第13話 欲望の果ての錬金術
「……もうダメ。限界。限界よ、ランバル。私の脳内カロリー・メーターが完全にマイナスに振り切れているわ……っ!」
深夜のベルサイユ宮殿、王妃の私室。
私は豪奢な天蓋付きベッドの上で、最高級のシルクで設えられた枕を、親の仇のようにガリガリ、ギリギリと激しく噛み締めていた。
「王、王妃様!? お、落ち着いてくださいませ! いくらなんでもそれは食べ物ではありませんわ! シルクは消化できません!!」
ランバル夫人が涙目で私から枕を引き剥がそうとするが、私の顎の力は野生の猛獣なみに強くなっていた。
無理もない。ここ数ヶ月、私の口に入った甘味といえば、ルイと普及に躍起になっているジャガイモのデンプン質が放つ微かな自然の甘みと、時折つまみ食いするポテチの塩気のみ。
前世において、テスト期間中には必ずコンビニスイーツを爆買いして脳に糖分を送り込んでいた女子大生にとって、この「ベルサイユ式・極限糖質制限ダイエット」は、もはや拷問の域に達していた。
私の脳内では今、色とりどりのマカロンとエクレアが優雅な輪舞曲を踊り、巨大なチョコレートの噴水がベルサイユの広大な庭園を飲み込んでいくという、甘美で狂気的な幻覚が鮮明に再生されている。
(……このままでは、ストレスで暴君化してしまう。あるいは、理性を失って深夜のパリのパティスリーに単独で強盗に入り、生クリームの樽に顔を突っ込んで溺死してしまうわ!!)
ギロチンで首を落とされるより先に、糖分不足による発狂で歴史に名を残すのは絶対に御免だ。
「……こうなったら……作るしかないわ」
私はシルクの枕をペッ! と吐き出し、ベッドからガバッと起き上がった。
その眼には、何かに取り憑かれたような異様な光が宿っている。
「つ、作る、とは何をでございますか?」
「食べても太らず、国庫も痛めず、そして飢えた私の魂を救う『奇跡の菓子』よ!!」
私はガウンを羽織るや否や、深夜の隠し通路を猛ダッシュで駆け抜け、王宮の巨大な厨房へと突撃した。
突然の王妃の襲来に、明日の仕込みをしていた料理長や見習いシェフたちが「ひぃっ!」と悲鳴を上げて壁際に整列する。
私は彼らを蹴散らす勢いで作業台の中心に立つと、バンッ! と両手をついた。
「料理長! 私が数日前に、パリ植物園の東洋学者に頼んで特別に取り寄せておいた『あの植物』の種は届いているわね!?」
「は、はい……! ですが王妃様、あれは東洋の神秘を探るための『観賞用』にして『学術研究用』の植物。とても人間の、ましてや王妃様の口に入るような代物では……!」
「いいから出しなさい! 泣く子も黙る、植物性タンパク質の王様……大豆よ!!」
ドンッ! と料理長が恐る恐る差し出した麻袋の中には、乾燥した丸い黄土色の豆がぎっしりと詰まっていた。
そう、現代日本のダイエッターにとって最強の味方である「大豆」である。
当時のフランスでは、一部の学者が細々と研究しているだけの、完全に未知の植物だった。
「まず、これをフライパンで空煎りして、石臼で粉々に挽きなさい! すぐに!!」
「豆を……煎って、粉に!? 小麦粉の代わりにですか!?」
シェフたちが半狂乱になりながらも、王妃の絶対命令に従って大豆を煎り始める。
やがて厨房に、バターの暴力的な香りとは全く違う、ひどく素朴で、香ばしく、そして前世の私にとっては涙が出るほど懐かしい匂いが漂い始めた。
「……あああっ、これよ! この大豆が焦げる香ばしい匂い! 完璧な『きな粉』の誕生よ!!」
私はすり潰された黄金色の粉(きな粉)の香りを深く吸い込み、うっとりと目を閉じた。
フランス最高のフレンチシェフたちは、「王妃様がついに東洋の土の匂いに発情し始めた」と絶望の表情を浮かべている。
「さらに、ここからが本番よ! 料理長、昨日、私が特別に指示して『大豆を水で煮て、絞らせておいた残骸』はどうした!?」
「ざ、残骸……ですか? もしや、あの白くてパサパサした、家畜の餌にもならないゴミのことですか!? あのような汚らわしい廃棄物は、すでに裏庭の樽に……!」
「バカバカバカ!! 今すぐ回収してきなさい! それこそが今回の主役、『おから』よ!!」
数分後。
ベルサイユの豪奢な厨房の作業台に、純白の小麦粉ではなく、ポロポロとした大豆の絞りカスである「おから」が山盛りにされた。
「いいこと? 小麦粉は糖質のバケモノよ。でも、この『おから』は食物繊維の塊! 胃の水分を吸って無限に膨張し、圧倒的な満腹感をもたらす最強のダイエット食材なのよ!!」
私は自ら腕まくりをし、ボウルの中に「おから」を大量に投入した。
そこに、高価な精製砂糖の代わりに少量の蜂蜜と卵を落とす。
「……ただ、おからはどうしても水分が足りず、パサパサして飲み込みにくくなるのが弱点。そこで登場するのが……我が菜園で採れた『ジャガイモ』よ!」
私は茹でてマッシュしたジャガイモを、ボウルの中にドカッと追加した。ジャガイモのデンプン質が、バラバラのおからを繋ぐ接着剤となり、同時にしっとりとした食感を補完するのだ。
「これを力強く捏ねて、丸めて……オーブンでじっくり焼くのよ!!」
料理人たちが、「フランス料理の伝統が、豆のカスと泥の芋によって完全に破壊された……」と十字を切って祈る中、私はオーブンの前で仁王立ちになり、焼き上がりを待った。
数十分後。
オーブンから取り出されたのは、マカロンのような華やかさも、ケーキのような艶やかさもない。ただの地味で茶色い、石っころのような焼き菓子の山だった。
名付けて、『ベルサイユ特製・おからと芋のプロテイン・スコーン(きな粉風味)』である。
「……王妃様。これは……本当に、お食べになるのですか?」
ランバル夫人が、まるで劇薬を見るような目でスコーンを見つめる。
私は震える手で、そのずっしりと重い茶色い塊を一つ手に取り、大きく口を開けてガブリと齧りついた。
——ザクッ、……モギュッ。
(……っっっ!! な、なんだこれ……!! 美味しいっ!!!)
私は目を見開いた。
外側はジャガイモのデンプンが焼けてカリッと香ばしく、中は驚くほどしっとりしている。
懸念されたおからのパサパサ感は、ジャガイモの水分と卵が見事にカバーし、噛み締めるほどに大豆(きな粉)の深い香ばしさと、蜂蜜の優しく上品な甘みが口いっぱいに広がっていくのだ。
「美味しいわ!! これよ、私が求めていたのは! 噛み応えがあって、顎を使わされるから満腹中枢がゴリゴリに刺激される! バターの暴力的な旨味はないけれど、細胞が喜ぶ滋味深い味がするわ!!」
「ま、まあ……。本当ですわ、王妃様。これ、一切れ食べただけで、胃の中がずっしりと満たされる感覚がありますわね」
おそるおそる試食したランバル夫人も、その圧倒的な「腹持ちの良さ」に目を丸くしている。
翌朝。
私はこの「奇跡のヘルシースイーツ」をバスケットに詰め、誇らしげな顔で夫・ルイ16世の執務室へと乗り込んだ。
「ルイ! できましたわ! 私たちの『健康』と『財政』、そして『圧倒的食欲』のすべてを同時に満たす、革命的おやつです!」
ルイは、私が差し出したその地味なスコーンを不思議そうに観察し、一口齧った。
そして、彼特有の「理系オタクの分析モード」の瞳がキラリと光った。
「……アントワネット、これは……すごいぞ! 噛むほどに旨味が出る。それに、なんだこの胃にズシリとくる質量は! 僕の計算によれば、これを一つ食べるだけで、脳に絶え間なくエネルギーが供給され、三時間はぶっ通しで錠前作りに集中できるぞ! 大豆のタンパク質とジャガイモの炭水化物の、完璧なハイブリッド燃料だ!!」
「その通りですわ陛下! これでお腹を満たせば、高級な砂糖やバターを他国から輸入する必要もなくなります!」
こうして、私が深夜の狂気で生み出した「おからスコーン」は、瞬く間にベルサイユ宮殿内に広まった。
最初は「東洋の豆のカスや、地中の芋を混ぜた石ころなど、家畜しか食べない」と馬鹿にして見向きもしなかった貴族たちだった。
だが、私がサロペットを脱ぎ捨て、たまの夜会で細身のシュミーズ・ドレスをスマートに着こなす「引き締まった完璧なプロポーション」を見せつけると、彼らの態度は一変した。
「あ、あのスコーンを食べれば、王妃様のように美しい体型を維持できるらしいわよ!」
「しかも、腹持ちが良いから、高価な食事代も浮くとか……!」
結果、ベルサイユの貴族たちは、こぞって厨房に「大豆のカスを寄越せ!」と殺到し、空前の「健康おやつブーム」が巻き起こったのである。
(……ふふふっ、大勝利!! これで私も堂々と、罪悪感なくおやつを食べられるわ! 私の生存戦略に、もう死角は一ミリもない!!)
マリー・アントワネット、18歳。
「お菓子を我慢したくない」という極限の欲望と執念により、ついにフランスの植物学、栄養学、そして美食の概念そのものを、大豆の力で根底からアップデートしてしまったのである。




