5話
シグバルトが全てを話したのは、冬の夜だった。
暖炉の前で、エルナが新しい調合の記録をまとめていた時のことだ。クレンツ邸に来て三ヶ月が経っていた。フローラとレオンハルトはあれ以来現れていない。ベルンスタットの冬は深く、雪が窓の外に積もっていた。
シグバルトが部屋に入ってきた。それ自体はいつも通りだった。夜にエルナの部屋を訪ねることは珍しくない。ただその夜は、入ってきた時の顔が違った。何かを決めた顔だった。
「話がある」
「どうぞ」
エルナは筆を置いた。
シグバルトは暖炉の前に立ち、しばらく炎を見ていた。それから、ゆっくりと口を開いた。
「私も、回帰者だ」
静寂。
暖炉の薪が爆ぜた。
「……いつから」
エルナの声は、思ったより落ち着いていた。
「三年前。死んで、十二歳の頃に戻った」
「死因は」
「魔力の暴走だ。満月の夜に制御できなくなって、自分の魔力に焼かれた」シグバルトは淡々と言った。「みっともない死に様だった」
エルナは黙ってシグバルトを見た。続きを待った。
「戻った直後から、前の人生の記憶を手がかりに動いた。呪いの原因を調べた。治療薬の理論を探した。だがどこにも答えがなかった。国中の薬師と治癒師を当たって、全員に匙を投げられた」
「それで、私のところに」
「違う」
シグバルトが初めてエルナの方を向いた。
「お前に辿り着いたのは、治療薬のためだけじゃない」
炎の光が、シグバルトの顔を照らしていた。いつも静かな顔が、今夜は少し違った。何か、長い間封じていたものを、ようやく開けようとしている顔だった。
「前の人生で、一度だけ、お前を見た」
「……どこで」
「処刑台だ」
エルナの手が、膝の上で止まった。
「お前が死ぬのを、見た。遠くから、剣を抜いて、走ったが、間に合わなかった」
知っていた、とエルナは思った。前の人生の最後の記憶に、遠くで剣を抜いた男がいた。誰かは分からなかった。なぜ抜いたのかも分からなかった。
「なぜ」
「縄が締まる前に、その令嬢は笑っていた」シグバルトは言った。「処刑台の上で、群衆を見下ろして、口の端を上げて笑っていた。負けていなかった。あんな場所で、最後まで、一人で立っていた」
エルナは答えなかった。
「名前も知らなかった。縁もなかった。ただ、それを見た時に」シグバルトの声が、わずかに変わった。「間に合わなかったことが、生涯で最も後悔したことになった」
暖炉が静かに燃えていた。
「回帰して最初にしたことは、その令嬢の名前を調べることだった。エルナ・ヴァルトハウゼン。隣国の侯爵令嬢。婚約者に嵌められて処刑された。それが全部だった」
「それで」
「今度こそ間に合おうと思った。処刑が起きる前に。婚約が成立する前に。あの笑顔の持ち主が、また一人で処刑台に立たなくていいように」
エルナは長い間、黙っていた。
暖炉の薪が、もう一度爆ぜた。
「私も回帰者です」
静かに言った。
「知っている」
「なぜ」
「あの婚約打診の場での対応が、十歳の子どものものじゃなかった。動じなさすぎた。計算が速すぎた」
「気づいていたなら、なぜ聞かなかったんですか」
「お前が話す気になるまで待とうと思った」
エルナは息を吐いた。
「私の前の人生では、あなたとは縁がなかった。名前は知っていたけれど、会ったことはなかった。処刑台にいたことも、死んでから気づいた」
「そうか」
「あなたは私を助けようとして、間に合わなかった。私はあなたの存在に気づきもしなかった。お互い様ですね」
シグバルトが少し目を細めた。「そういう言い方をするのか」
「事実です」
「……そうだな」
短い沈黙があった。
エルナは立ち上がった。暖炉の前に歩いて、シグバルトの隣に並んだ。炎を見た。
「一つ聞いていいですか」
「何でも」
「あなたが私に固執する理由は、前の人生で助けられなかった後悔ですか。それとも」
言いかけて、止めた。
続きを言うのが、少し、怖かった。
「それとも」とシグバルトが促した。
「……それとも、今の私を、好きだからですか」
答えは、すぐに来なかった。
シグバルトが炎から視線を外して、エルナを見た。真正面から、まっすぐに。
「両方だ」
エルナは動かなかった。
「後悔は本物だ。あの処刑台でお前を助けられなかったことは、今でも引っかかっている。それは消えない」シグバルトは続けた。「だが、それだけなら保護で十分だ。傍に置く理由にはならない」
「……では」
「今のお前が好きだ」シグバルトは迷わず言った。「用もないのに調薬室に座り込んでいたら『邪魔です』と言う。宝石を渡したら押し返す。騎士が百人倒れていたら夜通し一人で薬を作る。それで『誰でもできた』と言う」
エルナは何も言えなかった。
「お前が自分を過小評価するたびに、腹が立つ。お前が笑うたびに、今度はこの笑顔を守れると思う。それが今の私の話だ。後悔とは別の、今の話だ」
暖炉の炎が揺れた。
エルナの胸の奥で、何かが音を立てた。前の人生でも、今の人生でも、一度も聞いたことのない種類の音だった。
「……ずるい言い方をしますね」
「どこが」
「全部本当のことを言うから、反論できない」
シグバルトが口の端を上げた。笑った。珍しい顔だった。
「エルナ」
「何ですか」
「二度目の人生で、また一人でいるつもりか」
エルナは炎を見た。
一人でいい、と思っていた。前の人生で傷つけられた分、二度目は誰にも頼らずに生きようと思っていた。薬師として、自分の足で、誰の庇護も借りずに。
でも。
この三ヶ月で、この男の隣が、少しずつ当たり前になっていた。調薬室に来る足音が聞こえると、少し安心した。「私がいる」という言葉が、思い出すたびに胸の奥を温めた。
「……一人の方が楽です」
「知っている」
「あなたは過保護すぎる」
「自覚している」
「宝石は要りません」
「受け取るまで渡し続ける」
エルナは小さく笑った。気づいたら笑っていた。
「今度は絶対に死なせない」
シグバルトの声が、少し低くなった。
「一生、私の傍にいろ。守る。どこにも逃がさない。二度と一人で処刑台に立たせない。それだけは、絶対に」
絶対に、と彼は言った。
根拠のない確信で、この男はいつもそう言う。なのになぜか、その言葉に嘘の匂いがしない。二つの人生を生き直した男が「絶対に」と言う時、それはただの言葉じゃない。
エルナは、シグバルトの手を見た。
大きな手だった。騎士の手だった。前の人生で剣を抜いて、間に合わなかった手。今の人生で、頭に乗せて「よくやった」と言った手。
エルナはゆっくりと、その手に自分の手を重ねた。
「逃げません」
シグバルトが息を飲んだのが分かった。
「一人の方が楽なのは本当です。でも」エルナは続けた。「あなたの隣が、少しずつ居心地よくなってきているのも、本当なので」
「……それは」
「告白じゃないです。まだ」エルナは言った。「でも、傍にいることは、承諾します」
「薬師として、ではなく」
「薬師として、も。それ以外の何かとして、も」
シグバルトはしばらく、繋いだ手を見ていた。それから、もう片方の手で、エルナの手ごと包んだ。大きな手が、エルナの手を包んだ。
「ありがとう」
英雄が、静かに言った。
暖炉の炎が、穏やかに揺れていた。
◆
それから三年が経った。
エルナ・クレンツ、旧姓ヴァルトハウゼン。十三歳になった今、ベルンスタット王国でその名を知らない者はいなかった。救世の聖女と呼ばれることには今も慣れないが、薬師としての仕事は順調だった。調薬室は増築され、弟子が三人いた。騎士団の専属顧問という肩書きもついた。
正式な婚約は、エルナが「まだ早い」と言い張って延ばし続けていたが、先月ついに承諾した。シグバルトが例のサファイアの指輪を取り出した時、「三年も持ち歩いていたんですか」と呆れたら、「待つと決めていた」と言われた。本当に、嘘をつかない男だと思った。
隣国の方は、あの後すぐに変化があった。レオンハルトとフローラが帰国した半年後、フローラが「実はエルナへの嫌がらせを主導していた」という事実が発覚した。告発したのはかつて買収された侍女の一人で、良心が痛んだのだという。フローラは社交界から追われ、レオンハルトは次期国王の座を弟に譲ることになった。エルナは特に何も感じなかった。もう他人の話だったから。
「エルナ」
調薬室の扉が開いた。
「何ですか」
「昼食だ」
「あと少しで調合が終わります」
「それを言い始めて三時間経っている」
エルナは手を止めて、振り返った。シグバルトが扉に肩を預けていた。外套の肩に雪が積もっている。今日も訓練だったらしい。
「……少し待ってください」
「待つ」
シグバルトは部屋に入って、壁際の椅子に腰を下ろした。邪魔はしない。ただ、いる。三年経っても変わらない癖だった。
エルナは調合に戻りながら、思った。
前の人生では、薬師の夢を諦めた。二度目の人生では、薬師になった。前の人生では、一人で処刑台に立った。二度目の人生では、傍にいると言ってくれる人がいる。
全部、手に入った。
全部、自分のものになった。
「シグバルト」
「何だ」
「サファイアの指輪、今日からつけてもいいですか」
調合をしながら、さりげなく言った。
しばらく沈黙があった。
振り返ると、シグバルトが珍しく固まっていた。固まったまま、信じられないものを見る顔でエルナを見ていた。
「……なぜ急に」
「急じゃないです。三年考えました」
「それは……」
「嫌ですか」
「嫌なわけがない」
シグバルトが立ち上がった。外套の内側から、あの小箱を取り出した。本当に三年間持ち歩いていたらしかった。
エルナは調合を一時中断して、手袋を外した。シグバルトが指輪を取り出して、エルナの左手を取った。サファイアが、調薬室の明かりを受けて静かに光った。
「エルナ」
「何ですか」
「幸せか」
エルナは少し考えた。
薬草の匂いのする部屋。弟子たちの声。窓の外に積もる雪。指に嵌まったサファイアの重さ。隣に立つ、嘘をつかない男。
「はい」
迷わず言った。
「とても」
シグバルトが、ゆっくりと笑った。あの処刑台の遠くで剣を抜いた男が、二つの人生を経て、今、こんな顔で笑っていた。
エルナも、笑った。
二度目の人生は、ここにある。
薬草の香りと、隣の温もりと、これからの全部と一緒に。




