった。
俺は記憶を辿りながら、淡々と告げた。
「皆さんが入店されたのは午後三時十二分。注文されたのはアルコール三種と揚げ物盛り合わせ。座られたのはこの三番ボックス席。これまでの来店パターンと完全に一致しています」
リーダー「だから何だよ」
「先ほど、リーダーさんが取られた唐揚げのコラボ皿。あれは支店に二十枚しかない限定の意匠です。今日、私が一枚だけレーンに流しました」
リーダー「だから何だっつってんだろ!」
「あの皿は、皆さんのテーブルにいる間ずっと、見聞きしていました」
ペンタが「えっ……?」とヒレで口を覆った。ミミが「わ〜、なんかすごい話になってきました〜」と耳をぴょこぴょこさせている。
リーダー「は? 皿が見てた? 頭おかしいんじゃねえのか」
「お疑いなら、ご覧に入れます」
その時、黒と白の例の巨体が、暖簾をくぐりあらわれた。オルカだ。
「面白そうな話してるねぇ、アタシにも聞かせておくれよ」
馬車を急がせて、駆けつけたらしい。後頭部の長い髪——髪なのかヒレなのか分からない黒い何か——が、わずかに逆立つように揺れていた。鼻先からふっと白い霧が漏れる。湿った息が、空気中で水滴になる。
不良四人がぎょっと足を止めた。
オルカは、ゆっくりと店内を見渡して、それから俺を見て、低く笑った。
「ちょうどクロサカから昨日連絡もらってね。まさかこんなにドンピシャになるとは」
「ご足労、すみません」
「アタシの店で、アタシの仲間を泣かせて、ただで帰れると思ってたのかい」
オルカが一歩、前に出る。石造りの床が、わずかに揺れた気がした。
不良グループ、青ざめる。リーダーが後ずさりしようとしたが、入り口はオルカの巨体で塞がれていた。
俺は、ペンタとミミに振り向いた。
「ペンタさん、ミミさん、人を呼んできてもらえますか」
「えっ、いきなり、いったい誰を……」
「街の人を、できるだけ多く。特に若い子たちを」
「あ、そういうことですね!はい!」
ペンタがヒレをぱたぱたさせて、転がるように店を飛び出していった。
ミミもその後を「私も呼んできま〜す♪」と耳をぴょこぴょこさせて続いた。
リーダー「おい、何しようとしてんだ」
オルカ「逃げないでねぇ。アタシが入口塞いでるよ」
◆◆◆
しばらくして、街の若者たちがぞろぞろと店に入ってきた。
「海響亭で何かあるらしいよ」
「噂の犯人が捕まったって聞いたぞ」
「あの不良連中じゃん」
店内が満員になっていく。不良グループの顔が、さらに青くなる。
俺は、テーブルの上に置かれていたコラボ皿に、手を当てた。
皿が、淡く発光する。
「コラボ〜、コラボ〜! マツテンカーニバル〜!今なら限定ピック5種類がお食事で手に入る!」
店内の奥、テン・マツダイラの店内放送を流すスピーカー兼投影魔道具に、映像が浮かび上がった。
空中に投影された半透明の映像。
不良グループが入店してから、今までの一部始終だった。
リーダーの声が、店内に響く。
『コラボピック、まだ集まってねぇんだよなぁ』
『今日も毛ぇ入れて噂さらに広めるか』
『ペンタの泣き顔がいい肴になるんだから』
『ぎゃはははは』
髪の毛を落とす瞬間が、はっきりと映っている。
『うわっ、なんだよこれ! 毛が入ってんじゃねえか!』
再生された映像を見た、若者たちが、ぎょっと顔を上げた。何か面白いことがおこると野次馬気分で集った彼らは興奮気味に声をあげた。
「あいつら、噂の出所じゃねえか」
「最低だな」
「俺ら、こいつらの噂、信じてたんかよ……」
不良グループが、必死で言い訳を始めた。
「こ、これは合成だ! 魔法で偽造したんだ!」
「本当はそんなこと言ってない!」
俺は静かに言った。
「では、こちらの細部もご確認ください」
◆◆◆
映像は、続きを再生していた。
不良グループのプライベートな会話。
貝を食べながら、リーダーが手下に言う。
『お、お前ら言うなよ、俺、実は泳げねぇんだから』
手下A『リーダー、犬なのに泳げねぇとか珍しいよなwwww』
リーダー『うるせぇ! お前だってお尻にハートマークあるくせに!』
手下B『やめろよ! あれは生まれつきだから!』
手下C『俺なんか、字読めねぇから婚活アプリ登録できねぇんだよ』
手下A『お前、まだ婚活してたのwwww』
リーダー『うるせえ! 俺の母ちゃんに言いつけるぞ!』
手下B『リーダー、まだ実家暮らしじゃんwww』
集まった若者たちが、ぷっと吹き出した。
誰かが笑い始めると、波のように広がる。
「お尻にハートマークってwww」
「犬なのに泳げないって、何wwww」
「実家のお母さんに言いつけるってwwww」
不良グループ、顔が真っ赤になる。リーダーが、ハートマークの手下を睨んだ。手下が「言うなって言ったじゃねえか!」と返す。仲間内で揉め始める。
俺は静かに告げた。
「もしこれが合成なら、本人同士で揉める必要はないはずですよね? 偽物なら、堂々と否定すれば済む話です」
不良グループが、はっと口をつぐんだ。
オルカが、低く笑った。
「これで証拠は十分だね」
リーダー「く、くそっ! 覚えてろよ!」
逃げようとする四人を、オルカが大きな手でまとめて掴んだ。
「逃がさないよ」
◆◆◆
街の若者の一人が、声を上げた。
「衛兵呼びましょうか?」
オルカは、首を振った。
「いや、いいよ」
リーダー「は……?」
「衛兵に突き出しても、賠償金なんて取れやしない。あんたら、いくら持ってんだい」
リーダー「そ、それは……」
「だろうね。じゃあ、別の方法で償ってもらうよ」
オルカが、ニヤリと笑った。鋭い歯が並ぶ。
「しばらく、海響亭でタダ働きしな」
リーダー「はあ?」
「まずは、この西街区店で。皿洗いから始めて、ペンタとミミに使ってもらう。期間は……そうだね、客足が完全に戻るまで」
ペンタが「えええっ、私が使うんですか!? 無理ですよぉぉぉ!」と泣き叫び始めた。
ミミが耳を揺らして「わ〜、楽しそう♪ 私、ちゃんと指導しますね〜」とのほほん。
リーダー「冗談じゃねえ、そんなの……」
オルカが鼻先から白い霧を吐いた。ギザギザの歯が音を立てる。後頭部の髪が、ふわりと揺れる。
「他に償う方法あるなら、言ってみな」
リーダー「やります……」
四人がしおれた。
集まった若者たちが、おおっ、と声を上げる。
「シャチの社長、かっけぇな」
「あの巨体に逆らえる気がしねえ」
俺は、ほっと息を吐いた。
◆◆◆
数日後、不思議なことが起きた。
街の広場のモニター、投影魔道具に、ある日突然、あの映像が流れるようになった。
不良グループの寿司テロ映像と、コンプレックス暴露の場面が、「こういうことはやめよう!」というテロップ付きで流れていた。
誰が流したのか、分からないことになっている。
俺がミミに「あれ、誰がやったんでしょうね……」と聞くと、ミミは耳をぱたぱたさせて、
「さあ〜♪ でも、誰かが正義感に駆られたんじゃないですかね〜♪」
と、にこにこしながらごまかした。
……このウサギ、見た目より食えない。
街の若者たちの間で、「ハートマーク」「実家暮らし」が流行語になっていた。
翌週、海響亭の支店に客が戻ってきた。
「あの店、皿が記憶を持ってるらしいぜ」
「悪さしたら全部バレるって」
「やめとけ、バレるって」
あまり褒められたものじゃないが、あの動画が流れたことで抑止力として機能。したのかもしれない。西街区店の客足が完全に戻ったのだ。
ペンタが厨房の奥で、相変わらず泣き叫んでいる。
「お客様、戻ってきてくれましたぁぁぁ! うれしくて涙が止まらないですぅぅぅ!」
ミミが「ペンタ店長、いつもの調子ですね〜」とのほほんと出汁を取っている。
店の裏では、不良グループが皿洗いをしていた。リーダーが虚な目で皿を擦っている。
「もう二度と、寿司テロなんて、しねえ……」
ハートマークの手下が、横で「リーダー、皿の汚れ残ってますよ」と慰めるように言った。リーダーが「うるせぇ!」と返す。
ミミが「は〜い、二人とも、仲良く〜♪」と監督していた。
平和だ。だいぶ妙な平和だが、平和には違いない。
◆◆◆
あれからさらに数日が経った。
本店に戻ったある夜、二階の自室でステータス画面を開いてみた。
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・需要予測ダッシュボード 使用可
・皿追跡サラメトリー 使用可
・寿司テロアラート 使用可
・メニュー記録 使用可
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寿司テロアラートが、いつの間にか解放されていた。
タップしてみると、説明文が浮かぶ。
「レーンに戻された皿を検知して、アラートを発します」
……今度は、戻された瞬間に教えてくれるやつか。
「もう、必要ない気もするけど、何かに使えたらいいかもしれないな。」
階下に降りると、ラトラ先輩がカウンターで皿を拭いていた。
「お疲れ、クロサカくん。西街区、大変だったでしょ」
「いえ、楽しかったです」
ラトラ先輩は少し笑って、「変な子」と呟いた。
厨房の奥から、オルカが裏口を抜けて出ていく姿が見えた。
俺は、自然と後を追っていた。
◆◆◆
オルカが、外に出された樽に雑に腰を下ろしていた。
海響亭の裏手から、下の街並みと、その向こうに広がる夜の海まで一望できる。湿り気を含んだ潮風が、肌にべたりと触れる。少し肌寒い。下の街の明かりはまばらで、点々と残るランプの光が、暗い水面にゆらゆらと反射していた。
俺は、オルカから半歩離れて、その横に立った。
しばらく、二人とも黙って海を見ていた。
「あんた、ほんとにバケモンだね」
オルカが、低く呟いた。
「俺、皿が好きなだけですよ。あ、元の世界では魔法じゃなくて『電気』ってやつで動いてたんですけど、あちらでは『ICチップ』ってのがあって、皿一枚一枚に仕込まれてるんですよ。どの席で誰が何枚取ったか全部記録できるんです。あと、落としても割れないんですよ、『プラスチック』ってのは陶器じゃなくてですね──」
「……あんた、女に話すような熱量で皿の話するのやめな」
「すみません」
オルカが少し笑った。
「それで、皿に店を救わせちまうんだから」
「経験ってほどでもないんだけどなぁ。皿の顔なんて、一回見たら覚えますよね」
「……うん、それやっぱり、バケモンだよ」
しばらく、また黙る。
潮風の音、下の街のかすかなざわめき、レーンの止まった海響亭の裏手。
「クロサカ」
「はい」
オルカが、こちらを見た。
「これから、アタシの行きつけの店、行かないかい。アタシの奢りでさ」
「えっ」
思わず顔を上げると、オルカがこちらを見下ろしていた。月明かりの中、つぶらな瞳と、ギザギザの歯。
……あれ、と思った。
普段、オルカと話している時には意識したこともなかった。シャチ獣人で、社長で、命の恩人で、雇用主で。だけど、こうして二人きりで月明かりの下で海を眺めて、隣に立って、誘われると、気づくことがあった。
彼女、女性なんだよな。
前世のスシオーのバックヤードで、皿を観察する合間に流し読みした動物図鑑のページが、なぜか頭をよぎった。「シャチの求愛行動:長時間にわたる体の擦り合い、胸びれによる愛撫的接触、多様な発声、追跡行動……」
いやいや待て。
誘われたのは食事だ。それ以上でもそれ以下でもない。働いた成果に対する慰労、上司から部下への、あくまで業務の延長線上の——。
でも、こうして月明かりで二人で海を眺めている時点で、業務の延長線上ってわけでもないよな。
「……どうした、クロサカ」
「いえ、その」
「行かないのかい」
「いえ、行きます。行きますけど」
「けど、何だい」
「社長と二人で飲むの、緊張するなと思って」
オルカが、少し笑った。低く、ゆっくりと。
「アタシも社長やる前は、ただの漁師の娘さ。気楽にしな」
オルカが立ち上がった。巨体が月明かりの中で揺れる。
「行こうか」
「はい」
二人で歩き出した。
湿った潮風、下の街のまばらな明かり。海響亭の裏手の坂道を、半歩離れて並んで降りていく。オルカの大きな背中と、その横を歩く自分の影が、月明かりの石畳に並んでいた。
月明かりの港町。
平和な、夜だった。
完
第3話まで読んでいただき、ありがとうございました。
海響亭のひと騒動はここでひと区切り、ひとまず完結です。
気が向いたら、業務用寿司ロボットを登場させたりして書きたいと思ってます。
面白かったら★や♡を押していただけると、励みになります。




