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矛盾が気になる

 三百人いる大教室の最後列、壁際から二番目の席。私の左隣。

 今日もあの男が座った。

 名前を知らない。目も合わせない。話したこともない。

 なのにその男がいない日は、教室の温度が2度下がる。


 私には独り言の癖がある。誰にも聞こえていないと思っていた。

 ——この、石像みたいに無口な男以外には。


 これがどういうことか、この時の私にはまだわからなかった。



         *



 四月。新学期の最初の月曜日。


 明澄大学の101教室は三百人入る大教室で、天井が妙に高い。そのぶん空調が行き届かないから、最後列は冬に寒くて夏に暑い。


 私はその最後列、壁際の席に座っている。


 理由は三つ。一、後ろに誰もいないから視線を気にしなくていい。二、壁に寄りかかれるから姿勢が楽。三、誰にも話しかけられない。三つ目が一番大きい。


 大教室の自由席には暗黙の法則がある。前方は真面目な人。中段は友達グループ。後方は「静かにしていたい人」か「寝に来た人」のどちらか。私は前者のつもりだけど、傍から見たら後者かもしれない。


 月曜一限、教養の社会学概論。出席率は毎年六割を切ると先輩が言っていた。三百人の箱に百八十人いれば多いほうで、最後列はだいたいがら空きだ。


 だから気づいた。


 足音が近い。革靴じゃない。スニーカーの、柔らかい音。でもリズムが一定で、歩幅が広い。たぶん背の高い人。私は窓の外を見るふりをして、視界の端で確認した。


 男の人だった。黒い髪。白いシャツ。袖を手首の上まできっちり折り返している。首から上は、目が合うと困るから見ない。


 その人は、私の左隣に座った。


 三百席あるうちの、ここ。最後列の壁際の、すぐ隣。


 「……なんで」


 声に出ていた。独り言だ。小さかったとは思う。たぶん。隣の男は反応しない。荷物を足元に置いて、ペンを一本出して、ノートを開いた。それだけだった。こちらを見ない。声もかけてこない。「隣いいですか」もなければ、会釈もない。


 ……まあ、自由席だから別にいいんだけど。


 講義が始まった。社会学概論の教授は声が小さい。マイクがハウリングするのが嫌でマイクを使わないという、自分本位な美学の持ち主だ。最後列で聞き取るには集中力がいる。


 ノートを取りながら、隣の気配を意識していた。意識するつもりはなかったのに、感覚のほうが先に反応する。


 衣擦れの音。シャツの裾が机に触れるかすかな擦過音。ペンの音。ノートに文字を書く筆圧は高くもなく低くもなく、一定だった。右利き。ペンの持ち方が教科書どおりで、力みがない。


 そして、匂い。柔軟剤だと思う。知らない銘柄の、少しだけ青い匂い。石鹸ともシトラスとも違う、名前のつかない清潔さ。その清潔さが、なんだか意外だった。


 ちらっと見た。ほんの一瞬、視線だけ左にずらす。


 見えたのは手元だけだ。長い指。骨の形がわかるくらい薄い手。ペンを動かす速度は一定で、不思議なほどブレない。ノートの文字が見えた。


 ——きれいだった。


 印刷みたい、とまでは言わない。でも整然として、罫線からはみ出ない。漢字もかなも同じ大きさで収まっている。字がきれいな男の人を、意識して見たのは初めてだった。


 ……そもそも隣の人のノートを覗き見るのは行儀が悪い。視線を戻す。でも気がつくと、また別のことが気になっている。


 袖の折り返し方。白いシャツの袖を手首から指二本分のところで折っていて、左右の幅が揃っている。折り目がまっすぐで、アイロンをかけたみたいだ。几帳面な人なのだと思った。


 でも髪はアイロンをかけたようには見えない。自然に乾かしただけの、癖のない黒い髪。横から見える横顔は……


 横顔を、見てしまった。


 怖い。


 目つきが鋭かった。切れ長で、眉間にずっと力が入っているような顔。口は薄く閉じていて、不機嫌なのかそれが初期設定なのかわからない。


 視線を逸らした。心拍数が上がっている。知らない人間が、近すぎる。


 でも、怖いのに、清潔だった。


 矛盾している。怖い人は清潔じゃないとか、そんな偏見は持っていない。ただ、「怖い」と「清潔」がこの人の中に同居していて、私の頭の中でうまくひとつのフォルダに入らない。


 分類できないものは、気になる。それは私の悪い癖だ。独り言と同じくらい、たちの悪い癖。


 講義は九十分だった。その九十分の間、隣の男は一度も動かなかった。スマホを見ない。ペンを置かない。足を組み替えない。水も飲まない。


 人間なのか。


 「……石像みたい」


 また声に出ていた。独り言。今度こそ小さかったと思いたい。口の中で潰したくらいの音量だったはず。隣の男は、やっぱり反応しない。


 講義が終わった。教授がマイクを使わないまま「来週は第三章から」と言い残して、教壇を降りた。


 私は荷物をまとめる。ノートを閉じて、ペンケースをしまって、リュックに入れる。隣の男も立ち上がった。


 初めて、高さを意識した。


 でかい。


 座っている時はわからなかったけど、立つと壁みたいだった。百八十はある。私より頭

ふたつぶんくらい高い。


 「壁じゃん」


 思わず口をついて出た。今日三回目の独り言。

 その瞬間男の肩が、ぴくりと揺れた。

 立ち止まることはなかった。振り返りもしなかった。でも、確かに一瞬だけ、歩き出そうとした動きが不自然に止まったように見えた。

 気のせいかもしれない。男はそのまま前方の出口に向かって歩いていった。長い脚。一歩が大きい。あっという間に階段を降りて、教室の向こうに消えた。

 私はまだ席に座っていた。


 不思議な人だ。九十分間、隣にいたのに何も起きなかった。話しかけられなかったし、話しかけなかった。目も合わなかったし、合わせようともしなかった。ただ隣にいた。それだけ。


 なのに、いなくなった途端、左側の空気が少しだけ変わった気がした。温度が、とかじゃない。そんなわかりやすい話じゃなくて、何だろう。気配の残像、みたいなもの。さっきまで壁だったものが消えて、空気が素通りしている。


 「……変なの」


 独り言。今日三回目。


 立ち上がって教室を出る。廊下は人で溢れていて、あの男の姿はもうどこにもない。壁際から人の流れに出て、正門に向かう。四月の風がぬるい。桜はもう散りかけで、花びらが地面に貼りついている。


 私は一度だけ振り返って、101教室の入った棟を見上げた。三百人の大教室。自由席。明日も来るかは、わからない。


 ——怖いのに、清潔。清潔なのに、怖い。


 矛盾が、気になる。


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