挨拶回り
少し短いですが、キリなのでアップします。
「惟光には、ボクの指示に従ってもらうことになる。後で、ボクが作った資料やなんかを送るから、ここに空メールして欲しい」
何でもないような顔で、アドレスを書いた紙片を渡す。
とんでもない話をとんでもないと認識していないのだ。
単に、1+1=2というように、理論の説明をしただけのようだった。
やけくそになって、椅子に座った。
まだ、動悸がする。
椅子は上等だった。座り心地が違う。
だが、そんなことより、今の話が頭の中をグルグルと駆けめぐった。ショックが大きすぎて、完全にキャパオーバーだ。
「でね、お昼食べたら、駅前の事務所に来てくださいって、ヒカルが言ってた」
急に子供っぽい口調で言う。
こいつ、わざと使い分けてるんじゃないか?
ええい。それでも、これが俺の上司で、上司の命に従うのが俺の仕事だ。
「駅前の事務所って?」
「お父さまの久光氏の事務所。場所、知ってる?」
この街に住んでいる人間で、知らない者はいないだろう。
「ああ、知ってる」
「これから外回りのお手伝いもしてもらうことになるから、あちこち紹介するって」
「あっちこっち紹介してもらうんだったら、もっとマシな格好しないと」
美保は、ニヤリと笑ってスタイリストと化した。何のことはない。俺で遊びたかったのだ。
紫は大喜びだ。
結局、オーディション用に購入した一番マシな背広に落ち着いた。
後、2着は買った方が良いとのアドバイス付きだ。
ドライヤーとブラシを手にした美保と、頬杖をついた紫に、いってらっしゃい、と送り出される。
何の因果で、小娘どものおもちゃにされなきゃならないんだ?
先が思いやられた。
でも、チームヒカルでは、俺が一番下っ端なのだ。
歩きながら、紫の話を反芻する。
とんでもない世界に足を踏み入れたのだろうか?
駅前の事務所は、一等地に建ったビルの三階にあった。
窓に大きく二条久光事務所と書いてある。
ドアを開けると、背広姿の光が待っていた。
「なかなか良いじゃないか。
美保ちゃんの仕事?」
「お見込みのとおりです」
「紫は、何か、言ってた?」
「良い良いって、喜んでました。完全におもちゃですよ」
「君を気に入ったんだろう。良かったよ」
「良くないです!俺のメンツは、どうしてくれるんです?」
憮然とすると、光が笑いながら話題を変えた。
「君、紫に頼まれてデータを売っただろ?」
「ええ、おかげさまで、良い小遣いになりました」
何で知ってるんだ?
返せって言うなよ。
もう使ってしまったんだ。
「紫が言ってた。
でたらめな数字を並べても分からないのに、君は、自分の調べたノートをそのままコピーしてくれたって」
「だって、コピーが欲しいって話だったじゃないですか。だから、あの近くのコンビニでコピーしたんです」
「君は、あの時、紫のことを、私の所へ提出するレポートを書いているライバルだと思っていただろ?」
「ええ、あんな小さな子が、ジュニア、いえ、あなたの課題をしてるので、驚きました」
「だったら、でたらめな数字を渡した方が、君にとっちゃ有利なはずなんだ。
少なくともライバルが一人減る。
実際、デタラメなデータを渡した者もいる」
絶句した。
そういうやり方もあったのだ。
「でも、君はそうしなかった。
馬鹿正直に自分のノートをそのままコピーして渡したんだ。
それに、同席している間、他の連中と違って、嫌がらせをしたり、怪しげな振る舞いをしたりしなかったって」
嬉しそうに微笑む。
「怪しげな振る舞いって?」
「そのうち分かる。
紫は、あの器量だ。いろんな男が卑猥な言葉を投げ掛けたり、怪しげな振る舞いに及ぶことがあるんだ。
だから、外へ出せない。
あんまり丈夫じゃないのに、周りはオオカミだらけなんだ」
惟光氏の初仕事は、関係各所の挨拶回りでした。
しかし、ボスも上司も癖のある連中です。これから、どうなるでしょう?
がんばれ、惟光!