第二十九話 お気に入りのタオルをきみへ
ねこさんの入院の様子は逐一ハットリくんに報告を入れていた。入院当日にずいぶん言い合ったぼくらであったが、それでも、互いにねこさんのことを心配しての意見のぶつけ合いだったことを考えれば、当然と言えば当然のことだった。
ぼくの様子を聞いたハットリくんは、ぼく同様に少し安心したようだった。その上で彼は『俺も明日会いに行くぞ』と言い、そして続けた。
「ところで、あいつの好きなタオル、持って行ったのか?」
その言葉に、ぼくは頭が真っ白になった。入院という重すぎる事態を受け止めることが精いっぱい、かつ、彼の安否確認に全神経が集中してしまっていて、そんなことすら頭に浮かばなかったのだ。ゆえに、このときの言葉はひどく胸に刺さった。
なんてことだ! そんな大事なことを忘れたのか!
もしも、自分がもう一人いたら、即、胸ぐら掴んで『バカか! おまえはバカか!』と罵るに違いない。事実、頭の中でぼくは、ぼく自身の首を締め上げた。本当にバカな飼い主で、ねこさんが気の毒だと思えてならない。
考えてみたら、気づきそうなものだ。入院である。犬舎にトイレシーツを敷いたくらいの簡素な状況であるに違いない。もしかしたら、彼は寒がっているかもしれないし、さみしがっているかもしれない。そう考えれば、彼のお気に入りのもの、普段から使っているものを持たせてやらなくてどうする!? なのである。
「明日……持っていくよ」
その日に持って行ってやればよかったのかもしれないけれど、ぼくはまだ、このときすぐに彼が死んでしまうなんてことを考えていなかった。先生には状況が好転しているどころか、こう着状態で、命の保証はないと言われているにもかかわらずである。
覚悟をしていなかったわけではないし、そうなる可能性も頭には入れていた。けれど、ぼくは『死』の可能性を他の誰よりも一番信じていなかったのだと思う。明日があると思うのは、健康的な者が考えることだ。このときのねこさんの状態は、一秒が重かった。その一瞬を生きることがどれだけ彼にとって大きなことか、大変なことか、つらかったことなのか、ぼくはもっと考えるべきだったのかもしれない。そうすれば、すぐにでも、あのお気に入りのタオルを持ちに帰っただろう。幸いだったのは、彼の時間が翌日まで繋がってくれた――という事実である。
さて、翌日、ぼくはハットリくんとともに獣医さんを訪れた。もちろん、お気に入りのタオルも忘れずに持っていく。洗濯をしていなかったので、フードの匂いにまみれて、本当に臭かったけれど……
到着時間が十時を回っていたため、獣医さんは混みあっていた。駐車場は一杯で、置くところもなく、終わって出て行った場所に滑り込むようにして停めた。受付で面会である旨を告げると、しばらくして、青いカゴに入ったねこさんが連れて来られた。今回は待合室での面会である。
相変わらず、ねこさんの状態はよくなかった。それでも少し、目元はきれいになった気がしたし、鼻水も止まっているような気がした。短時間だったから咳もしなかった。しかし、相変わらず身体中で息をするのは昨日と変わらない。ただ、生きてはいてくれる。少し歩いてはじっとするを繰り返しているだけだったけれど、息をしていてくれるだけで嬉しかった。カゴの間から指先を入れて頬の辺りを撫でれば、顔をすり寄せるようにして目をつむる。
「もう、行こうか。あんまり長い時間、酸素室から出していたら苦しいだろうし」
ハットリくんに言われて、五分ほどで面会を終えることにした。受付で「帰ります」と告げると、もういいの? というような顔をされたが、構わない旨を伝えた。彼を迎えにきたスタッフさんにカゴを渡す前に、ぼくはいそいそとタオルをそこに入れ込んだ。すると、どうだろう? それまで大きなリアクションらしきものをしなかった彼は、嬉しそうにタオルに顔をこすりつけ、ゴロゴロと喉を鳴らしたのだ。
「このタオルも一緒に入れておきますね」
「はい、お願いします!」
ねこさんが再び、奥の部屋へと入っていくのを見送りながら、ぼくは心から願った。これで少しでもゆっくり休めるようにと――
「どう思った?」
帰りの道中、ハットリくんにぼくは聞いた。彼の意見を聞いて、安心したかったからである。
「苦しそうだったな。でも、タオルは喜んでた」
「うん、言ってもらってよかったよ。ところで、死相は見えた?」
ぼくの問いかけにハットリくんは「見えたもなにも」も顔を曇らせ
「ストライクゾーンの、ど真ん中じゃん」
と、さらに不吉なことを言ってくれた。
「まぁ……そうだよな」
この頃の写真、特に入院二日目の写真はひどかったことからも、彼の言っていることは正しいと言える。それでもぼくらは、そんな死の、ど真ん中にいる彼にどうしても生きてほしくて――彼の生きる力を奮い起こしたくて、翌日、ある作戦に打って出る。
それが彼のさらなる力になると、信じて疑っていなかったから。とにかく足しげく通い、彼に一人でないことを実感してもらうこと。その上で、ぼくらに残された最後の切り札に託すことくらいしか、このとき、この状況で、この状態のねこさんにできることは、ほとんど残されていなかった。
(余談)




