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沈黙のバリケード

 サークル勧誘で死にそうだった。

 あの手この手で声をかけてくるキラキラした人たちは、なぜ私みたいな端っこの住人に構うのか。

 ——答えは今日、隣の席が教えてくれた。



         *



 四月の第二週。新学期はサークル勧誘の季節だ。


 正門前にはテントが並んで、ビラが飛び交って、声が渦を巻いている。私にとっては地獄に近い。


 101教室は棟の奥にあるから、そこに辿り着くまでに何人もの「勧誘のプロ」をかわさなければならない。横を向いて早歩きで通り抜けるはずが、今日は捕まった。


 「あっ、すみません。テニスサークル、興味ありませんか?」


 にっこり笑う男子。手にはカラフルなビラ。歯が白い。日に焼けている。何もかもが眩しい。


 「あの、私、ちょっと……」


 断れない。断りたいのに「いりません」の五文字が出てこない。代わりに出てくるのは曖昧な笑みと、半歩下がる身体と、語尾の消滅。もう一人が畳みかけてきた。


 「初心者大歓迎ですよ。見学だけでも」


 笑顔が近い。パーソナルスペースという概念をご存じないらしい。


 「あ、えっと……」


 私の声は小さくなる一方で、心拍数は上がる一方。逃げたい。でも逃げ方がわからない。壁際を歩いていたはずなのに、いつのまにか挟まれている。


 その時だった。


 空気が変わった。正確には、勧誘の二人の表情が変わった。にっこりが凍った。視線が私の後ろ、いや、私の左側に向いている。振り返る前に、気配でわかった。


 柔軟剤の、少しだけ青い匂い。


 隣の席の男がすぐそこに立っていた。何も言っていない。近づいてきただけだ。たぶん、ただ教室に向かっていただけだ。


 でも。


 目つきが鋭い。もともと鋭い目つきが、勧誘の二人のほうを向いている。睨んでいるのか、ただ視界に入った人間を見ているだけなのか、判断がつかない。でもどちらでも、結果は同じだった。


 「あ……じゃあ、また今度」


 二人は笑顔を張りつけたまま後退した。びっくりするほどきれいな撤退だった。ビラを押しつけることもなく、名残を惜しむこともなく、すうっと人の流れに消えていった。


 隣の席の男は、何事もなかったように廊下を進んでいく。私はその背中を見ていた。広い背中。白いシャツ。大きい歩幅。


 あの人は、助けようとしたんじゃない。たまたま通りかかっただけだ。たぶん。いや、きっと。でも結果として。


 「……助かった」


 声に出ていた。独り言。廊下の雑踏の中で、幸い、もう誰も私のほうを見ていなかった。



         *



 教室に入った。いつもの席に座る。一分後、長い脚がやってくる。


 いつも通りだった。荷物を置いて、ペンを出して、ノートを開く。こちらを見ない。まるでさっきのことなど起きていないかのように。


 いや、あの人にとっては本当に何も起きていないのだと思う。廊下を歩いていたら知らない集団がいて、通り過ぎた。それだけ。でも私にとっては、あの一瞬で長年の疑問がひとつ解けた。勧誘の人たちが逃げた理由。


 顔だ。


 あの目つき。あの眉間。あの無表情。百八十センチの背丈と広い肩幅が合わさって、近寄りがたいオーラが完成している。


 だから——この席の隣は、空いていたのだ。


 最後列の壁際。そのさらに左隣。もし他の誰かがそこに座ったら、左隣があの人になる。それを避けて、みんな別の席を選んでいた。なるほど。合点がいった。


 つまり私は「みんなが避けた隣」に最初から座っていた側で、彼は「隣が空いていた場所」に座った側。私がこの席を選んだのは壁際だからであって、彼を避けなかったからじゃない。要するに、消去法で隣人になった。


 ……なんというか、情緒のない話だ。講義が始まった。ノートを取る。集中する。


 けれど今日は、左側の存在の意味が少し変わっていた。さっき廊下で、あの人の気配だけで勧誘が引いた。何も言わず、何もせず、ただ「いた」だけで。


 壁じゃない。


 壁は受動的だ。そこにあるだけで、何も遮らない。でもあの人の気配には、明確な「遮断力」があった。近寄ろうとする人間が、その力を感じて自ら引く。


 バリケードだ。


 沈黙の、バリケード。


 喋らない。動かない。見もしない。でもそこにあると、外からの侵入を防ぐ。物理的に囲われているんじゃなくて、空気の壁で遮断されている。そして私は、その内側にいつのまにか入っている。


 ——バリケード。


 心の中でその名前を転がした瞬間、不思議なことが起きた。


 安心した。


 「バリケード」は私に何もしないし、私も「バリケード」に何もしない。お互いに存在を認めた上で、干渉しない。これは関係じゃない。共存だ。合理的な共存。


 好きとか嫌いとか、そういう次元の話じゃなくて、ただ「ここにいても大丈夫」という、それだけの話。


 講義が終わった。彼が先に立ち上がる。いつもの動き。いつもの速度。いつもの方向。


 前方の出口に向かう背中を見ながら、私はひとつだけ思った。名前をつけた。つまり、受け入れた。


 矛盾が気になっていた段階は終わった。分類できないまま、フォルダごと棚に置いた。「沈黙のバリケード」という名前のフォルダに。中身はまだ空だけど。


 「……また来た、って思ってたのに。もう、いなくなった」


 独り言。教室に、もう誰もいなかった。


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