月光・・・いつだって私たちはその優しさに気づかない⑨
いつもの3倍は歩いてやろう!
と意気込んでいたはずなのに、その意気込みは長くは続かなかった。
茜色に染まる空は美しく、今日は金色の飛行機雲も浮かんでいたりして景色には申し分なかったけど、なんせ遠くまで歩くにはまだ気温が高かった。
それにいつもより少しだけ時間が遅かった。
塾やカルチャーセンターの入るビルの通りの抜け、高い塀の連なる住宅地を抜け、駐車場や倉庫が目立つ辺りまで来ると「帰ろうかな」と思った。
あと15分もあるけば川がある。川沿いの桜並木はなかなかいいけど、そこまで足を延ばすと帰りは薄暗くなってしまうだろう。
明るいうちに帰宅しなければならない。
なぜなら危ないから。
痴漢とか変質者が怖くて危ないと思うのではなく、薄暗くなると車とかオートバイに引っかけられそうな気がする。体に光るものでも身につけていないと、夕方で気ぜわしい運転手たちは住宅地の路地を乱暴に運転してぶつかってこないとも限らない。
気がするだけで実際に危ない目に合ったことはないけど。
一瞬でこの世から消えることができたら、と想像はするくせに、事故すると怪我の痛みとかお金の心配とかが、とても面倒だ。できるだけそいうものを避けたい。
そういうわけで怪我しないようにと気をつけるのだ。
同じ理由で寝る前の戸締りも確認もきちんとする。
部屋に戻り、ムッとした空気を入れ替えるために窓を開け、水を一杯飲み、窓を閉めてエアコンを入れたところでトートバックの中の携帯が震えた。
なんて日だろう。
日頃はほとんど人と話さないのに、今日は下の階に住む小雪ちゃん、電話だったけど和彦、”星の木”のマスターと話した。むこう半年間の人との会話をすべてやってしまったような気がする。
私は人と多く話すと夜、眠れないようになっていた。
夕方の散歩で頭をややクールダウンしたような気もしたけど、今夜眠れる自信はなかった。
なのにその上また電話なんて。かんべんしてよと思う。
しぶしぶ携帯を取り上げて画面を見ると学生時代の友人、冴子だった。
冴子とはなんだかんだと1、2年に一度ぐらいは連絡を取り合う間柄だった。
また人数合わせのコンパの誘いか? でもしばらく前に「只今失業中」と言ったばかりだし、それも違うかと思う。
「あっエマ、今大丈夫?」
なぜか冴子の声は上ずっている。
「どーしたのあわてて?」
「何とビックリなんだけどさ、和彦はもちろん知っているでしょ。うちらの友達の。というかあなたの友達?」
大学を超えたボランティアサークル内では、私と和彦、冴子も入れた6人ぐらいのグループが自然とできてたまに遊んだりしていた。
「私の友達?っていうか何というか。で、彼がどうしたの?」
昔、彼は私のことを好きだったかもしれなくて、なんて今日知った衝撃の事実をここでは言う気になれなかった。
「そーそー、聞いてよエマ。和彦は留学先の大学で銃の乱射事件に巻き込まれたんだって。休み中の大学でのイベントに大勢の人が集まっていたところに起こった事件らしい」
「えー嘘!!」
私は大きな声を上げたまま言葉が続かない。そういえばここ2日ぐらいニュースを見逃していた。ニュースを熱心に追っても日本で起こることの十分の一さえわからない、と感じてから見逃してもあせることがなくなっていた。
昨夜のぼそぼそとした物言いと穏やかな笑顔の和彦を思い出す。
ビールを飲んだ頬っぺたはちゃんとピンク色に染まっていたはずだ。
でも居酒屋の店員や電車で会ったサラリーマンの憐れむような瞳を思い出した。私は傍から見れば大きな声で独り言を言っていたことになるのか。
銃で撃たれた和彦の魂ははるばる海を渡って会いに来てくれた。ということは死んじゃったの?
と思ったが違った。
「すぐ病院に運ばれて銃弾を取り出す手術受けたんだけど、しばらく意識が戻らなかったんだって。でも今日になって、ほぼ大丈夫だろうってことになったらしい。和彦の留学仲間が英ちゃんと友達でしょ。で、私の所にも連絡が来た。エマにも知らせた方がいいだろうって」
英ちゃんというのは学生時代のグループの一人で冴子の彼氏だ。
「英ちゃんは昔、エマと和彦がつき合うと思っていたらしいよ。和彦がエマのことバカみたいに正直で不器用なところがいいって言うの聞いていたらしいから」
そういえば和彦は私のこと、よくバッカだなぁと言っていたのを思いだす。私はそんなとき言葉通りにしか受け取らずムッとしたものだ。
「そーねー何となくそうならなかったね。でも冴子と英ちゃんはつき合ったもんね。大学のときには友達同士しか見えなかったけど」
「そうそう、会社がきつくて、そんなとき英ちゃんが励ましてくれたのが大きかったなぁ。おととしぐらいかな、私が30歳になったらプロポーズしてくれる?って言ったら英ちゃんは、いいよって言ってくれたんだ」
「うん、それ聞いた何回も聞いた。でも何回聞いてもいい話だよね」
私はこの話しを聞くといつもほのぼのした気持ちになる。そして冴子の潔さが羨ましい。
雰囲気がお笑い芸人にしか見えない英ちゃんだけど、今はやはり大学の講師をしていて准教授、教授の道がはっきりしているエリートだ。
冴子の方は出版社を目指していたけど、ちゃんと大学を卒業したものの就職したのは編集プロダクション。出版社の下請けやフリーペーパーなど何でもこなさなければならない、きつい割には給料が安い会社だった。
冴子には損得を考えず夢を追うような強さがあった。
でも正直、私が大学中退ながら出版社で働いていた時期は冴子に優越感を持っていたことも否めない。
ところが、冴子はいずれ大学教授夫人。
羨ましい気持ちはないが、人生どうなるかわからないと実感する。
「で、どうする?和彦のこと」
「うちらは仕事で行けないけど、エマはアメリカに行ってみる?」
時間もあるだろうし、と言わないのが冴子の優しさだ。
「そーねー。旅費も貯金から出せないこともないし、パスポートも有効なんだけどねー。アメリカの病院までお見舞いってなると何かね」
「和彦は絶対喜ぶと思う」
「あまり喜ばせてもいけないんじゃないかって思うし。日本の病院ならぜんぜん問題ないんだけど」
「まだそういう感じ? でも電話ぐらいはしてあげなよ。家の人、行くかどうかわからないけど怪我して心細いと思うよ」
「うん、そうする」
と言って電話を切った。
本当に人生何が起こるかわからない。