第四話 ひとつの命を拾うこと
獣医さんに到着したときには、すでに八時を回っていた。通ってきた道が帰宅ラッシュでとにかく渋滞で、思った以上に時間がかかったからだ。すでに通常の診察時間は終わっており、待合室には支払いを待っている人が一人だけ。ブラインドは閉められ、照明も暗くなっていたけれど、獣医さんは快く迎え入れてくれた。
早速、拾ってしまったので、里親探しをお願いできないかと相談すると、獣医さんは苦い笑みを浮かべた。
「里親を探すのはいいけれど、チラシはつくってもらわないといけないし、一日五百円かかるけどいいの?」
え? 無料でやっているわけじゃなかったの?
「昔はね、無料でやっていたんだけど、それだとキリがないの。増えすぎちゃって、犬舎に収まらなくなったからね、それじゃ、本末転倒でしょ?」
確かにそうだ。獣医さんはボランティアじゃない。犬舎だって、具合の悪くなった子達のものだ。
「五百円でも安い方だと思うよ。手はかかるし、小さい子を育てるのはいろいろ大変だからね」
ねこさんを見る。ものすごく小さい。手はかなりかかりそう。
「拾ってお願いしますと丸投げなら、誰だってできる。実際、そういう人もたくさんいる。でもね、考えてほしい。ひとつの命を救うってね、簡単なことではないんだよ。だから、うちでは最後まで責任をもってもらう、命を救うことの大変さをわかってもらうために里親探しは自分でしてもらう、預けるにしても、きちんと料金をいただくんだよ」
獣医さんはそう話してくれた。さらにボランティアさんの必死な話もしてくれた。
「里親探しをするボランティアさんは、毎日丁寧にお世話をし、予防接種もして、大切に育ててくれる人を吟味する。で、信じて預けたあとに抜き打ち検査までしてね、大事に育ててなかったら引き上げちゃう人もいる。そこまでやるのはどうかと思うけど、彼らにはそれくらいの権利がある。本当にひとつ、ひとつの命を大切にして、育てて送り出すんだから、大事な子供を預けたのに、裏切られたら引き上げるのは無理もない話だよね。お金だってかかってる。餌も注射もタダじゃない。それでも彼らは命を救うために、寝る間を惜しんでやる。ひとつの命を救うのはね、それくらい大変なことなんだよね」
獣医さんの話で、ぼくは某番組で紹介されたボランティアさんを思い出した。内職しながら、ねこの世話をする人だった。大変なのに何匹も世話をしていた。ボランティアなど、簡単にできることではないのだと、ぼくは改めて痛感する。そして、そんな人が簡単に見つかるわけがない。
「命を救うことがどれほど大変なのか、これはやってみるのが一番いいと思うよ。もしかしたら、十日足らずで死んでしまう可能性もある。子猫は子犬に比べて未熟だから難しいしね。でも、それでも、その十日を知ることはとても意味があると思うよ」
この時点で獣医さんにお任せコースであるプランBは断念せざるを得なかった。簡単にいけるだろうと思っていた、ぼくの浅はかな目論みは脆くも崩れることになった。
そして、決断を迫られる。お金を出して預けるのか、もしくは自分で頑張るのか。
「育てるなら、相談に乗るよ」
里親探しは簡単ではないと話を聞き、その上で考える。獣医さんに預ければ、手間はないが一日五百円かかる。期限は設けるにしても、それがどれくらいの期間になるかはわからない。十日でも五千円、一ヶ月なら一万五千円。自分で育てるとなると手間の他にお金はかかる。けれど、自分で拾ったのに、なにもせずにお金だけ費やすのはいかがなものだろう?
それに……だ。まだ、おばちゃんがボランティアさんを探してくれている。でも、手をかけるのに人に譲渡するってのはどうなのか?
「ひとまず、貰い手が見つかるまで自分で頑張ってみようと思います。まったく飼い方がわからないので、教えていただけませんか?」
こうして、ぼくはプランBを諦め、プランCに希望を繋ぐ決意をする。
いい人が見つかるまで、世話をしよう。そこそこお金と手間がかかるのは仕方ない。拾ったのは他でもなく、ぼくなのだから。
しかしながら、このとき、ぼくはまだ気づいていなかった。プランCに繋げようという目論見を簡単に覆してしまう感情の存在を……弱いもの、小さいものへ抱く情という、心の動きがなによりも厄介であるということを、完全に忘れてしまっていたのであった。
(余談)