第113話 極東からの黒い液体
チュイルリー宮殿の謁見の間は、かつてない異様な緊張感と、微かな「未知の香り」に包まれていた。
「……王妃様、陛下。お目通りの許可をいただき感謝いたします。ですが今回の客人は、私のこれまでの外交経験でも『想定外』の存在ですわ」
監査局長のジャンヌが、銀縁眼鏡を押し上げながら珍しく困惑した表情で報告してきた。
「想定外って、オランダの銀行団がまた金利の交渉にでも来たの?」
「いいえ。……海の向こう、遙か極東の孤島。オランダの商船すらごく一部しか出入りを許されないという、閉ざされた国――『日本』からの使者にございます」
「――ッ!?」
その単語を聞いた瞬間、私の脳内で前世の女子大生としての記憶がパチパチと音を立ててスパークした。
日本! 私の魂の故郷!
史実ではこの時代、江戸幕府の『鎖国』によって海外との交流は厳重に制限されていたはず。だが、私の巻き起こした『世界通販カタログ』と『パリ万博』の衝撃は、長崎の出島を通じて、なんと日本の最高権力者の耳にまで届き、国禁を犯してまで視察団を派遣させるに至ったらしい。
「お通ししなさい、ジャンヌ! 早く!!」
私がメガホンを投げ捨てて立ち上がると、重厚な扉が静かに開いた。
入ってきたのは、絢爛豪華なベルサイユの調度品の中で、異様なほどの存在感を放つ一団だった。
髪を頭の上で奇妙に結い上げ、腰には二本の鋭い刀。衣服は擦れる音の心地よい藍色の絹織物。彼らは一糸乱れぬ所作で私の前に進み出ると、床に両手をついて深く頭を下げた。
「……フランス国、王妃殿下、並びに国王陛下にお目通りが叶い、恐悦至極に存じます。私は日本国より参りました、使節の使者、源ノ助と申します」
通詞を介したその言葉は、ひどく厳かだった。
だが私の目は、彼らの背後の従者たちがうやうやしく担ぎ込んできた「杉の木でできた頑丈な二つの大きな樽」に釘付けになっていた。
杉の木の隙間から、ほんのりと漂ってくる、あの芳醇で、香ばしく、どこか塩気を含んだ……魂の匂い。
「……まさか、それ……」
「はい。我が国の誇る、大豆より醸造されし至高の調味料……『味噌』と『醤油』にございます。王妃殿下が東洋の大豆をこよなく愛されていると聞き、我が国からの最上級の親書として、伝統の味を持参いたしました」
「み……味噌……っ!! しょ、醤油……っ!!」
ガタガタガタッ!!
私は椅子を派手にひっくり返しながら立ち上がり、ドレスの裾を振り乱して樽の前にスライディング土下座の勢いで駆け寄った。
「王妃様!? いきなりどうされたのですか!」
ランバル夫人が悲鳴を上げる。
「アントワネット、危ないよ! 謎の黒い液体だ、毒見が先だ!」
ルイがレンチを構えて飛び出してくるが、私はそれを手で制した。
「毒なわけないでしょう!! これがどれほど偉大な奇跡か、あなたたちには分からないのよ!!」
私は震える手で、醤油の樽の栓をソッと抜いた。
途端に、謁見の間に、濃厚で、香ばしく、脳の奥の報酬系を直接マッサージするような『本物の醤油』の香りが大爆発を起こした。
ここ数年、おからやジャガイモで極限の糖質制限と健康生活を続けてきた私の五臓六腑が、この「アミノ酸の結晶」を前にして、歓喜の大号泣を始めた。
(……お醤油よ!! 本物の!! 前世の私が、テスト期間中に夜食で食べていた卵かけご飯の、アサリの味噌汁の、あの味が今、私の目の前にあるのよ!!)
私は涙をボロボロと流しながら、源ノ助から手渡された竹製の柄杓で、琥珀色の美しい醤油をほんの一滴、自分の手の甲に垂らしてペロリと舐めた。
「――ッッッ!!!!!(無声の絶叫)」
口いっぱいに広がる、塩気、旨味、そして大豆が発酵することによって生まれた、深みのある圧倒的なコク。
「美味しい……!! 美味しすぎるわ!! 脳みそが、私の全身の細胞が、和食の優しさに包まれてとろけていく……っ!!」
私が涙を流して悶絶している姿を見て、ルイとナポレオン、そしてジャンヌの三人がゴクリと息を呑んだ。
「……マリー。あなたがこれほどの涙を流すとは。ただの豆の液体に、一体どれほどの秘密が隠されているのですか」
ナポレオンが、鋭い目で醤油の樽を見つめた。
「ナポレオン、ルイ、ジャンヌ! 四の五の言わずに、今すぐチュイルリーの厨房へ行くわよ! 我がフランスが誇る最新の食材と、この極東の奇跡の調味料を掛け合わせ、世界を震撼させる『和仏融合・最強グルメ』を錬成するのよ!!」
数十分後、チュイルリー宮殿の巨大厨房。
私はサロペットの袖を限界までまくり上げ、自ら包丁を握って、昨日収穫したばかりの「王立温室の新じゃが」と、大根、タマネギ、そして大豆で作った「豚肉のブロック」をリズミカルに切り刻んでいた。
「料理長! 特大の銅鍋に、地下で採れたマッシュルームの芯をこれでもかと敷き詰めて、極上の『旨味出汁』を最速で引き出しなさい!」
「は、はい! 旨味出汁、ただいま!!」
グツグツと沸き立つ大鍋の中に、私は切り分けた新じゃがや野菜、肉を次々と放り込んだ。野菜の甘みとキノコの旨味がスープに溶け出し、これだけでも十分に美味しいポトフになる状態だ。
だが、ここからが本番である。
私は杉の樽から、赤茶色をしたどっしりとした質量の『味噌』を特大のスプーンですくい上げた。
「良い? 味噌は沸騰させすぎると香りが飛んでしまうのよ。だから、火を少し弱めて……この大地の恵みを、スープの中に優しく、丁寧に溶かし込んでいくの!」
味噌がスープに溶けた瞬間、厨房中を「焦がしバター」をも凌駕する、ひどく素朴で、香ばしく、そして圧倒的に食欲を狂わせる『和の香り』が支配した。
「仕上げよ! ルイが作った冷却機でカリッとさせておいた、特製のネギの微塵切りを散らして……完成!『ベルサイユ特製・新じゃがと代替肉の具だくさん豚汁風ポタージュ』よ!!」
「……な、なんだこの匂いは……っ!」
匂いにつられてやってきたルイの喉が、大きく鳴った。
「さあ、みんな、冷めないうちにズズッと啜りなさい!」
私は木のお椀にたっぷりと豚汁を注ぎ、ルイ、ナポレオン、ジャンヌ、そしてカトリーヌたちに手渡した。彼らは半信半疑のまま、熱々のスープを口に運んだ。
ズズッ……。
「……ッッッ!!!!」
ルイは声にならない叫びを上げ、目頭を押さえてその場にしゃがみ込んだ。
「う、旨い……! なんだこれは! 僕の作ったフードミルですり潰したどのスープよりも、味が『深い』! ジャガイモのデンプンの甘さと、この“ミソ”という発酵物質の塩気が、完璧な歯車のように噛み合って、五臓六腑を熱く駆け巡っていく……!」
「……驚異的です」
ナポレオンも、お椀を両手で抱え込みながら大粒の涙を流していた。
「この濃厚な旨味、そして体の芯からポカポカと湧き上がってくる持続的な熱量……。マリー、この“ミソ”を乾燥させて丸め、『乾燥味噌玉』として全軍に配備しなさい。極寒の戦場であっても、湯を注ぐだけで兵士の士気と体温を極限まで維持できる、最強の『携行兵站物資』になります!!」
天才軍略家は、一瞬で味噌汁の戦術的価値を見抜いていた。
「これだけじゃないわよ! 次は『醤油』を使った、香りの爆弾よ!」
私は、熱した鉄板の上に薄切りにした新じゃがとマッシュルーム、そして少量の発酵バターを乗せて炒めた。全体に火が通った最高のタイミングで、仕上げの醤油を鉄板の「鍋肌」に向けて回し入れた!
――ジュワァァァァァァッ!!!
激しい破裂音とともに、焦げた醤油と発酵バターが混ざり合った、悪魔的なまでに香ばしい匂いが厨房全体を爆撃した。この匂いに抗える人類など、地球上に存在しない。
「『新じゃがとマッシュルームの焦がし醤油バター炒め』よ!」
カトリーヌが、フォークでそれを掴んで口に放り込んだ。
「サクッ……トロォッ……! う、うめええぇぇ!! なんだこれ! バターの脂っこさを、この黒い液体の塩気がキリッと引き締めて、噛むほどにキノコの旨味が口の中で大爆発を起こしやがる!! 王妃様、これ、いくらでも食べられるよ! 腹が減ってなくても手が止まらないよ!!」
「あーうー! みしょしる、んまー!」
足元では、小さな防水スタイをつけたジョゼフが、ミニお椀を持って口の周りを味噌だらけにしながら「ニパッ!」と最高の笑顔を見せていた。彼の小さな胃袋も、極東の旨味によって完全に掌握されたようだ。
「……ふふっ。大成功ね」
私は真っ白なサウナハットを被り直し、自分の手の甲に残った醤油の香りを深く吸い込んだ。
「源ノ助さん。あなた方の持ってきたこの味噌と醤油は、フランスの……いいえ、ヨーロッパの食文化を根底から変える『黒いダイヤ』よ。……さあ、ジャンヌ。この味噌と醤油をフランス国内で『国内醸造』するための、王立醸造所の建設プランと、日本との『独占貿易契約』の利回り計算を始めなさい!」
「……喜んで、王妃様!」
ジャンヌは、真っ黒になった手で眼鏡をクイッと直し、妖艶に笑った。
「この東洋の魔法の液体を、イギリスやプロイセンの金持ちどもに『健康と不老長寿の霊薬』として超高値で売りつけて、莫大な外貨をまた金庫に引きずり込んで差し上げますわ!」
マリー・アントワネット、25歳。
生存戦略と食い意地の果てに、彼女はついに、鎖国中の日本から届いた味噌と醤油の力によって、フランスの食卓に「旨味」という絶対的なパラダイムシフトを引き起こし、世界最強の『和仏ハイブリッド・グルメ超大国』への道を爆走し始めたのである。




