第四十六話 世の中には猫を害虫と思う人もいるんです
タイトルを見て、ギョッとされたかもしれない。そんなこと思う人が世の中にいるなんて……とネコスキーなら誰もが思うに違いない。
ここからは、ぼくが実際に体験したことを交えて話をするとともに、ある事件にスポットライトを当てていきたいと思う。
残酷な描写が少々あるため、それが苦手という方は、迷わずここで回れ右をしてほしい。ただ、そうであっても一緒に考えてもらいたい話であるので、つらいのを覚悟の上で聞くぞと腹をくくってくれたならば、そのまま読み進めていっていただきたい。
ということで、つらい話をする前に、少しばかり、ねこさんの可愛い写真を見て、心を落ち着かせていただけたらと思う。
さて、野良猫を虐待し、それを動画で配信したということで税理士の男が逮捕された話を覚えているだろうか?
鉄製の捕獲器の中に捕まえた三匹の猫を閉じ込め、熱湯を浴びせたり、ガスバーナーであぶったりして殺したという話だ。
なぜ、殺したかと問われれば、
『猫はふん尿が臭く、爪研ぎをする。有害動物の駆除なので法律違反にはならない』
というのが理由だと、悪びれることなく話していたらしい。その上、この男は虐待マニアの中では『神』と呼ばれていたとも言われている。
確かに猫のふん尿は臭いが強い。これは猫が人間や犬に比べて、圧倒的にタンパク質を必要とする生き物であるからである。猫のタンパク質の必要量は人間の四倍~五倍であり、犬の二倍とも言われている。タンパク質は肉や魚、卵などであるが、それらタンパク質は骨や筋肉組織を作る役割を持つ、大切な栄養源でもある。これをとにかく必要とするのが猫。まぁ、彼らの、あの驚異的な運動能力を知れば、それだけの栄養素が必要であることはわかるだろう。そのタンパク質が腐敗してできた排泄物であり、摂取量も多いことを考えれば、臭いが強くなるのは当然のことだろう。人間だって、タンパク質中心の生活であれば、おそらく便は臭くなる。実際、焼き肉をたくさん食べた後の排泄物は臭わないか? よければ、実際に比べてみると面白いだろう。
では、尿はどうだろう? 猫の祖先であるリビアヤマネコは、砂漠に住んでいたという。水がほとんどない砂漠地帯で、彼らが生き延びるためには、一滴の水も無駄にできない。猫は水をあまり飲まなくてもいいように、水分を無駄にしない身体の仕組みになっているという。そうだ。これは自分たちも同じだ。水分量が少ないときの尿は濃縮され、アンモニア臭もきつくなっている。猫は生まれながらにこういう体質で、濃縮された尿を出しているのだ。臭いのは彼らの特性であり、生きるための仕組みのひとつなのだから、致し方ない。
それに加えて野良猫である。食事管理されていない彼らがなにを食べるのか?
生ごみ、ネズミなど、どう考えても臭いの原因に直結するようなものばかりを口にしている。ならば、飼い猫よりも一層、排泄物が臭くなるのは自然のこと。
では、爪とぎは?
これも本能の部分が大きい。猫は狩りをする生き物だ。当然、常に尖った爪を維持したい。それに加えて、肉球のところにある臭腺から自分の臭いを分泌し、縄張り主張をするのだという。また、爪とぎをすることで気分転換をしたり、かまってほしくて自己アピールのための爪とぎをするときもあるのだという。これをやめろということは、どうやっても難しい。
彼らにとっての爪とぎはおそらく、ぼくらが毎日行っている歯磨きや風呂に入るなどの生活習慣的活動となんら変わらないと思うからだ。
それを踏まえて考えてほしい。逮捕された男は、これらを嫌悪し、害虫だと判断し、駆除したというのだ。
これを酷いと思うのは、ぼくらが猫を理解し、愛しているからだ。しかし、これが苦手な生き物だったら、どうだろう? ぼくらだって、容赦なく駆除しないだろうか?
ぼくはゴキブリが大嫌いだ。だから、見かければ全力で排除する。たぶん、逮捕された男はこの感覚で猫を虐待したのだと思う。考えたくはないけれど、彼らにとってはおそらく、ゴキブリも猫も一緒なのだ。むしろ、個体の大きさや鳴き声などから、猫の方が害虫だと主張するかもしれない。
悲しいかな、こういう現実は実に身近にある。
実際にぼくの周りにもあった。以前、ぼくが勤めていたイタリアンレストランのオーナーが、ぼくにニヤニヤ笑いながら、こう言った。
「子猫にな、ホウ酸団子を食わせてやった」
ぼくはびっくりして、黙ったまま話を聞いた。ホウ酸団子といえば、ゴキブリを駆除するための毒入り団子だ。ぼくたち人間だって口にすれば、中毒症状を引き起こす。それを子猫に食わせたというのだ。
オーナーは野良の子猫が生ごみを漁るから頭に来る。子猫を殺せば、生ごみを漁られることなく、気分が悪くなることも、片付ける手間暇もなくなって丁度いいと言った。
「あいつらは害虫だからな。害虫は駆除されて当然だ」
この頃のぼくは猫派ではなかったが、それでも、これ以上、こんな人の元で働けないと、その店を辞めた。その後、子猫がどうなったかはわからない。きっとただでは済まなかっただろうことは容易に想像できる。しかし、こういうことを平気でできる人も確かにいるのだ。本当に身近なところに、気づかないだけで、きっと多いに違いない。
彼らにとって虐待は正義だ。そこには悪いことをしている罪の意識はかけらもない。
動物を虐待して殺しても、その罪状は『器物損壊』だ。命でありながら、器物である。三年以下の懲役、又は三十万円以下の罰金で済んでしまう。命を奪う行為であるにも関わらず、これで済んでしまうのだ。刑罰を受けたとしても、おそらくこれでは罪の意識や命ひとつの重みを感じることなどないだろう。
昨今は、いろいろな動物が環境破壊などによって多く処分をされている。彼らだって、好き好んで、その土地に根付き、増えたわけでもないだろうに、命をはぐくむことも許されず、処分の対象になる。それも他の生き物を守るためだと言われたら、納得せざるを得ないのだが、考えてほしい。
変わらなければならないのは、彼らばかりではない。我々、動物を飼育する側の選択ひとつで、多くの命の未来が変わる。
飼育するのには責任が伴う。その子の一生を背負わねばならない。無責任に可愛い時期だけ手元に置いて、手が掛かるようになったら捨てるなんてことは、本来、絶対にしてはならないことなのだ。
小さな命が心無い人の手によって、弄ばれ、消えていく――この現実をどう思うだろうか? 調べればすぐにいろいろな虐待の話を拾うこともできる。それをどう思うだろうか?
動物虐待を減らす、殺処分を減らす取り組みの第一歩は、無責任に命を放さないことだ。飼い主ひとり、ひとりが責任を持つことだ。
うちのねこさんは、たまたまぼくに拾われることになった。猫のことを好きなはずのぼくでさえ、その命を救うことに苦戦しまくった。たまたま、ぼくみたいな人間に拾われたから、ねこさんの寿命は延びたけれど、もしかしたら、ぼくではない人――猫を害虫と思う人だったら、彼は病気よりもつらい経験をし、命を落とすことになったかもしれない。
世の中には、猫を害虫と思い、猫をいたぶって殺すことに躊躇しない人もいる。そんな悲しい最期を迎えさせないために、ぼくたちができることを考えてもらいたい。
まずはこういった現状を知り、そのためにできることを考えるという一歩から始めてほしい。
痛い、つらい、悲しいを、鳴くこと、抵抗すること、逃げることでしか訴えることができなかった罪なき命の、言葉にはできなかった叫びを無駄にしないために……
まずは知ること。
これがきっと、動物たちの命を救うきっかけになると思うから。
(ちょっと息抜き余談)




