25話 「青い炎」
〈氷の子〉と呼ばれたレイデュラント家の長男、フレデリク・レイデュラントの表情がいつも以上に冷たくなったのは、彼が公務を終えて我が家へとたどり着いたわずか三分後のことだった。
「お帰りなさいませ、フレデリク様」
「ああ、今戻った」
玄関で迎えたのはいつもの執事長である。
しかしこのとき、フレデリクはその執事長の表情に微細な違和感を覚えていた。
「ミアハはいるか」
「いえ、今朝がた侍女と外出なされました」
「そうか。ルナは?」
「同じくでございます」
上着を執事に預け、靴を脱ぎ玄関にあがる。
一歩、二歩と自室のある三階へ向けて歩を進め――
「……理由を聞こう」
フレデリクは立ち止まった。
首元にナイフが突きつけられていた。
「もうなりふり構ってはいられなくなりました」
「……ふむ」
後ろからフレデリクの首元にナイフを当てていたのは今上着を預けたばかりの執事長である。
顔は見えないが、その声音で尋常ならざる精神状態にあることはわかった。
端的に言えば追い詰められている者のそれだ。
「誰の差し金か聞いておきたい」
「申し上げられません」
フレデリクは焦るわけでもなく、怒るわけでもなく、いつもどおりの平静さで言葉をつむぐ。
「フレデリク様、明後日のドラゴン・レースを欠場してください」
「……」
フレデリクはその要求を聞いて、この不毛な襲撃の首謀者にある程度のあたりをつけた。
「そうすれば『あれ』も必要以上に事を荒立てはしないでしょう」
「この状況を荒立っていないと判断する私もお前も、ひどくこの世界のどろどろとした戦色に染まってしまったな」
フレデリクはわざとらしく肩をすくめる。
「フレデリク様、どうか」
「――無理だ」
フレデリクは背を向けたまま首を振った。
「私がドラゴン・レースに出なければ、いずれドラセリアは滅びる。だから、辞退はできない」
それは自信から来る言葉でも、見栄のために出た言葉でもなかった。
「ここで私が勝てば、かつての父上と同じ役割を私が担う。そのときは私に力がなければドラセリアはヨルンガルドに蹂躙されて滅びる」
シンプルな結果。
「一方で私がレースに負ければ、そのときは『レイデュラント家に勝利した者』として誰かがかつての父上の役割を担う。この場合もまたその者に力がなければドラセリアは滅びるが、レイデュラント家を下した者、という責任感と新たな栄光への高揚感が、少なくともその者の力を最大限に引き出すだろう」
「どちらへ転んでも、あなたにとっては修羅の道」
「みずからで選んだ道だ」
勝てばまた棘の道を歩み続けることになる。
負ければレイデュラント家の名を地に落とした者として、ドラセリアの歴史に汚名を刻むことになる。
「どうしてあなたは、そこまでなさるのですか……。あなたは二男のラディカ様や三男のミアハ様と違って争いごとに不向きな性格をしている。ここまでの道のりも、心をみずからで切り刻みながらどうにか歩いてきました」
簡単なことだ。
「国と、家族のためだ」
フレデリクは天井を見上げた。
竜の絵がそこで踊っていた。
「レイデュラント家はドラセリアにおける最古の貴族。私たちはドラセリアという国が生まれたときから、ずっとこの地の民と歩んできている」
そしてレイデュラント家自身、ドラセリアの民に助けてもらってきた。
「こんな私たちを慕ってくれる領民のためにも、私は全力を尽くす。それがレイデュラント家の跡継ぎとして生まれた私の使命だ」
そして仮にこの名が廃れるのだとしても、そのとき非難されるのは自分でなくてはならない。
ほかの兄妹たちが後ろ指を差されるのは、
――耐えられん。
「まあ、ヨルンガルドの強引なやり口に少なからず憤っているとも言える。やつらに一泡吹かせられるのなら、やはり私が竜騎兵団の団長になるのも悪くないな。特等席だ」
最後は冗談っぽく。
フレデリクはそう言って話を切り替えた。
「私からも質問がある。お前は私になんらかの恨みがあって、私に牙を剥いたのか」
「……いいえ。私はあなた様にも、先代様にも多大な恩義を感じております」
首元のナイフが震えている。
それを見たフレデリクはゆっくりと目をつむり、そして優しく告げた。
「そうか……、十分だ」
一瞬、フレデリクの瞳の中に青い炎が灯った。
しかしそれも一瞬のことで、次の瞬間には〈氷の子〉と呼ぶにふさわしい怜悧な光を瞳に戻し、それからとん、とつま先で床を叩いた。
「〈青の氷土〉」
展開から発動まではよどみなく。
フレデリクが声を発したときには、足元に展開された魔術陣が青白い氷となって執事長の足を凍らせていた。
「……ああ」
「しばし痛む。許せ」
足から侵食した氷は瞬く間に執事長の体全体を覆い、その動きを止める。
フレデリクはそこでようやく振り向き、自責の念でゆがんだ執事長の顔を見た。
「……どうか、殺してください」
「ほかに道はないのか」
「ありません。そういうふうにいじられました。私が生き残れば、レイデュラント家に牙を剥き続けるでしょう。そしてしくじって生き永らえても、共倒れになる。だから、殺してください。――死人に口はなく、ゆえにわずかな猶予が生まれる」
「……そのわずかな猶予で、私に頼みたいことはあるか」
「……どうか、妻と娘を」
悲嘆と後悔と自責と自嘲と。
絞り出すような声に含まれたさまざまな思いをフレデリクはすべて汲みあげた。
「……わかった」
そしてフレデリクは、ゆっくりと、しかし大きくうなずいて、最後にこう言った。
「これまであなたが捧げてくれた忠義には必ず報いる。だから、安心して眠れ。……今までありがとう」
涙を流す執事長は、やがて青い氷に包まれて動かなくなった。
しんと静まりかえった屋敷の玄関口で、フレデリクは大きく息を吐く。
「――私を怒らせたな」
フレデリクの目に、再び青い炎が宿っていた。




