第3話「異物」
翌朝の王城は、まるで祝祭の舞台装置に変わっていた。
いつもなら静謐で、廊下に足音すら吸い込まれるような場所だ。
それが今は、朝の光の下でさえ落ち着かない熱を帯びている。
白い大理石の床は磨き上げられ、窓辺には薄いレースが揺れ、そこに香の匂いが絡みついていた。
甘い樹脂の香り。祝福の香り。
通り過ぎる侍女たちはいつも以上に忙しく、しかし目だけは輝いている。
噂を持ち運ぶ目だ。
「……逃げてしまいたいわ」
アクアが、小さく呟いた。
彼女の声はいつも穏やかなのに、今朝は喉の奥に硬いものが混じっている。
私たちは、王城の中庭へ向かう回廊を並んで歩いていた。
二大公爵家の娘。王妃候補。
人々は通路の脇に控え、深く頭を下げる。
だがその礼は私たちに向いているようで、実際は私たちの背後――派閥に向けたものだ。
視線が肌に刺さる。
「どちらが勝つのか」「どちらが選ばれるのか」「どちらが落ちるのか」
ここでは祝福すら、競争の材料になる。
回廊の先、アーチを抜けた瞬間、眩しさが目に入った。
中庭だ。
白い天幕が張られ、花が惜しげもなく飾られている。
白百合の束が風で揺れ、青薔薇が噴水の縁を縁取る。金のリボンが陽光を反射して瞬く。
噴水の水音は普段より高く聞こえた。
周囲がざわついているせいで、静けさの代わりに音が際立つのだ。
大きな鐘が、王城の塔から一度鳴った。
合図。
貴族たちが天幕の下に集まり、老臣たちは険しい顔で列を作り、騎士たちが警戒の視線で周囲を固める。
祝祭のようでいて、どこか戦場の手前のようでもある。
私は、空気の中に混じる匂いを嗅いだ。
花の甘さ、香の甘さ、そして――緊張の匂い。
人の汗と、焦りの匂いだ。
「まるで、物語の一場面ね」
アクアが、息を吐くように言った。
その言葉が、私の胸の奥のどこかを冷やした。
「ええ。脚本があるみたい」
私はそう返しながら、背筋を伸ばす。
微笑みを貼り付ける。
"王妃候補の顔"を作る。
この世界は、私がかつて読んだ小説の中と似ている。
似ているからこそ、怖い。
似ているものは、勝手に"元の形"へ戻ろうとする。
私がどれだけ抗っても、周囲が勝手に役割を押し付ける。
悪役。踏み台。嫉妬の女。
私はもう、それを演じないと決めたのに。
二度目の鐘が鳴った。
歓声が上がった。
中庭の中央、白い布で覆われた簡易壇の前に、ひとりの少女が立っていた。
黒髪。白い肌。小柄で、華奢で、しかし不思議と"整って"いる。
光が彼女の輪郭を縁取っていて、誰がどう見ても「特別」だと分かるように出来ている。
――出来すぎている。
春木桃。
私はその顔を見た瞬間、言葉にできない違和感を覚えた。
可憐だ。守ってあげたくなる。
でも、それだけじゃない。
……この子は、"空気を読む側"ではない。
"空気を作る側"だ。
そう感じたのは、彼女の立ち姿があまりにも「待っていた」と言わんばかりに自然だったからだ。
異界から来たばかりの人間が、この舞台の中心に立っても怯えないなど、普通はあり得ない。
怯えていないのではない。
怯え方まで、整っている。
「……来た」
小さく呟いたのが、私かアクアか分からない。
そのとき、壇へ向かって一直線に歩く影があった。
第一王子グレイ・モンナイス。
いつもなら傲慢さを鎧にしている男が、今日はやけに若く見えた。
目が輝いている。胸を張っている。
自分が"物語の中心"に立っていると信じ切った顔だ。
「聖女よ。よくぞ来た」
彼はそう言って、桃に手を差し伸べた。
――早い。
王子の行動はいつも早い。
熟慮がない早さだ。
それを"決断力"だと本人だけが勘違いしている。
桃はゆっくりと、可愛らしく膝を折った。
「……お目にかかれて光栄です、殿下」
声は少し震えている。
けれど、その震えは「怖がっているから」ではなく、「怖がっているように見せている」震えだった。
私は前世の記憶が、嫌な形で蘇るのを感じた。
会議室の同僚。学生時代のクラスメイト。SNSで見た"人気者"。
"守ってあげたくなる"声を使って、空気を動かす人間。
王子の頬が緩む。
「顔を上げよ。そなたは我が王国の希望だ」
桃が顔を上げる。
その瞬間、彼女の瞳が王子を映した。
崇拝。憧れ。救われたような光。
「あなたに選ばれることが運命です」と言わんばかりの輝き。
完璧だ。
貴族たちがざわめく。
「可憐だ」「神々しい」「王妃に相応しいのでは」
早い。早すぎる。
まだ何も始まっていないのに、もう結論へ走っている。
私は横目でアクアを見る。
アクアは微笑みを保っている。
けれど、青い瞳の奥の"観察者"が、確実に警戒の色を濃くしていた。
「サラ」
小声で呼ばれる。
「分かってる」
私は同じ高さの声で返す。
――あの笑顔は、無垢じゃない。
王子は振り返った。
「サラ、アクア。聖女を紹介しよう」
紹介。
本来なら、私たちが紹介される側だった。
未来の王妃候補として、国の象徴として。
でも今、舞台の中心にいるのは桃だ。
私たちは脇役として"置かれる"。
その位置の変化が、胸の奥をざらつかせる。
私は笑う。
「ようこそ、聖女様。王城へ」
「歓迎いたします」
アクアも続ける。
桃は両手を胸の前で合わせ、少し困ったように微笑んだ。
「そんな……私はまだ何もできなくて。皆様に教えていただく立場です」
完璧な台詞。
弱さの宣言。
それは同時に、"あなたたちは強い"という牽制だ。
王子がすぐ口を挟む。
「安心せよ、桃。お前はそのままでいい。余計な作法など、後から覚えればよい」
後方で、老臣のひとりが顔をしかめたのが見えた。
"余計な作法"。
その一言は、貴族社会への軽視だ。
王子は気づいていない。
そして――桃は気づいている。
桃はすぐに頭を下げた。
「ですが、国の皆様に失礼があってはなりません。どうか、ご指導ください」
視線を、私とアクアへ向ける。
王子の顔がさらに緩む。
「ほら見ろ。なんと謙虚だ」
謙虚。
そう見せる。
そう見せることで、王子を"選ぶ側"に置く。
そして自分は"選ばれる側"に滑り込む。
私は微笑みを崩さない。
「では、聖女様の教育は、私どもが責任を持って」
丁寧に言うと、王子が頷いた。
「うむ。二人で競い合い、より良き導き手となれ」
競い合い。
またその言葉だ。
胸の奥で、熱が灯る。
勝たなきゃ、という声がひょいと顔を出す。
それは私の中の、愛に飢えた部分だ。
負けたら不要だと怖がる部分。
かつての小説の中で、意地悪になっていったサラの種。
私はその種を踏みつけるように、ゆっくり息を吐く。
違う。私は、選ばれるために生きない。
桃が、ふとアクアを見た。
その視線が、ほんの一瞬だけ、値踏みをした。
……いや、正確には。
「あなたが前のヒロインですね?」とでも言いたげな、静かな確認。
私は笑みの奥で理解する。
この子は、物語の構造を知っている。
あるいは、直感で掴んでいる。
桃が、私の方へ一歩近づいてきた。
距離が妙に近い。
香りがする。柑橘のような、清潔な匂い。
異界から来たと言うのに、生活の匂いがしない。
「サラ様、とてもお綺麗ですね」
「ありがとう」
私が短く返すと、桃は嬉しそうに微笑んで、続けた。
「……でも、強そう」
その言い方。
褒めているのに、距離を置く。
――強い女は怖い。強い女は選ばれない。
そんな価値観を、砂糖で包んで差し出してくる。
私は目を細める。
「強さは、悪いことではありませんわ」
桃はくすりと笑った。
小さな、しかし確実に相手の胸を撫でる笑い方。
「ええ。でも、殿下は……守ってあげたくなる人がお好きみたいです」
一瞬、空気が止まった。
アクアの視線がこちらに向く。
彼女は気づいた。私の胸の中で何かが動いたことに。
桃はすぐに困った顔に戻った。
「ごめんなさい、変なことを言ってしまいました」
でも、謝罪の中に勝利が滲んでいる。
言い切ってしまえば、もう空気は戻らないから。
王子は気づいていない。
彼は今、桃しか見ていない。
私はゆっくりと微笑んだ。
嫉妬して噛みつくのは、昔の私だ。
愛に飢えて、相手を傷つけて、自分を保つやり方。
私はもう、それを選ばない。
だから私は、別の刃で返す。
「殿下がお好きなのは、"ご自分を肯定してくれる方"ですわ」
桃の笑顔が、ほんの一瞬だけ止まった。
「それが守りたい存在かどうかは、別問題です」
桃の瞳の奥が揺れた。
――恐れ。
主役になれない恐れ。選ばれない恐れ。
私もかつて同じ恐れを抱えていたから分かる。
王子が声を上げた。
「さあ、歓迎の宴だ!」
音楽が鳴り始める。
拍手が起こり、貴族たちがわっと笑う。
空気が一斉に華やぐ。
桃が王子の隣へ自然に立つ。
まるで最初からそこが定位置だったかのように。
その光景が、私の胸の奥を冷やした。
物語が、動いている。
いや――動かされている。
私はアクアにだけ聞こえる声で言う。
「怖いわね」
アクアも小さく頷いた。
「……怖い。でも、サラ」
「うん」
「あなた、今、噛みつかなかった」
私は一瞬だけ笑ってしまった。
「偉いでしょ」
「偉い」
アクアの言葉には、安堵が混じっていた。
彼女は私が壊れるのを恐れている。
そして私は、彼女を失うのが怖い。
相互依存。互いが最大の恐れ。
この関係も、いつか"選び直す"日が来る。
でも今日は、まだその前段階だ。
私は中庭の隅、噴水の水面に映る光を見つめる。
揺れる水面は、表と裏を同時に映す。
美しくて、歪んでいる。
聖女は光の中に立っている。
けれど私は見ている。
その足元に伸びる影を。
そして、その影が王城の床を伝い、じわじわとこちらへ伸びてくるのを。
私は心の中で、静かに告げた。
――私は、あの物語のままにはならない。
主役が誰でもいい。選ばれるのが誰でもいい。
私はただ、私として生きる。
そう誓った瞬間、桃がもう一度こちらを見た。
今度は、微笑みの奥で確かに言っていた。
――あなた、邪魔ね。
私は微笑み返す。
邪魔なら、尚更。
私はここにいる。




