【間話】「ヒロインになる日」――召喚される前、春木桃は日本の女子高生だった。
私の家は、お金持ちだった。
父は大企業の社長で、母は元モデル。
住んでいたのは都内の高層マンション、最上階特別仕様のメゾネットの広い部屋だった。
欲しいものは、言えば買ってもらえた。
ブランドのバッグ。最新のスマホ。海外旅行。留学。
「桃ちゃんって何でも持ってるね」
クラスメイトにそう言われると、誇らしかった。
誇らしかった。
――はずなのに。
夜、父も母もいない広いリビングで、冷たい夕食を一人で食べながら、私はいつも思っていた。
”何かが、足りない。”
何が足りないのか、分からなかった。
お金はある。物はある。学校での立場もある。
でも。
夜が来るたびに、胸の中に穴が開く感じがした。
誰かに埋めてほしい穴が。
だから、学校では中心にいた。
いや、正確には――中心に"置いた"。
自分が気に入った子を近くに置いて、気に入らない子は遠ざけた。
遠ざけ方は上手かったと思う。
怒鳴るとか、暴力とか、そういう分かりやすいことはしない。
ただ、無視する。笑いながら除外する。「あの子ちょっとね」と耳打ちする。
それだけで、人間関係なんて簡単に動く。
私はそれを、"処世術"と呼んでいた。
本当のことを言うと。
私はずっと、怖かった。
選ばれなくなることが。
中心じゃなくなることが。
誰かに「あの子ちょっとね」と言われる側になることが。
だから先手を打ち続けた。
でも気づいていた。
近くにいる子たちは、私が好きなんじゃない。
私の財布が、私の家が、私の父親の名前が好きなだけだ。
分かっていた。分かっていて、それでも側に置き続けた。
孤独よりましだったから。
その小説を見つけたのは、高校二年の冬だった。
夜中にスマホをいじっていて、ネット小説の投稿サイトで偶然目に止まった。
タイトルは平凡だった。
でも、あらすじの一行目で手が止まった。
”――二大公爵家の娘が王妃候補として競い、第一王子に選ばれるのはどちらか。”
何となく読み始めて、気づいたら夜が明けていた。
第一王子グレイ・モンナイス。
銀糸の上着、自信に満ちた笑顔、そして――誰よりも自分を肯定してくれる存在を求める、ちょっと子どもっぽいところ。
画面越しに、胸が熱くなった。
”この人だ。”
私が欲しいのは、こういう人だ。
高いところにいて、強くて、でも私だけを特別に見てくれる人。
お金でも買えない、本物の"選ばれた感"をくれる人。
アクア・ユーハイムは、可愛かった。
穏やかで、誰にでも優しくて、王子に選ばれるヒロイン。
憎めない。憎めないけど、羨ましかった。
サラ・ブレイムは、怖かった。
強くて、有能で、でも愛に飢えていて。
意地悪になっていく彼女を読みながら、私は思っていた。
”こうはなりたくない。”
”でも、分かる。”
”すごく、分かる。”
何でも持っているのに満たされない感じ。
誰かに選ばれたくて、でも選ばれ方が分からない感じ。
サラと私は、たぶん似ていた。
それが、嫌だった。
私はその小説を、百回以上読んだ。
王子のセリフを全部覚えた。
王子が好きそうな仕草を、鏡の前で練習した。
馬鹿みたいだと思ってた。
でも止められなかった。
現実では、誰にも"本当に"選ばれたことがなかったから。
死んだのは、三月だった。
夜の交差点。
スマホを見ながら歩いていた。
画面には、あの小説の最終話が開いていた。
王子がアクアを選ぶ場面。
そこで――トラックが来た。
痛みは、一瞬だった。
暗くなる直前、私は思った。
”もっと読みたかった。”
”あの世界に行きたかった。”
”私が、ヒロインになれたら。”
光が、走った。
気づいたら、私は知らない部屋にいた。
天井が高い。石造りで、窓の外には見たことのない星空。
体が軽い。
頭の中に、この世界の言語が流れ込んでくる。
魔法みたいに、自然に。
私は手を見て、立ち上がって、窓の外を見た。
”――ここは、あの小説の世界だ。”
心臓が、跳ねた。
足が震えた。
泣きそうになった。
でも、泣かなかった。
泣いている場合じゃない。
私には、やることがある。
扉の向こうで、誰かが動く気配がした。
「聖女様、お目覚めですか?」
私はドレスの裾を整えて、息を整えた。
鏡はなかったけど、構わなかった。
表情の作り方なら、練習してある。
怯えた顔。でも健気な顔。守ってあげたくなる顔。
私はドアに向かって、静かに言った。
「……はい」
声は、少し震えさせた。
怖がっているように。でも折れないように。
扉が開く。侍女が入ってくる。
私は心の中で、静かに笑った。
”来た。”
”ようやく来た。”
”私の物語が、始まる。”
第一王子は、小説の通りだった。
目が輝いていて、胸を張っていて、選ぶ側に立ちたがっていた。
私は膝を折った。震える声で言った。
「……お目にかかれて光栄です、殿下」
王子の顔が、緩んだ。
思った通りだった。
ただ。
想定外が、二つあった。
一つ目。
サラ・ブレイムが、小説と違った。
意地悪じゃない。
冷静で、鋭くて、こちらを正確に見ている。
あの目は、"悪役の目"じゃない。
”何かを知っている目だ。”
二つ目。
王子が私に言った言葉。
「余計な作法など、後から覚えればよい」
その瞬間、老臣たちの顔が曇った。
私はすぐに頭を下げた。
王子の失言を、私が拾った。
その動きは反射だった。
日本で身につけた、"場を読む力"だ。
”――あれ。”
私は、ほんの少しだけ思った。
*王子って、こんなに……抜けてたっけ。*
でも、すぐに打ち消した。
推しは推しだ。
小説でだって、最終的にはちゃんと王になる。
私が支えればいい。
私がいれば、大丈夫なはずだ。
宴が始まった。
私は王子の隣に立った。
まるで最初からそこが定位置だったかのように。
ただ。
視線を感じた。
中庭の隅から。
赤髪の令嬢が、噴水の水面を見つめていた。
表情は穏やかだ。でも、何かを考えている。
深く、静かに。
”あなた、邪魔ね。”
私は心の中で思った。
でも、口角は上げたまま。
サラ・ブレイムは、小説の悪役じゃない。
それは分かった。
だからこそ、厄介だ。
暴走する悪役なら、自滅する。
でも彼女は、自滅しない目をしている。
”どう動く気なの。”
私は王子の隣で微笑みながら、静かに観察した。
これは物語だ。私はヒロインだ。
ならば、邪魔な駒は取り除かれるはずだ。
そう信じていた。
この時は、まだ。
――でも一つだけ、気になることがあった。
お金があれば何でも手に入ると思っていた。
日本ではそうだった。
でもここでは、お金より家柄が、家柄より王子の寵愛が、全てに勝る。
私はここで初めて理解した。
何でも買える場所では、"選ばれること"だけが買えなかった。
そしてここは、"選ばれること"こそがすべての場所だ。
だから私は、勝つ。
今度こそ、本当に。
お金じゃなく、自分で。




