第2話「表と裏」
聖女召喚の報せが走った夜、王城は――甘い熱に浮かされていた。
廊下には灯りが増やされ、近衛兵の足音が普段より速い。
侍女たちは噂を抱えたまま走り、老臣たちは「天啓だ」「不吉だ」と声をひそめて議論している。
窓の外では、薔薇園の香りが夜気に溶けていた。
美しい匂いほど、ここでは危ない。
誰かの手が必ず混ぜ物をするから。
私は自室の鏡の前で髪を梳きながら、胸の奥のざわめきを押し込めていた。
聖女召喚は、王位継承の儀礼の一つだ。
第一王子が成人を迎えると、天より"聖女"を呼ぶ――古い仕来りがある。
ただし、成功した例はほぼない。
過去百年で一度か二度。記録には残っているが、実質は形だけの儀式として扱われていた。
私が読んだ小説でも、召喚は失敗していた。
だから、いなかった。聖女など。
――なのに。
今夜、成功した。
別に国が困っているわけじゃない。
民が飢えているわけでも、戦が迫っているわけでも、疫病が蔓延しているわけでもない。
要するに王子が「天に認められた」という箔をつけたくて行った儀式が、たまたま成功してしまった。
それだけだ。
それだけのはずなのに、王城全体がまるで救世主でも降臨したかのように沸き立っている。
――"筋書き"がずれている。
ずれた瞬間、人は勝手に役割を押しつけてくる。
悪役。踏み台。嫉妬の女。
私は、もうあれには戻らない。
「サラ様」
侍女のミレイユが扉の前に立ち、唇を尖らせた。
「殿下が、王妃候補のお二方をお呼びです」
「……今夜?」
「はい。中庭の小礼拝堂へ、と」
礼拝堂。
公の場所でも、完全な私室でもない。
"演出"にちょうどいい舞台。
私はドレスの胸元を整え、薄く笑う。
「分かったわ」
ミレイユは不満そうだった。
「殿下は、浮かれております。あの方は……自分を救ってくれる存在が現れると、すぐ酔うんです」
「知ってるわ」
私は短く答えた。
知っている。
強い女の隣に立つ覚悟はないくせに、強い女の力は欲しがる。
そして、崇拝してくれる存在にすがる。
国が困っているわけでも、民が苦しんでいるわけでもない。
ただ王子が「選ばれた感」に酔いたいだけだ。
――それが、あの方の本質だから。
私はもう、そんな男のために一喜一憂する自分を飼いたくない。
小礼拝堂の扉を押すと、蝋燭の匂いが鼻をくすぐった。
白い石の床は冷たく、天井のステンドグラスから月光が落ちる。
そこに、すでにアクアがいた。
金髪が蝋燭の光を拾い、青い瞳が静かにこちらを見た。
外では穏やかで上品な令嬢。
でも、二人きりになると空気の密度が変わる。
「来たのね、サラ」
「あなたもね」
私たちは互いに微笑む。
表の私たち。王妃候補としての顔。
――そして、その下に、裏の私たちがある。
幼い日の記憶が、ふとよみがえる。
六歳の春、王城の回廊で初めてアクアを見た瞬間。
金色の髪の小さな少女に視線を奪われ、頭の奥が弾けた。
ページをめくる音。夜の部屋で読んだ物語。
「この世界は小説の中だ」という理解。
私はそのとき、泣きそうになりながら笑ってしまった。
怖かったから。
そして――救われた気もしたから。
"知っている"ことは、時に刃であり、盾でもある。
アクアは、何も知らずに微笑んでいた。
私が悪役になる未来も。彼女が血で誰かを縛る未来も。
私はあの瞬間から、ずっと彼女を見ている。
そして、ずっと怖い。
彼女を失うのが。
「……落ち着かない顔ね」
アクアが囁いた。
「あなたこそ」
「私はいつも通りよ」
嘘だ。
私たちは互いの嘘を見抜ける。
それが、私たちの関係の厄介さだった。
親友。ライバル。互いが最大の恐れ。
近づきすぎれば溺れる。
離れれば壊れる。
ちょうどいい距離など、最初から存在しないのに、私たちはそれを探し続けている。
扉が開き、足音が響く。
第一王子グレイ・モンナイス。
銀糸の刺繍が入った上着、鼻につく香水、そして――目の輝き。
自信家を装いながら、今日だけは隠しきれていない。
興奮。高揚。そして、承認欲求。
「二人とも、待たせたな」
王子は私とアクアを見比べ、満足げに口角を上げた。
「今宵、我が王国に"聖女"が降った。奇跡だ。民も貴族も沸き立っている」
「……おめでとうございます、殿下」
私は微笑んだ。
「まさに天命にございます」
アクアも続く。
完璧な応答。
王子は鷹揚に頷く。
「そうだろう。百年に一度の奇跡だ。これで私が天に選ばれた王であることは疑いようがない」
(天に選ばれた。)
その言葉を、私は静かに飲み込む。
国が危機にあったわけじゃない。
民が救いを求めていたわけでもない。
ただ、成功するはずのなかった儀式が成功した。
それだけのことを、この方は"天命"と呼んでいる。
王子は愉快そうに続けた。
「だが、聖女の扱いは繊細だ。彼女は異界より来た身。礼儀作法も政治も分からぬ。――そこでだ」
「サラ。アクア。お前たちに"競わせよう"と思う」
空気が一段冷たくなった。
アクアのまつ毛が、わずかに揺れる。
私は微笑みのまま、呼吸だけを深くする。
「聖女を導く役目を、どちらがよりうまく果たせるか。貴族たちの前で示せ。ふふ……王妃候補としての格も示せよう?」
――競わせる。
彼はいつもそうだ。
人を駒にして遊ぶ。対立を煽り、縋ってくる方を「可愛い」と思う。
その軽さが、国を壊す。
側近レオンが苦労する理由が、ここに詰まっている。
私は礼をして、静かに言った。
「殿下。競うことは、国益になりますか?」
王子の眉がぴくりと動く。
「……何だ?」
「聖女の導きは、王国の安定のために必要でしょう。ならば"成果"で評価されるべきです。競争のための競争は、派閥を刺激し、余計な火種になります」
言いながら、自分でも分かる。
――私は今、王子の機嫌を損ねている。
でも、引けない。
私の価値は、選ばれることじゃない。
国を回すことだ。自分の意思で、生きることだ。
王子は笑った。
乾いた笑いだ。
「相変わらず堅物だな、サラ。だからお前は――」
その言葉の続きが、私には分かってしまう。
だからお前は、可愛げがない。
だからお前は、選ばれない。
私は微笑みを崩さない。
「国のことを思えば、当然かと」
王子は鼻で笑い、視線をアクアへ移した。
「アクア。お前はどう思う?」
アクアは一瞬だけ、私を見た。
その視線には、いつもの"観察者"の冷静さと、ほんの少しの痛みが混じっていた。
――サラ、あなた、無理してる。
そう言われた気がした。
アクアは王子に微笑んだ。
「殿下のお心のままに。ただ……聖女様が望まれぬ争いで傷つかれぬよう、配慮は必要かと」
完璧な答え。
王子の顔が満足げに緩む。
そして私は、胸の奥が一瞬だけ熱くなるのを感じた。
嫉妬。
――私は今、アクアに嫉妬した。
彼女はいつも、こうして"正しい"距離を取る。
王子の機嫌を損ねず、場を整え、敵を作らず、自分も傷つかない。
私はそれができない。
できないから、昔は彼女を憎んだ。
"いい子"でいる才能。誰からも嫌われない顔。調整役としての天性。
愛に飢えた私は、それを奪いたかった。
私は、唇の裏側を噛む。
熱を飲み込む。
違う。私は彼女を傷つけない。
それは、決意だ。
「決まりだな。二人には、聖女の教育係を命じる。どちらがより"相応しい"か――貴族たちも見ているぞ?」
相応しい。
その言葉が、首輪みたいに首にかかる。
誰が決める?
私が決める。
私は丁寧に頭を下げた。
「承知いたしました」
王子が去った後、礼拝堂は静かになった。
蝋燭の火が、ふっと揺れる。
私は吐息を落とした。
「……競わせる、って。馬鹿みたい」
言葉が、思ったより辛辣に出た。
アクアが肩をすくめる。
「彼は昔からそうよ。自分が中心でいたいの。周りが争えば、彼は"選ぶ側"でいられるから」
「選ぶことでしか、自分を保てない男ね」
アクアは小さく笑った。
「サラ。あなたのそういうところ、好きよ」
「……やめて。調子が狂う」
「本音を言える相手は、貴重でしょう?」
私はため息をついた。
「ねえ、アクア」
声を落とす。
「今回の召喚……おかしいと思わない?」
アクアの笑顔が、わずかに止まる。
「……おかしい、とは?」
「成功するはずじゃなかったのよ。あの儀式。百年で一度か二度しか成功しない。そもそも小説――あ、えっと……じゃなくて、歴史の記録を見ても、今の王国に聖女が必要な理由がどこにもない」
戦もない。飢饉もない。疫病もない。
民は普通に生きている。
王子が「天に選ばれた」という実績を欲しがっただけの儀式が、なぜか成功した。
「つまり」
私は続けた。
「この聖女は、誰かの都合で"呼ばれた"可能性がある」
アクアは静かに目を細めた。
「……誰かの、都合」
「分からない。でも、イレギュラーはイレギュラーよ」
私が読んだ物語にいなかった存在。
主役になりたい目をした、あの黒髪の少女。
嫌な予感が、胸の奥でじくりと疼く。
「サラ」
アクアが低い声で言った。
「あなた、勝たなきゃって思いすぎ。勝つことが、あなたの価値じゃない」
私は笑う。
「それでも、勝たなきゃいけない場面はあるわ」
「誰のために?」
「……国のため」
そう答えながら、胸の奥がチクリと痛む。
本当は違う。
私は、怖いのだ。
負けたら、不要になる気がして。愛されない気がして。置いていかれる気がして。
だから勝つ。だから有能でいる。だから、隙を見せない。
それは、私の生存戦略であり、檻でもある。
礼拝堂を出ると、夜風が頬を撫でた。
侍女のミレイユが待っていた。
「サラ様……殿下は何を?」
「競わせるそうよ。聖女の教育係として」
ミレイユの顔が歪む。
「……あの方、本当に」
「声が大きい」
私が釘を刺すと、ミレイユは口を噤んだ。
私は歩きながら、心の中で静かに決める。
勝たなければならない。
――でも、それは"選ばれるため"じゃない。
私が私でいるため。
アクアを守るため。
この国を壊させないため。
そして何より、愛に飢えた意地悪な自分に戻らないため。
遠くで鐘が鳴った。
聖女の到着は、祝福ではない。
これは、筋書きが壊れ始めた音だ。
月が白く冷たい。
――明日、異物に会う。
そしてきっと、私たちの"表"と"裏"は試される。




