第1話 さよなら愛しのミルフィーユ
「王妃様、本日のティータイムのお仕度が整いました。専属パティシエが朝から腕によりをかけた自信作、『苺とクレーム・パティシエールの特製ミルフィーユ』でございます」
ベルサイユ宮殿の一室。眩い陽光が差し込む金ピカの部屋で、最高級のセーヴル焼の皿に乗せられ、私の目の前にうやうやしく置かれたのは、もはや芸術品と呼ぶべき一皿だった。
何層にも極薄に重なった、きつね色に輝くサクサクのパイ生地。その隙間から、まるで「私を食べて」と誘惑するように溢れんばかりに覗く、バニラビーンズがたっぷりと入った濃厚で滑らかなカスタードクリーム。
そしてトップには、朝露をまとった宝石のように輝く、真っ赤で大粒の苺が王冠のように鎮座している。
(……食べたいっ! 今すぐ、この純銀のフォークを迷いなく突き立てて、口いっぱいに頬張りたい!)
私の胃袋が、いえ、全身の細胞が歓喜の雄叫びを上げている。コルセットで限界まで締め上げられたウエストの奥底から、「ギュルルル」という高貴から最もかけ離れた音が鳴りそうになるのを、私は必死に腹筋で抑え込んだ。
だが。
(ダメよ、マリー! 思い出して、昨夜のあの生々しすぎる悪夢を!)
私は、震える手でフォークを空中でピタリと止めたまま、必死に脳裏の映像を呼び起こす。
それは、どこまでも続く民衆の怒号。石畳に響く足音。高くそびえ立つ木組みの処刑台。
そして、私の細い首筋に触れた——ヒヤリとした、血と鉄の匂いがする巨大な刃の感触。
シュトォォォンッ!! という、重い刃が落ちる絶望的な音。
そう。私は、現代日本でごく普通の女子大生として生きていたはずだった。
それがなぜか、自分のワンルームマンションで「奮発して買った有名店の高級マカロンを、アニメを見ながら丸呑みして喉を詰まらせて死ぬ」という、前代未聞の恥ずかしすぎる最期を遂げたのだ。
そして気がついたら、世界で最も有名な悲劇の王妃、マリー・アントワネットに転生していたのである。
現在の西暦は1774年。
夫であるルイ16世が即位したばかりで、ベルサイユ宮殿は新しい王と王妃の誕生に沸き返っている真っ最中だ。
まだ、あの恐ろしいフランス革命までは十数年の時間がある。
けれど、ここで史実通りに「パンがないならお菓子を食べればいいじゃない(※実際は言ってないらしいけど、そういう空気感だったのは事実!)」なんて態度で贅沢三昧を続けていたら、私の未来は確実に、文字通り「チョキン」と切り落とされる運命なのだ。
「王妃様? いかがなさいましたか? フォークを持たれたまま、お顔の色が真っ青ですが……」
心配そうに覗き込んできたのは、私の腹心であり、心優しい侍女のランバル夫人だ。
ふわりとしたドレスに身を包んだ彼女もまた、史実では私と共に革命の波に飲まれ、悲惨すぎる末路を辿る運命にある。彼女の美しい首も、絶対に守らなければならない。
「……いいえ、なんでもないわ、ランバル。ただ、少し……国の未来について考え事をしていただけよ」
私は引きつった笑顔を浮かべながら、愛おしいミルフィーユを親の仇のように睨みつけた。
今の私の最大の敵は、海の向こうのイギリスではない。ましてや、まだ見ぬ飢えた民衆でもない。
私の目の前に鎮座し、甘く暴力的な香りを放っている、この高カロリーな誘惑である。
贅沢=悪!
肥満=有事の際に走って逃げ遅れる!
国庫の浪費=革命のトリガー!
「……下げなさい」
「えっ?」
「このミルフィーユを、今すぐ私の視界から消してちょうだい! 一秒でも長く見ていたら、理性が吹き飛んでお皿ごと舐め回してしまいそうだから!」
私は断腸の思いで、悲痛な叫びを上げた。
「まあっ! も、もしかして、お口に合いませんでしたか!? パティシエにすぐ作り直させますわ!」
「違うの! 合いすぎるのがわかっているから怖いのよ! ……聞いて、ランバル。これからは、私のお菓子は一日一回……いえ、三日に一回にするわ。それも、この半分……いや、三分の一のサイズでいいわ」
ざわっ、と部屋の空気が凍りついた。
周囲に控えていた数人の侍女たちが、まるで「セーヌ川が逆流した」という知らせを聞いたかのように、信じられないものを見る目で私を見つめている。
無理もない。つい昨日の夜までの私は、「朝食にショコラ・ショーは必須ね! 昼食にはバターたっぷりのケーキ、おやつにはクグロフを用意して!」と、呼吸をするようにお菓子を要求する超ワガママ娘だったのだから。
「これからは……そう、お菓子は『ほどほど』にするわ。その代わり、ランバル。私のお菓子代を削って浮いた予算で、今日現在のパリの小麦の市場価格を至急調べさせてちょうだい。あと、ジャガイモ。家畜の餌と言われているジャガイモの人間への普及について、国王陛下とすぐに相談しなきゃ……!」
「……王妃様。もしや昨晩、ベッドから落ちてどこかお頭を強く打たれましたか? すぐに侍医を呼びましょうか!?」
ランバル夫人が涙目で私の手を取る。
失礼ね、私は大真面目よ。ギロチンの刃を避けて、天寿を全うするためなら、私は今日からスイーツの女王の座を返上して、「根菜普及委員長」にだってなってやるわ!
「……でも、待って。下げる前に一口……いえ、一口分の香りだけ、香りだけ全力で確認してもいいかしら?」
結局、私は侍女によって容赦なく下げられゆく銀の皿を未練がましく見送りながら、空間に漂う焦がしバターと濃厚なバニラの甘い残香に向かって、全力で鼻をひくつかせ、空気を肺の底まで吸い込むのだった。
マリー・アントワネット、18歳。
私の、血の滲むような断頭台回避生活が今、ここに幕を開けた。
第一話を最後まで読んでいただきまして、誠にありがとうございます。
本作は「カクヨム」でも連載しており、あちらの方が少し先行して最新話を公開しています。
もし「続きが早く読みたい!」という方がいらっしゃいましたら、そちらもチェックしていただけると嬉しいです。
▼作品ページはこちらから
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