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隣の習慣

 翌日も来た。その翌日も。大教室の端の席、壁際の最後列。自由席なのに。三日連続で同じ男が隣に座る確率を、私は計算しようとして——やめた。確率の問題じゃない気がしたからだ。



         *



 火曜日。二日目。


 月曜の社会学概論と違って、火曜は教育心理学。教室は同じ101だけど、教授が違うから空気も違う。こっちの教授はマイクを使う。文明人だ。


 私はいつもの席に座っていた。五分前に、あの足音が聞こえた。昨日と同じスニーカー。同じリズム。同じ歩幅。見なくてもわかった。一日聞いただけの足音を覚えている自分に、少し引いた。


 隣に座る気配。荷物を足元に置く音。ペンを出す音。ノートを開く音。全部、昨日と同じ順序だった。


 習慣の人なんだ、と思った。決まったことを決まった通りにやる人。だから同じ席に来る。理由はきっと「昨日もここだったから」くらいのものだ。深い意味はない。あるはずがない。わかってる。


 講義が始まって、ノートを取る。ペンを動かしながら、意識の端で隣の手元を追ってしまう。昨日の観察の続きだ。ノートの文字は今日もきれいだった。それは想定の範囲内。


 新しい発見は、消しゴムだった。使わない。


 九十分の講義で一度も消しゴムを使わないということは、書き間違えないか、書き間違えても気にしないか、どちらかだ。彼のノートを見る限り、覗き見が常習化しつつあることは棚に上げて、前者だった。修正の跡がない。修正テープも修正液も使っていない。最初から正解だけが並んでいる。


 いや、今日がたまたまかもしれない。データが二日分しかないのに結論を出すのは早計だ。でも、ページの使い方も目に入った。余白が均一だった。上下左右、同じ幅。行と行の間隔も一定で、定規で測ったみたいに揃っている。定規は使っていない。フリーハンドであの精度が出るのは、ちょっとどうかしていると思う。


 もうひとつ、彼の左手がずっと同じ場所にあった。ノートを取る右手は動いている。でも左手は動かない。ノートの端を軽く押さえているだけ。指が自然に開いていて、力が入っていない。九十分間、一度もその位置が変わらなかった。


 普通、人は動く。足を組み替えたり、腕を組んだり、頬杖をついたり。でも彼は左手を、まるでそこに置くことが最初から決まっていたみたいに動かさなかった。


 ……なぜ私はこの人の左手の位置を九十分間観測しているのか。


 講義が終わると、彼はいつもの手順で荷物をまとめ、前方の出口に消えた。昨日と同じ速度で、同じ方向に。私はまた、その背中を見送った。




 水曜日。三日目。もう驚かない。驚く段階は昨日で終わった。


 五分前。足音。隣。荷物。ペン。ノート。私はその一連の動作を、視界の端だけで確認した。確認してしまった、のほうが正しいかもしれない。意識しているつもりはないのに、耳が勝手に拾っている。


 今日は別のことに気がついた。彼のペンは、安かった。コンビニで売っている、たぶん百円くらいの黒いボールペン。ごく普通の、何の変哲もないやつ。クリップ部分のメッキが少し剥げている。あの文字を書くのに、このペンなんだ。百円のペンであの精度が出るなら、道具の問題じゃなくて手の問題だ。


 また見てる。


 自分のノートに目を落とした。丸っこくて、大きさがバラバラで、行からはみ出しがちな文字。読める。読めるけど、「きれい」とは言い難い。隣と比べたら天と地だ。比べるな。比べる必要がない。ノートは自分が読めればいい。他人の基準に合わせる道具じゃない。


 正論だ。正論なのに、なんだか少し悔しい。


 講義中、もうひとつ気づいたことがある。彼は教科書に付箋を貼っていた。透明の、小さい付箋。インデックス代わりに使っているらしい。色は三色。青、黄、赤。何かのルールで色分けしているようだけど、法則まではわからなかった。わからなかった、で止められない自分がいる。あと数日観察すれば法則が見えるだろうか、と考えている。


 ……気持ち悪い。自分が。


 講義が終わった。彼が立ち上がる。教科書をノートの上に重ねて、片手で持つ。鞄は使わないらしい。そのまま前方の出口に向かう。今日も、こちらを一度も見なかった。三日間、一度も。



         *



 帰り道。駅に向かう坂道を下りながら、ぼんやりと考えていた。


 三日連続。三日連続で同じ人が隣に来て、三日連続で一言も交わさなかった。挨拶もなかった。目も合わなかった。なのに、三日分の情報が私の中に溜まっている。


 足音のリズム。ペンの持ち方。消しゴムを使わないこと。ページの余白。袖の折り返し。百円のボールペン。柔軟剤の匂い。付箋の三色。教科書の持ち方。全部、勝手に集めた情報だ。頼まれてもいない。必要でもない。


 「……なんで毎日来るんだろ」


 独り言が坂道に落ちた。風が拾ったかもしれないけど、ここには誰もいない。信号が変わるのを待ちながら、横断歩道の白線を数えていた。意味のないことをする癖も、独り言と同じくらい長い付き合いだ。


 ふと、思った。あの文字がきれいだと思ったこと自体は、事実の認識にすぎない。整った文字を見て「きれいだ」と感じるのは、審美的な反応として正常だ。


 でも。


 信号待ちの足元で、風が砂を転がした。靴の先を見つめたまま、動けない。


 信号が青に変わった。


 ——あの字がきれいだと思った自分が、気になっている。


 それだけのことだ。それだけのことなのに、頭の隅にずっと残っている。消しゴムで消せない。彼みたいに、最初から書き間違えなければいいのに。


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