第1話「王妃候補という檻」
私は、二度生きている。
一度目は日本で。
仕事に追われながらも、夜ベッドでスマホを握りしめて小説を読み漁っていた、どこにでもいるアラサー女だった。
そして二度目が、今。
赤髪の公爵令嬢――サラ・ブレイム。
「サラ様、起床のお時間です」
侍女ミレイユの声で目が覚める。
カーテンが引かれ、朝の光が赤と金の調度品を照らし出す。
また、あの夢を見た。
月光に照らされた王城の石床。
金色の髪が視界に揺れて、青い瞳が泣きそうに揺らいでいて。
――ごめんね、サラ。
首筋に走る痛み。
血が奪われていく感覚。
(私の言うことを聞いて。)
その瞬間、私は私でなくなる。
「……はあ」
天蓋を見上げながら、息を吐く。
あの夢は記憶だ。
この世界で起きるはずだった未来の記憶。
私がアクア・ユーハイムを追い詰めて、追い詰めて、追い詰め続けた果てに――彼女が先祖返りの力を使って、私の意思を奪う未来。
でも、そうはならない。
「させない」
小さく呟いて、私はベッドから起き上がった。
この世界に生まれ変わったと気づいたのは、六歳の春だった。
王城へ上がる日。
白い大理石の回廊を父に手を引かれて歩いていると、向こうから小柄な少女が現れた。
金色の髪。青い瞳。不安と覚悟を同時に宿した目。
――アクア・ユーハイム。
その瞬間、頭の奥で何かが弾けた。
活字の海。夜更かしして読み耽った一冊の物語。
(そうだ。私はこの世界を知っている。)
二大公爵家の令嬢が王妃候補として競い合い、第一王子がどちらかを選ぶ話。
選ばれなかった令嬢は嫉妬に狂い、相手を追い詰め、そして自業自得の末に堕ちる話。
選ばれるのはアクアで。
悪役は――私、サラ・ブレイムだった。
六歳の私は、回廊の真ん中で立ち尽くした。
アクアがこちらを見て、そっと微笑む。
まだ何も知らない、透明な笑顔で。
(私は、あの小説のサラにはならない。)
それが、この二度目の生で最初に決めたことだった。
王妃候補教育、十年目。
王城の教室は今日も静謐だった。
大理石の床に陽光が反射し、遠くから噴水の音がかすかに届く。
後方には貴族の子女たち。
彼女たちの視線が、常に私とアクアを測っている。
本日の課題は外交文書の査読。
羊皮紙を手に取り、文字列を追っていくと、すぐに違和感が浮かんだ。
「……教師殿」
私は口を開いた。
「第五条の関税率が、昨年の改訂分と一致していません。このままでは穀物輸出で相当の損失が出ます」
ざわめきが走る。
「さらに第七条。免税対象の定義が曖昧すぎます。相手国が拡大解釈すれば、合法的に税を回避されます」
教師が青ざめる。
「訂正案を今夜までに提出します」
淡々と告げて、私は羊皮紙を置いた。
胸の奥で、もう一人の私が囁く。
(ほら見て。私は優秀。私は必要。選ばないと損でしょう?)
――違う。
私は深く息を吸った。
承認のために動いているんじゃない。
ただ、間違いを見つけたから指摘しただけだ。
「相変わらず完璧ですこと、サラ様」
背後からアクアの声。
振り返ると、金髪が光を受けて輝いている。
穏やかな笑顔。誰に対しても等しく丁寧で、誰からも好かれる令嬢。
「あなたほどではありませんわ、アクア様」
表面は優雅な応酬。
後方の貴族たちが安堵したように息を吐く気配がした。
控室に戻ると、空気が変わった。
「また無理してる」
アクアが言う。
さっきまでの上品な声ではなく、二人きりのときだけ聞かせてくれる、少し低くて率直な声で。
「無理なんてしていないわ」
「嘘。眉間に皺が寄ってた」
「…………」
「サラって、認められたいときほど表情が固くなるの、知ってる?」
その一言が、静かに刺さる。
「あなたね」と私は言った。「二人きりのときだけ毒舌になるの、いつになったら直るの」
「直す気はないわ。だって本当のことだもの」
アクアは小首を傾げてにっこりと笑う。
公の場では絶対に見せない顔で。
私はため息をついた。
こいつが本当のことを言うのは、二人きりのときだけだ。
そしてそれが一番、堪える。
「……私は大丈夫よ」
「そう」
アクアは短く答えて、窓の外に目を向けた。
その横顔に、かすかな翳りがある。
彼女が本当に恐れているのは、私が壊れることだ。
そのことを、私は知っている。
物語の中では、私がアクアを追い詰めた。
でも本当は、私の方が先に壊れていた。
愛されない恐怖。負ける恐怖。不要になる恐怖。
それが意地悪という形で噴き出して、やがてアクアを限界まで追い詰めた。
今度は、そうならない。
そのとき、廊下が騒がしくなった。
「異界より聖女が召喚されました!」
私とアクアは同時に窓へ歩く。
中庭に、見知らぬ少女が立っていた。
黒髪。整った顔立ち。計算されたような、完璧な笑顔。
第一王子グレイが目を輝かせている。
「聖女よ、そなたは私の隣に立つ存在だ!」
アクアの指が、わずかに震えた。
私はそれを横目で見る。
(この物語に、聖女はいなかった。)
私が読んだ小説の中に、聖女なんて存在しなかった。
これは、記憶にある筋書きとは違う展開だ。
「アクア」
小声で呼ぶ。
「なに?」
「……なんでもないわ」
大丈夫、と言おうとして、やめた。
根拠のない慰めより、今は黙って隣にいる方がいい。
中庭の聖女が、こちらを見た。
にっこりと笑う、整ったその顔に。
背筋がぞくりとした。
夜、一人になった私は窓辺に立って中庭を見下ろした。
黄金の檻。
この王城は美しい。
白い大理石、噴水、薔薇園。
でもここで育てられる私たちは、最初から誰かのために選ばれる駒として磨かれている。
(私はもう、あの物語のサラじゃない。)
そう決めた。そう誓った。
でも。
物語通りに動かないはずの聖女が現れた今、この先に何が起きるかを、私はもう知らない。
知らないまま、それでも、私は自分の生き方を選ぶ。
――そう誓った瞬間。
窓の外、月明かりの中庭で。
聖女がもう一度こちらを見上げて、微笑んだ。




