38 扉の向こう
ヴェーヌが、そっと扉を開けた。用心深い誰かは、自分の場所から目的地に直接扉を繋げたりはしなかった。どこかの街の路地の薄汚れた壁に存在感なく張り付いた扉。それが、ヴェーヌの開けた扉だった。扉がギリギリ開く幅の狭い路地に降り立ったヴェーヌは、そこに、うっすら漂う魔力の残滓を見つけ、足を進めた。
「何か手掛かりがあって進んでいるのかい?」
ユリウスが訊ねた。ユリウスには魔力は見えない。魔法使いではないのだから当然だ。
「ああ、すまない。そうだ、わずかに魔力が残されている。辿って行こう」
「罠ではないかな?」
「狙いは?ルゼと王子を捕えたら、追っ手は撒くだけでいいだろう?」
「ヴェーヌを誘き寄せたいなら、手掛かりを残すだろう?」
「魔力が見える魔法使いは少ない。見えなければ魔力の残滓で誘き寄せようとも思わないし、わたしより力のある魔法使いなら、わたしに用はないはずだ」
「そうだね…」
ユリウスは何かが引っかかっているようだったが、そのまま口を閉じた。
ヴェーヌとユリウスが歩を進めた先は、見慣れぬ街だった。ただ、ヴェーヌはアウフ王国の北の田舎領地暮らしだったし、ユリウスは、王都のホワイエ侯爵邸と西の湖の畔にあるアリタ村しか知らないのだから、どこに行っても見慣れない場所ではあった。
見知らぬ街は賑やかに人々が行き交い、アウフ王国の王都と似ていたが、何かが微妙に違う。
「一体、何が違うんだ?」
首を捻るヴェーヌに、ユリウスがこともなげに答えた。
「石畳が違うね」
ヴェーヌには、何のことか分からない。
「この街の石畳は、黒っぽいね。玄武岩かな。それに敷いてある石が長方形だ。アウフの王都は花崗岩だから白くて、サイコロ形をしているよ。他は、アウフより建物が若干古い印象を受けるけれど、大差ないように思うな」
ユリウスの説明にヴェーヌは成程と思う。しかし、ヴェーヌは石畳や建物なぞ気にしたこともない。
アウフに似て、微妙に違うのであれば、ここはゼインに違いない。五十年も経てば、若い者は知らないだろうが、アウフ王国はもともとはゼイン王国の一領地だった。それが、ゼイン王国国王と政治的意見の食い違った当時のアウフ領領主(現アウフ国王ジールの祖父)がゼイン王国に反旗を翻し、大魔法使いヴァルムートの力添えを得て一領地を独立させた。その際に、アウフ領を挟みゼイン王国の北東に位置する4つの領地がアウフ王国に取り込まれた。独立したアウフ王国は、新たに王城を築き、アウフ領全体を王都として栄えさせた。もともとアウフはゼイン王国の一部だったのだから、アウフがゼインに似ているのは当然のことだった。
つまりは、アウフ王国の南西に位置するゼイン王国の、恐らくは王都に、扉が繋がっていたということだ。でも、何故?ゼイン王国も国王が代替わりし、遺恨はないはずだ。いや、しかし、ないと思っていた遺恨があるからアウフの前国王夫妻もホワイエ侯爵一家も暗殺されたのか。そもそも、これまでの暗殺とルゼとルディウス王子の拐かしは関係があるのか。ヴェーヌは、魔法の残滓を追って歩を進めながら考えを巡らせていたが、急に後ろから腕を回され、はっとした。
「ヴェーヌ、ぶつかるよ」
ヴェーヌの目の前を乗り合い馬車が勢いよく通過した。ユリウスがヴェーヌを止めなければ、轢かれるところだった。
「ああ、すまない」
ユリウスに礼を言い、ヴェーヌが視線を進行方向に戻すと、魔力の残滓はどこにも見えなくなっていた。
立ち尽くすヴェーヌに、ユリウスが声をかける。
「見失ったかな?」
「ああ」
「少し休もう」
ヴェーヌを気遣ってユリウスが提案した。
「こんな街中、ベンチも空いたスペースもないぞ。金も持ってないから、店も無理だ」
「大丈夫だよ」
ユリウスがにっこりと笑う。そして、少しだけヴェーヌと距離を取って立ち、先程の笑顔を仕舞い、視線と肩を落とした。
すると、側を通り掛かった身なりの良い夫婦の、夫人の方がユリウスの様子に気付き声を掛ける。
「何かお困りですか?」
「ああ、親切なお方ですね。わたしと妻は、遠方から初めてこの街を訪れたのですが、妻は歩き疲れ、お金もなく、途方に暮れていたのです。せめてどこかで一休みできればいいのですが…」
白々しい台詞だ。ヴェーヌは、呆れた。そんな言葉で同情が買えるわけがない。
ところが、夫人は大袈裟な程にユリウスに同情の声を上げた。
「まあぁ!それは大変でしたわね。ねぇ、あなた、この若いご夫婦をあなたのお店に招待して休ませてあげてはいかがかしら?」
夫人は、夫を振り返り提案した。夫は妻に甘いらしく、何度も頷いて、夫人の意見に賛成した。
「ここからなら、わたしの経営するコーヒーハウスがすぐ近くにある。よろしければ、招待させて下さい」
夫人の夫は、ただ通りすがっただけだというのに、ユリウスに丁寧に言葉を掛た。
「感謝します」
ユリウスは、遠慮なく厚意を受けた。ユリウスにとって、人からの厚意は当然であり、日常茶飯事のことなのだ。
「さあ、ヴェーヌ、行こう」
ユリウスに手を取られたヴェーヌは、半ば釈然としない気持ちのまま、ユリウスと並んでコーヒーハウスに向かった。
コーヒーハウスまでは僅かな距離だったが、夫人はユリウスに積極的に話し掛けた。
「どちらからいらしたのですか?この街はお気に召して?もしかして、奥様とは新婚旅行ですの?せっかく、ゼインにいらしたのですから、是非、男神ディアス様と女神イーラ様を祀っているテルニタス大神殿で祈りを捧げられたらよろしいですわ。きっと神様の祝福が得られますわ」
矢継ぎ早に繰り出される夫人の言葉を、ユリウスは柔らかい微笑みで受け止め、曖昧な返事ながらも、夫人を満足させていた。そして、ヴェーヌは、幼い頃にユリウスと一緒にいたときの常として、会話に加わることなく、気配を消し、それでも相手を不快にさせないよう、注意深く身を潜めた。
「失礼ですけれども、奥様のお召し物の色は珍しいですわね。お国の女性は皆さん黒いお召し物ですの?」
ヴェーヌははっとした。ゼインでは、黒は魔法使いの色だ。そして、魔法使いは疎まれていた。だからこそヴァルムートはアウフに付いたのだ。ヴェーヌは返事をせずに、しかし表情は穏やかに微笑んだまま、ユリウスが何と答えるかを伺った。
「そうですね。黒は女性を慎ましやかに神秘的に見せる色ですから、わたしが好んでいるのです。妻に似合う色だと思いますし、妻もわたしの好みをよく分かってくれていますね」
「まああ、黒がお好きですのね。慎ましく神秘的…。そうですわねぇ。ゼインの王都でも流行るかしら。ねぇ、あなた?」
「そうだね。わたしの店でも作らせてみようか」
夫は、夫人の弾んだ言葉に、嬉しそうに返した。




