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第2話 浪費家王女or農業改革の母

「……陛下、お聞きでしょうか。これからのフランスを牽引するのは、ずばり『ジャガイモ』ですわ」


 ベルサイユ宮殿の一角。絢爛豪華な広間から遠く離れた、無骨な鉄の匂いが漂う一室。


 趣味の「錠前作り」に没頭する夫、ルイ16世の丸みを帯びた背中に向かって、私は高らかに宣言した。


 カンカン、と小気味良い音を立てて鉄を打っていた作業着姿の夫が、すすで少し汚れた顔を上げ、きょとんとした顔でこちらを振り返る。


「……ジャガイモ? アントワネット、君は今、あの『豚の餌』と噂されている観賞用の植物と言ったのかい? 聖書にも載っていない、食べたらハンセン病になるとまで言われている、あの薄気味悪い地下茎を?」


「左様です。あれこそがフランスを、そして私の首……いえ、国を救う救世主メシアなのです!」


 当時のフランスにおいて、ジャガイモの扱いは散々だった。見た目はゴツゴツしていて泥だらけ、地下で育つから「悪魔の植物」とまで呼ばれる始末。


 だが、史実のルイ16世は、実はこのジャガイモの普及に一役買った数少ない理解者である。生真面目で理系な頭脳を持つ彼を味方につければ、私の「浪費家王妃」という最悪のレッテルは、一気に「農業改革の母」へと書き換わるはずなのだ。


「ルイ、お願いです。今夜の晩餐、私が愛してやまないお菓子を一切控える代わりに、ジャガイモの試食会をしませんこと?」


「お……お菓子を控える!? 君が!?」


 ルイの目が、まるで「セーヌ川の水が干上がった」という報告でも受けたかのように、この世の終わりを見るかのように見開かれた。彼の手から、作りかけの真鍮の鍵がカランと音を立てて床に落ちる。


 無理もない。昨日までの私は、山のように積まれた砂糖の塊のようなクレープに、湯水のように蜂蜜をかけて平らげていたのだから。


「ええ、控えますとも。……聞いてください、ルイ。今、パリの小麦価格が異常に高騰しています。パンが買えず、民が飢えれば、その怒りはやがて王室である私たちに向かうでしょう。……私、怖いのです。みんなが笑顔で、お腹いっぱい食べられる国にしたいの」


 私は胸の前で両手を組み、少しだけ声を震わせてみる。

(……あざとい! 前世のサークルクラッシャー女子みたいであざとすぎる!)と内心で自分にツッコミを入れつつも、これは生き残るための、文字通り命懸けの演技だ。


 私のその言葉を聞いて、ルイは作業の手を完全に止め、ひどく真剣で、どこか感動したような眼差しで私を見つめ返した。


「……アントワネット。君がそこまで深く、国の未来と民のことを考えていたなんて。僕は恥ずかしいよ。……わかった、すぐに農学者パルマンティエを宮殿に呼ぼう。ジャガイモの持つ可能性を、共に探ってみるよ」


(よしっ! 第一段階クリア! チョロい……いや、なんて素直で良い旦那様!)


 そう歓喜のガッツポーズを心の中で決めた、その時だった。


「王妃様、本日の『お口直し』をお持ちいたしました」


 タイミングが良いのか悪いのか、侍女が銀のトレイに乗せて運んできたのは、王室専属のパン職人が焼き上げたばかりの最高級『クグロフ』だった。


 王冠の形をした黄金色の生地。そこから立ち昇る芳醇な発酵バターと、ラム酒漬けレーズンの暴力的なまでに甘い香り。さらに、まるでアルプスの雪山のようにたっぷりと振りかけられた粉糖の白さが、私のギリギリ保っていた脳の報酬系を全力で殴りにくる。


(……くっ、殺せ! いえ、焼かないで! いや、もう完璧なきつね色に焼いてあるから最高に美味しいんだけど!!)


 口内に一気に唾液が分泌され、胃袋が「それをよこせ!」と暴動を起こしそうになる。

 

 私はドレスのスカートをぎゅっと握りしめ、震える声で命じた。


「……いらないわ。その代わり、そのクグロフを大きめに一切れ切って、あちらの扉の横で警護している近衛兵に差し上げてちょうだい。彼は朝から重いマスケット銃を持って立ちっぱなしで、きっと糖分が必要なはずよ」


「……王妃様……!!」


 侍女が、まるで聖女を見るかのような目で感動に瞳を潤ませた。


 そして、名指しされた若き近衛兵は、驚きのあまり肩をビクッと跳ねさせ、顔を真っ赤にして直立不動の姿勢をとった。彼の目にも、うっすらと忠誠の涙が光っている。


 よし。これで「身分の低い部下にも優しい、慈悲深き王妃」のポイントもゲットだ。


(……でも、本当は私が食べたい。あの端っこの、一番サクサクしてそうなところだけでも、指でちぎって口に放り込みたい……!)


 胃袋が悲鳴を上げ、喉が痙攣する。

 だが、私は奥歯を噛み締めて耐えた。


 今の私の首筋に触れるのは、ギロチンの冷たくて重い刃ではなく、母マリア・テレジアから贈られた真珠のネックレスだけで十分なのだ。甘いお菓子は、首が繋がってからいくらでも食べればいい。


 私は空腹で霞みそうになる視界を気力で保ちながら、再び夫に向き直った。


「さあルイ、次は……国庫の帳簿をすべて私に見せてくださらない? 豪華すぎるドレス代に、無駄な夜会の費用。削れる予算、山のようにあると思うの」


「国庫の……帳簿を? 君が、数字を見るというのかい?」


 ルイ16世は今度こそ腰を抜かしそうになり、慌てて作業台に手をついた。


「あのアントワネット様が、お菓子を他人に譲り、国の予算を削ろうとしている」「やはり昨晩、ベッドから落ちてお頭を強く打たれたのだ」という噂が、ベルサイユ宮殿中を光の速さで駆け巡るまで、あと数時間。


 マリー・アントワネット、18歳。

 空腹という名の過酷な戦場に、私は今、一人ぼっちで立っている。

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