その34 住まい
それは逃げていた。群れの縄張りに突如侵入した赤頭大爪熊から。全てを斬り裂くような恐ろしい相手、群れを呆気なく散らした存在から。
それは随分と若かった。まだ両親が率いる群れの末席であり、恐怖で闇雲に走り続けたのも無理はない。そして住み慣れた森の中から飛び出してしまったことも。
しかし、それは森が切れた先にあるものを知らなかった。
視界が開けたとたん足元の地面は失せ、それは水面に落下していく。そして、それは為す術もなく川の流れに飲み込まれていった。
◆ ◆ ◆ ◆
九月終わり近くのアマノシュタット中央区、小隊長向けの寮。昇進により間もなく去る自室で、俺ジャン・ピエールは新聞を読んでいた。
「アマノシュタットの珍事、北区地下水道でハグレ河狼を発見……か」
河狼っていうのは小型の鯱って感じで、結構な数の群れを作る魔獣だ。そして縄張りに侵入するとジャンプして襲い掛かってくるから、船の上でも油断はできないそうだ。
しかし一般的な河狼は大きさが中型犬くらいで魔獣かどうかギリギリの危険度、しかも普通は縄張りから出ない。そして船を扱う者たちは安全な水域を熟知しているから、大事件に至ることは少ないのだとか。
もっとも今回のように稀だがハグレが出ることがあり、そうなると思わぬところで子供が襲われるかもしれない。そのため対処は必要ってわけだ。
で、件のハグレ河狼だけど。
王都に引き込む水道の柵が老朽化し、壊れたところから侵入したらしい。日本なら「○○ちゃん」とか言われる事案だな。
こっちの世界だと殺処分かと思ったけど、予想は良い方向に外れた。なんでも殺すほどの相手ではないから、眠らせてアマノ川に戻すとか。
どうも河狼くらいの扱いやすい魔獣なら、適度にいた方が良いようだ。そういうのがいなくなると、もっと凶暴なのが棲みつくらしいんだ。
ちなみに柵は修理済み。この手は街道工事などと同じく工兵の担当だけど、北門の連中も借り出されたそうな。お疲れ様です。
「ジャンさん、お待たせしました!」
そんな風に時間を潰していたら、エーディトさんがやってきた。
実は今日、斡旋された家の下見に行くんだ。それで地元に詳しいエーディトさんが案内してくれるって。エーディトさんのお母さん、寮監のエーファさんが娘なら大丈夫だって推薦してくれてね。
「いや、大丈夫。のんびり新聞を読んでいたくらいだから」
優しげな口調は崩していないけど、たぶん普段の言葉遣いや態度はバレているんだろうな。何しろ彼女の兄のディーターが俺の部下なんだから。
でも年頃の女の子の相手って慣れないから、緊張して丁寧な話し方になるのはしょうがない。ましてや端々に自分に対する好意が見えるし。
命を救ったっていうのは彼女の好感度を大きく上げたようだ。それに職場で兄、寮で母が接しているから普段の生活も把握できて、ますます安心できるんだろう。
しかもエーファさんは強烈に後押ししているし、ディーターも近いものがある。つまり家族も含めて障害はない、と。
でも俺の中身は日本の大人、つまり向こうだけでも二十歳を超えているからね。
前世も合わせれば四十代って考えることもできる。それにしては我ながら渋みがないから、そこまで精神年齢が高くないかもしれないけど。
とはいえ前世も足した体感的な年月からすれば、エーディトさんは娘みたいなものなんだよな……だから恋愛対象として見るのが難しいんだ。肉体年齢だけで見れば問題ないんだけどね。こういう精神と肉体の齟齬もあるから、前世の記憶を持たせないように神様がしているんだろうな……。
「東門にも近くて良いところだそうです、楽しみですね」
エーディトさんは浮き浮きした様子で行き先がどんな場所か触れていく。でも頭に浮かんだことのせいか、何となく彼女を騙しているような気がして、俺は少し胸が痛かった。
◆ ◆ ◆ ◆
「チッ! ジャンのヤツ……」
「王宮侍女だけあって、可愛い子だよな……」
若い男女が通り抜けた廊下を、脇の食堂から覗いている者たちがいた。もちろん彼らもジャン・ピエールと同じ小隊長である。
しかし顔に滲むのが嫉妬だからであろう、ジャンに比べて青年たちが見劣りするのは否めなかった。
「彼女くらい美人なら、王宮守護隊あたりでも狙っていたヤツがいるんじゃないか?」
「そう考えると応援したい気になってきたぞ。王宮詰めのお坊ちゃんじゃなくて、俺たちと同じ叩き上げのジャンが勝ち取ったってな」
小隊長たちは、少しばかり溜飲が下がったような顔となっていた。
ここは幾つかある小隊長向けの官舎でも、東区に近いものだ。したがって彼らの多くは外周区、残りの一部も軍本部勤務であり、王宮勤めはいなかったのだ。
「しかし中隊長に出世して、更に美人の彼女まで……やっぱりモゲろ!」
「そうだな! モゲなかったらハゲろ!」
「投石機で吹っ飛べ!」
しかし青年たちは再び恨めしそうな顔となり、妬みの言葉を口にしだした。
その様子を厨房の奥から、寮監のエーファが笑いを堪えつつ眺めている。これに気がつかないようでは、青年たちがジャンのように出世し美女を得るまで、随分と時間がかかりそうである。
◆ ◆ ◆ ◆
エーディトさんが語ったように、斡旋された家は中央区でも東区に近い外周寄りだった。所属が東門大隊だから、ここが一番良いってね。それに寮も東寄りだったから、俺も少しは土地勘があるし。
「中々良い感じだね。素朴で安心するっていうか」
門を潜った俺は、第一印象を言葉にしてみた。
石造りの一軒家で、旧帝国様式の窓が小さい平均的な建物だが、二階建てで小さいながらもベランダがあり、同じく広くはないが庭もある。どことなく日本の一軒家って雰囲気の家屋だ。そして元平均的な日本人の俺としては、こっちの方が豪邸より何倍も落ち着く。
「それは良かったです!」
俺の感想に、エーディトさんが微笑みを増した。
一種のデートみたいなもんだが、一応彼女は案内役だから安心したのかな。それに俺の要望を聞き取ったエーファさんが推薦した公邸だから、身内としての気持ちもあるのかも。
「成り立ての中隊長だから、このくらいが良いだろうね。プリムヴェールも軍の厩舎に預けるし……」
ここは公邸で一生住むわけでもないから、今の俺に合っていれば充分だ。俺は軍人だから転属もあるだろうし、自分で言うのも何だけど今月ようやく二十一歳になったばかりの若造だ。つまり異動もあれば、功績次第で出世だってあるはず。そうなれば公邸も何軒か住み替えるんじゃないかな?
ちなみに人によっては自身の愛馬で職場に通う人もいるそうだ。大隊長くらいだと殆どが男爵以上だし、中隊長でも貴族出身とか余裕のある騎士はね。
アマノ王国は新興国家だから少ないけど、メリエンヌ王国だとそんな感じだった。
でも新米中隊長風情がっていうのもあるし、そもそも馬丁とかも雇わなきゃダメだ。使用人は公営侍女紹介所に一人くらい頼むつもりだけどねぇ。
世話の確かさや馬場での運動もあるから、自宅に馬を置くのは難しい。要するに、一種の趣味というかステータスシンボルみたいなものだ。
とはいえ貴族や一部の上級騎士には、陪臣というか代々の使用人がいたりする。それにメリエンヌ王国だと領地持ちの男爵もいて、彼らは当然自前の馬を何頭も抱えている。したがって他国から来た人でも元が貴族だと使用人一家や馬を置ける場をって言う人は多いとか。
ただ地位に不相応な公邸を選ぶと、俸給から幾らか引かれるんだよね……。
「……ともかく入ってみよう」
「はい!」
なんとなく世知辛さを感じた俺だが、気持ちを切り替える。そして俺はエーディトさんを誘い、中の検分に移った。
まずはリビングに行ってみたけど、そこには幾つかの家具が置いてあった。備え付けってことらしい。
率直に言えば軍の中隊長用執務室にあるものと大差ない、飾り気のない品だった。質実剛健っていうか、実用本位というか。
しかし普段見慣れているものと似ているからだろう、むしろ俺は気に入った。リビングに遠慮しながら座るようなソファーがあっても困るだろ?
「……懐かしいですね」
ぽつりとエーディトさんが呟いた。ここはエーディトさん一家が住んでいた家ではないが、似たような雰囲気だったらしい。
今は亡き彼女の父は、旧帝国の内政官だった。かつてのベーリンゲン帝国で華美だったのは、公爵を含む皇帝家や続く侯爵、伯爵くらいまでだったようだ。そこから下は案外質素で、しかも騎士ともなると想像以上に節約した暮らしをしていたという。
一応は騎士も支配階級だから、年に数度は宮廷に呼ばれることもあったという。もちろん大広間に並ぶだけだが。そのためやはり年に何回かは、自費で高級料理店に行くなどして挙措を磨いたりしたそうだ。
「俺の実家もこんな感じだったな。父も兄も武官だから使えれば良いって方だったし、並の騎士家だったからね」
表面上は家具についてだけど、俺はエーディトさんたちの暮らしへの共感を滲ませつつ応じた。
口にしたように、メリエンヌ王国の実家も似たところがあった。中途半端に高い身分だと、むしろ出費が多くて内情が厳しいんだよ。
◆ ◆ ◆ ◆
「お気に召しましたか?」
昔を思い出していた俺に、知らない女性が声をかけてきた。年のころはエーファさんと同じくらい御婦人だ。
「ミッターマイヤーのおば様?」
どうやらエーディトさんの知り合いらしい。しかしミッターマイヤーねぇ……旦那さん、嵐のように凄い武人だったり……いやいや、まさかね。
ここは地球ならドイツに当たる地域だから、ミッターマイヤーも珍しくない姓だ。エーディトさんたちのアインスバイン家だってドイツ風だしね。
それはともかく話を聞いたところ、御婦人は以前から近所に住んでいる人、つまりエーディトさんたちと同じ旧帝国人だという。そして彼女は現在もエーファさんと親しくしているようだ。
ただしミッターマイヤー家は彼女以外の全てが帝宮に出仕して命を落とし、今は独り身だという。
「今はこの家を含めて何軒かの管理をして、国からお給金をいただいています」
王宮は、こういう未亡人にも仕事を回して生活を支えていた。上の方々も細かい心遣いをしているとは知っていたけど、実際に目にすると流石だと感じるよ。
「ここに引っ越すなら色々と面倒を見てあげてと、エーファさんからも言われているけど……」
ミッターマイヤーさんは、エーディトさんを見ながら意味ありげな微笑みを浮かべる。そしてエーディトさんは、顔を赤くしつつも嬉しげな様子だ。
これは、また包囲網が狭まったのかも……。そろそろ俺もハッキリすべきだよな。
お読みいただき、ありがとうございます。
アマノ王国建国後、その王都アマノシュタットでの光景です。「その33」より後、創世暦1001年9月末近くです。




