第二十五話 選択のとき、猶予なし
「入院しないとまずい状況です」
そう言われたときには頭が真っ白になった。確かに考えなかったわけではない。ねこさんの衰弱具合は、鈍いぼくでもわかるくらいにひどいものだったからだ。それでも、どこかで入院は回避できるのではないか? と根拠もなく思っていた。さらに言えば、この後に続く言葉を全力で否定したかったのもある。
「肺が真っ白なんだ。肺炎だね」
先生は神妙な面持ちでそう告げた。今まで見たこともない切迫した表情が、緊急度の高さをうかがわせた。
肺炎――これだけは回避したくて頑張ってきたはずなのに、結果的にぼくは彼を肺炎にさせてしまった。どこで間違えたのかをぐるぐる考えた。もう少し早かったら、こんな状況にならなくて済んだのかもしれないと、今まで、ぼくが辿ってきた道を振り返りもした。
「とにかく、入院して、今できることをやりきるしか道がない。でも、入院が嫌なら、通院して看取るという道もあるよ。これは飼い主さんが決めることだけど、どうする?」
一瞬、ぼくは言われている意味がわからなかった。特に『看取る』という言葉を飲み込めたのは、病院を出てからの話だ。
ねこさんは身体中で苦しそうに呼吸を繰り返していた。診察台の上で、ただじっとしている。身じろぎせずにうずくまっている彼の背を撫でてやる。パラボラアンテナのプラスチックが邪魔で、頭を撫でてやることができなかった。
「あの……注射を打ったその日の夜から具合が悪くなったんです。昨日休診だったから、一日待ったんですが、待たずに相談して連れてきていたらよかったんでしょうか?」
そんな質問をするぼくに、先生は「いや」と否定の言葉を口にした。
「昨日診ていても、この状況は変わらなかったよ。もっと言うとね、診せる時期の問題じゃないんだ。どんなに早く対応しても、ダメなときはダメなんだ。それに、これは飼い主さんの問題でもない。きみは一生懸命やってくれたと思うよ。肺炎の原因も複数ある。細菌なのか、誤嚥なのか、それも調べてみないことにはわからない。その上で、きみがこれからどうするかを決めてほしい。助かる保証はないよ。それでもどうするか」
助かる保証はない――その言葉で思い出したのが、ハットリくんの言葉だった。もしも治療費が莫大にかかったとして、どうするのか? 助けるのか? やめるのか? そんな質問をされたことが頭を掠めていった。あのとき、ぼくは笑って『助けないかも』と口にした。それを心の底から後悔した。そんな言葉を口にしたから、神様が怒って、ぼくに試練を与えたのかもしれない。命を拾っておいて、簡単に捨てるようなことを言ったから、その重みを知らしめるために、神様が用意したのかもしれないと、そんなことも思った。
「できるだけのことをしてやってください! それでダメなら……そのときにまた考えます」
できるだけの治療をしてもらおう。お金はかかるかもしれない。助からないかもしれない。ダメだと言われたら、看取らないといけない未来も、現実あるかもしれない。それでも、ぼくはあきらめたくなかった。たとえ、他の誰もが助からないと彼を見捨てたとしても、最後の最後まで、ぼくだけはあきらめてはならないと、そう思っての選択だった。
「うん、わかった。できるだけのことはする。でも、命の保証はしないからね」
「はい。それでもやるだけやってから、あきらめたいです」
先生は大きく頷いた。苦しそうなねこさんを見て、ぼくは泣きそうになっていた。ここまで彼を苦しめたのはぼくだ。ぼくが体重増やしに躍起にならずに、早めに抗生剤を投与してもらえていれば……目の治療よりも風邪の治療を優先させて、パラボラアンテナ状態なんかにしなければ……夜間救急に連れて行っていれば……休診でも先生に相談していれば……ぼくが選択してきたことがすべて裏目に出てしまっていたのではないかと思ったら、悔しくて仕方なかった。
これ以上の間違いはしたくない。
「先生。一つ、お願いがあります」
これ以上の後悔をしたくない。
「カラーを外してやってください。せめて……治療中、楽に寝られるように……」
パラボラアンテナが重たくて、うまく休めなかった彼を思い出して、そうつげると、先生はまた、大きく頷いた。
「気持ちはよくわかるよ。外しておくね」
「ありがとうございます」
ねこさんを先生に預け、ぼくは空っぽになったカプセルホテルを持って診察室を出た。一緒に帰れないことが、こんなにつらいと初めて知った。ひなさんが去勢手術したときも、歯石とりの手術をしたときも、これほどの気持ちになることはなかった。
「紫藤さん」
受付をしている先生の奥さんに名前を呼ばれると、そこで一枚の紙を差し出された。
『同意書』
仮に亡くなることがあっても、仕方ありませんという旨の書類だ。ひなさんの手術でも記名した。そのときは躊躇なく書けたのに、このときは本当に名前を書くのも嫌だった。
「入院するのに前もって五千円いただきますが、よろしいですか?」
「はい、大丈夫です」
入院費は後で支払うことになる。そのための手付金を支払うのだが、支払いは彼が助かっても、亡くなっても発生するものである。できるなら、前者であってほしい――そう心から祈りながら、ぼくは五千円を支払った。
「よろしくお願いします」
「大切にお預かりします」
深々頭を下げ、ぼくは獣医さんを後にした。空っぽのカプセルを助手席に置いて……やりきれない気持ちを抱えたまま、家路につくのだった。
(余談)




