第12話 女帝、サロペットを穿く
「……断じて、お断りです。私の目の前から、その汚らわしい布の塊を今すぐ消し去りなさい」
ベルサイユ宮殿、女帝専用に設えられた豪奢な更衣室。
オーストリア女帝マリア・テレジアの声は、絶対零度の吹雪のように冷たく、そして鋼鉄のように重かった。
彼女は、私が満面の笑みで差し出したローズ・ベルタン特製の「ロイヤル・サロペット(最高級リネン製・インディゴブルー金糸刺繍入り)」を、まるで疫病のネズミでも見るかのような、この世で最も冷蔑した瞳で睨みつけていた。
「お母様、どうか誤解なさらないで! これはただの野良着やズボンではなく、下半身をコルセットの呪縛から優しく解放し、女性に『真の自由と健康』をもたらす奇跡の装束なのです! 名付けて——」
「黙りなさい、マリー!!」
ビクゥッ! と、背後に控えていたランバル夫人が悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。
女帝の怒声は、窓ガラスをビリビリと震わせるほどの覇気を纏っていた。
「詭弁を弄するでない! 王族たるもの、鋼のコルセットで身を引き締め、何十キロという重厚な絹のドレスを引きずって歩くこと。その『重さ』と『不自由さ』こそが、民衆に見せつけるべき権力と威厳の象徴なのです!」
「ですがお母様、それでは有事の際に走って逃げられません! 機動力は命を救うのです!」
「笑止!! 王族は決して敵に背を向けて走って逃げたりなどしない! 逃げる時は馬車か軍馬に乗るのです! 動きやすさや実利などという、下層階級の平民と同じ次元の理屈に逃げ込むなど、ハプスブルク家の歴史に対する最大の冒涜! この私が、殿方や水夫が穿くような『二股に分かれた卑猥な布』に両足を通すくらいなら、今すぐこのベルサイユの窓からセーヌ川へ身を投げるわ!!」
(……くっ、強すぎる……!! さすがはオーストリア継承戦争を勝ち抜いた本物のバケモノ君主!!)
私は内心で頭を抱えた。
私の「動きやすさ」「実用性」という現代的な正論は、彼女の「王族たる者の美学と義務」という分厚い歴史の壁の前に、完全に論破され、跳ね返されてしまったのだ。
ヨーロッパ全土にこの「農業・健康・サバイバル計画(サロペット普及)」を流行らせるためには、絶対的インフルエンサーである母様の着用実績が絶対に、死んでも不可欠なのに!
「……お母様。そこまで固く拒絶なさるのですね」
「当然です。さあ、そのボロ布を捨てて、私の髪を結い直しなさい」
私はサロペットを握りしめ、俯いた。
だが、前世で数々の理不尽なクレーム客や教授のパワハラを潜り抜けてきた女子大生の胆力は、ここで引き下がるほどヤワではない。
「……ならば、お尋ねします。威厳と義務のために、お母様はご自身の『命』を削り続けるおつもりですか?」
「……何?」
私は顔を上げ、母様の目を真っ直ぐに見つめ返した。
「朝から晩まで分厚い政務の書類に向かい合い、他国の脅威に目を光らせる毎日。……正直に答えてください。長年のコルセットの締め付けで、肋骨の形は変形し、深く息を吸うこともできず、常に浅い呼吸を強いられていませんか? そして、血流が悪くなったことによる、鉛のような首と肩の凝り。夜、ベッドに入っても腰が痛くて眠れない日が、何日もあるはずです」
「……なっ!?」
鉄の女帝の肩が、図星を突かれてピクッと震えた。
当時の貴族女性の死因の上位には、常に「コルセットによる内臓圧迫と呼吸不全」が鎮座している。多忙を極める母様の肉体が、すでに悲鳴を上げていることは、娘の私から見ても明らかだった。
「痛みに耐えるのも王族の義務だと、お母様は仰るでしょう。でも、私は嫌です!!」
私は一歩踏み出し、大声で叫んだ。
「私は、母様に一日でも長く生きて、私の成長を見てほしい! 私がこのフランスを立て直し、飢えた民を笑顔にするその日まで、元気に見守っていてほしいのです! これは威厳を捨てるための服ではありません。母様の命を守るための『休息の鎧』なのです!!」
私の目から、本気の涙がポロポロとこぼれ落ちた。
前世で若くして死んだ私は、「生きて親孝行する」ことの重みを誰よりも知っている。その本気の感情が、言葉に乗って女帝の胸を打った……ように見えた。
「……マリー……。お前が、そこまで私の体を……」
母様の冷たい瞳が、ほんの少しだけ揺らいだ。
(よし! エモい説得で心が動いた! ここで一気にトドメを刺す!!)
「どうしても……どうしても嫌だと仰るなら!!」
私は涙を拭い、狂気を孕んだ目で、部屋の隅に置かれていた例の銀の保冷箱——母様が持ってきた『ザッハトルテ・ロイヤル・スペシャル』をガシッと掴み上げた。
「わ、王妃様!? 何を!?」ランバル夫人が悲鳴を上げる。
「お母様がこのサロペットに足を通さないというのなら! 私は今すぐ、この直径三十センチのザッハトルテを、フォークも使わず、顔面から丸飲みして一ミリ残らず胃袋に叩き込みます!!」
「な……っ!? ま、狂ったかマリー!! それは数日かけて少しずつ味わうもので……!」
「いいえ! 今ここでホール食いします! そして明日から毎日、砂糖とバターのお風呂に入り、三食ケーキを食べて、あっという間に元の『超絶・浪費家赤字ブタ王妃』に逆戻りしてやります! フランスの国庫は破綻し、私は数年後に民衆にギロチンで首を刎ねられて破滅するでしょう! お母様が威厳を守るなら、私は自分の首と未来を今ここで捨てます!! さあ、どちらを選びますか!!」
私はケーキの箱の蓋を開け、生クリームの雪山に顔からダイブする体勢をとった。目には一切の迷いがない、完全な「相打ち」の構えだ。
「……っ!!! や、やめなさい!! ま、待て、待ちなさいマリー!! それはあまりにも本末転倒でしょうが!! ああっ、もう、わかった!! わかりました!!」
ついに、ヨーロッパ最強の君主が、実の娘の「ケーキ自爆テロ」という前代未聞の狂気の脅迫の前に、白旗を揚げたのだ。
「……五分。たった五分だけよ。一度だけ、袖を……いえ、その卑猥な二股の布に足を通すだけですからね。少しでも不格好なら即座に脱いで燃やしますからね!」
母様は忌々しげにサロペットをひったくると、ついたての向こうへと消えた。
ガサゴソと、着替えの音が響く。
「……何よこれ、腰から下がスースーして全く落ち着かないわ。……ああっ、足が右と左で分かれているなんて、やはりはしたない……っ。おまけにこの、無駄に深いポケットは一体何のために……ブツブツ……」
数分後。
「……終わったわよ」
ついたての向こうから、不機嫌のオーラを全開にして現れた母様。
しかし、その立ち姿を見た瞬間、私とランバル夫人は息を呑んだ。
……最高に、スタイリッシュだったのだ。
長身で威厳ある彼女が、仕立ての良いインディゴブルーのワークウェアを着こなすと、まるで「歴戦のベテラン農場長」、あるいは「国を束ねる真の統率者」のような、ドレス姿とは全く質の違う、圧倒的で機能的なオーラが漂っていた。
「……どうかしら。ひどく、心許ないのだけれど」
「お母様……! 最高です! とても美しく、そして強そうです!!」
「ふん。おだてても無駄よ。こんなもの、やはり王族が着るものでは……」
そう言って母様が身を翻そうとした、その時だった。
彼女が手に持っていた扇子が手から滑り落ち、カランと床に落ちた。
「あ……」
母様は無意識に、それを拾おうとしゃがみ込んだ。
──スッ。
なんの抵抗もなく、膝が曲がる。何十キロというスカートの重みもない。
腹部を締め付ける鉄のコルセットの圧迫感もない。
扇子を拾い上げ、スッと自然に立ち上がる。
「……え?」
母様が、自分の体を不思議そうに見下ろした。
「……息が……。横隔膜が下がって、空気が肺の底まで深く、深く吸い込める……。胸の下が、全く痛くない。……それに、足が、布に絡みつくことなく、私の意思のままにスッと前に出る……?」
「お母様。ちょっとそこまで、部屋の端まで歩いてみてください」
母様は恐る恐る一歩を踏み出し、二歩、三歩と進む。
その歩幅はどんどん広がり、やがて彼女は更衣室の広い絨毯の上を、スタスタと力強い大股で、風を切るように歩き始めた。
「……すごいわ、マリー。私自身の足で、こんなに軽く歩けるなんて。階段を上がるのに、いちいち侍女の肩を借りなくてもいい。……足の間に風が通り抜ける感覚なんて、子供の時、お転婆をして庭を駆け回っていた時以来だわ……!」
母様の顔から、長年の激務で刻まれた険しさがスッと消え、少女のような輝きと赤みが戻っていく。
「お母様、これならウィーンの宮殿で政務に疲れた時、そのままお一人で、誰の力も借りずにお庭を散歩できますわよ!」
「……ふふ、ふふふっ! ははははっ!!」
突然、女帝が声を出して高らかに笑い始めた。
「負けたわ、マリー。完全に私の負けよ! あなたが守ろうとしているのは、うわべだけの王家の面目なんかじゃない。もっと根源的な、人間としての『生きる力』そのものだったのね!」
* * *
そして数日後。
ベルサイユ宮殿の正門前には、オーストリアへ帰還する女帝の巨大な馬車が停まっていた。
「マリー。短い滞在だったけれど、本当に驚かされたわ。あなたがまさか、ここまで逞しく、強かに成長していたなんてね」
母様は、泥だらけのサロペット姿の私を、心から誇らしげに優しく抱きしめた。(※さすがに母様自身は、帰国の道中は特注のゆったりとしたシュミーズ・ドレスに着替えている)
「お母様。どうか道中お気をつけて。……馬車の荷台に、道中の食糧として、茹でたジャガイモをオーブンでじっくり乾燥させた『特製ポテト・ジャーキー』を大量に積んでおきましたから。噛み応えがあって、馬車の中でもヘルシーに過ごせますわ!」
「ええ、ありがとう。ウィーンの宮廷シェフにも徹底的に研究させるわ」
そう言って馬車に乗り込もうとした母様が、ふと立ち止まり、振り返った。
「……あ、そうそう、マリー」
「はい?」
「あのローズ・ベルタンが作った『サロペット』の型紙。絶対に忘れずに、至急ウィーンへ図面を送っておきなさい。……黒の最高級シルクと、秋冬の執務用に保温性の高いウール生地で、とりあえず至急20着ほど仕立てさせるから」
「……20着!? お、お母様!?」
「勘違いしないで頂戴! あれはあくまで、お忍びでの視察や、乗馬の時に使うだけよ。……決して、執務室で一人になった時にこっそり穿いて、深呼吸しながら快適に書類にサインするためじゃないわよ! 絶対に違うからね!!」
顔を真っ赤にして早口でツンデレな言い訳をする母様に、私は思わず吹き出した。
「ふふっ……はい、お母様! すぐに手配いたします!」
女帝を乗せた馬車が、砂埃を上げて出発する。
沿道には、ズボン姿でクワを振りながら手を振るパリの民衆たち。それに向かって、母様も窓から優雅に、しかし力強く手を振り返していた。
(……完璧ね。これで母様の腰痛も改善するし、もしフランスで革命が起きても、いつでも『サロペット姿の機動力』でウィーンの実家に逃げ込めるルートが確保できたわ!)
マリー・アントワネット、18歳。
「王族の威厳」という高すぎる壁を、家族愛とケーキ自爆テロのコンボで打ち砕き、ついに実母にしてヨーロッパ最強の君主をズボン派に引きずり込んだのである。




