凍りついた極光鱒「……」
相変わらず、遠くで何が起きてるかなどつゆ知らぬマリー。
一人称に戻ります。
まともに太陽の姿を拝めたのは、極夜明けの僅かな時間だけだった。それ以降スヴァーヌ海の空は分厚い雲に覆われ続け、冷たい北西風が毎日のように甲板に雪を積もらせた。
幸いにして波の高い日は少なく、甲板に並んだ極光鱒が波を被る事は少なかったのだが。
「船長、やっぱりこの極光鱒少し捨てた方が……」
「何を言うんですか! 折角ここまで持って来たのに」
フォルコン号はただでさえ過積載な上、極光鱒の品質を保つ為にあえて甲板に雪を貯めたまま航海しており、喫水が危険な程深くなっていた。
「船底のあか水の一部が凍っておるようじゃ、このままではまずいぞ」
「海水で溶かしてポンプで吸いましょう、何なら私が行って剥がして来ます!」
フォルコン号の船足はこの船にしては重かった。あまり船体を傾けられないのでいつもより風を有効に使えない。あのピンネース船が向こうから逃げ出してくれたのは幸いである。
「毎日氷点下の気温が続いて水夫達も疲れてますよ、諦めて減帆しては?」
「だったら私が一日20時間働きますよ! 貴方は会食室で猫とでも遊んでたらどうですか!」
アレクが、ロイ爺が、ファウストまでもがそんな事を言うのだが、船長は私である。私は本当に一日20時間働いていた。時々襲って来る眠気に対抗する為、頭にはねじり鉢巻きを巻いている。
「マリーちゃん! 皆本当に疲れてるのよ、厚着で働くのは大変なんだから!」
アイリがそう言うので、私は皆と同じ防寒着も着てみた。
「ひゃっ☆△ぴっ×●○! ぐえええ○◎×□▲×★△●×~!」
「解った、解りました、私が間違ってました! 御願いだから早く船酔い知らずの服を着て!」
「気持ちいいふらいり、ひっしゅんで酔っ払いますれ、いいれすよ、キャプレンラリーは! この姿れ荒波を越えてやるれすよ!」
「言えてない、言えてないから!」
「そんなんでバウスプリットに登るのやめろよ姉ちゃん!」
フルベンゲンを出て五度の夜が過ぎた後の昼頃、おおよそ20日ぶりの寄港となるコルドンが見えて来た。
最初に来た時もそうだったが、灯台はたくさんあるのにどこにも灯火がついていないから、他の漁船の動きが見えなかったら見落としてしまいそうだった。
「おおフレデリク、フルベンゲンへ行って来てくれたんだな! 皆元気だったか……待て、何だこれは、これ全部極光鱒か!?」
港ではイプセンが出迎えてくれた。私は結局もう一度アイリに手入れして貰って復活したキャプテンマリーの服を着てアイマスクをしていた。ここでは偽名を使ってしまっていたので仕方ない。
「皆、フレデリクが新鮮な極光鱒を山ほど積んで来たぞ! 早速競りの準備だ」
「待ってくれ、今日は薪と食料を買いに来ただけなんだ」
「意地悪を言うなよ、こんなにあるんだから少しくらい」
「駄目だって、それに触るな! 最低でもウインダムまでは一尾も売らないって決めてるんだよ!」
「お前酷いぞ! 俺がタダで荷物を持って行かせたからってそんな仕返しをしなくたって」
「やかましい! いいから薪と食料だけ売ってくれ! フルベンゲンは今世紀最高の大漁に沸いてるぞ、極光鱒も鱈も鰊も獲れすぎて倉庫に入らないくらいだ、お前らも自分で船を出して買いに行けよ」
そして呆れた事に……フルベンゲンが大漁で賑わっていると聞くなり、コルドンの周囲の水路やら入り江やらドックやらから、色んな船が本当に出て来た。
「何だよ船が無いとか言って! ちゃんとあるじゃないか船も水夫も!!」
「いやいや、商売も無いのにフルベンゲンまで行こうっていう物好きは居ないというのは本当で……」
船出の準備に沸くコルドンを後目に、素早く補給だけ済ませたフォルコン号は再び南下の途に就く……その時にはいくつかの灯台に灯火がついていた。
さらばスヴァーヌ。逞しい人々の住む国だったわね。
北洋に入っても北風は続いていた。昼夜を問わず冷たい雪風が吹き続け、甲板に新雪を運んで来る。
「いつまでついて来るんじゃこの雪雲は」
「船長、もう雪は十分だ、南風とは言わないから西風くらいに変えてくれないか」
「好都合じゃ、ぐえっ……ありませんか! ひゃぴッ……わらしがポンプをついて来るから舵代わってグ精ひげッ……」
私は北風と荒波、そして船酔いと戦っていた。強くなったなあ私。初めて船に乗った頃だったら、この時化が一時間続いてたら死んでいたのではないだろうか。
「御願い船長、何でもいいから船酔い知らずの服を着るか、艦長室で大人しくしてて、これ以上真っ青な顔で空元気を振り回すマリーちゃんを見てるのは辛いのよ、美少年ごっこでも何でもいいから船酔い知らずを」
「わらしは! 元気ぬす! 凍てェつーく風ぇよー、荒ぁぶーる浪ぃよー!」
私は寒さと眠気と船酔いに立ち向かう為、歌を歌いながら帆桁索を引き絞る。歌詞は父の航海日誌に書いてあったが節は知らないので適当だ。
「おとぉこー盛りぃの命を燃やぁしー、魚が来たぞォとんとんとん、ぐぇ、網を引くんだとんとんとん、ぐぇぇ」
この毛織の服の呼び名は差し詰め漁師マリーか。地味でおじさんっぽい服だなあと思っていたけど、これを着てれば船酔い知らずじゃないのに船酔いと戦える気がするわね。
「ほら落ちる、舷側から落ちるわよ!? ちょっと! 誰か手伝って、マリーちゃんの様子が変なのよ!」
コルドンからさらに四度の夜が過ぎた夜明け前、フォルコン号はついにレイガーラントの海岸線の砂州に辿り着いた。
前回は大型船に進路を譲りまくり、安全な航路の外を測深しながら進んだフォルコン号だったが、今回はこちらもあまりちょこまかと進路を変えたくない。
―― カンカン! カンカン!
北風の中タッキングで北進して来るキャラック船などが、道を譲るよう催促して来るが、こちらもマリンベルを叩き返して応じる。
―― ガンガン! ガンガン!
「こっちだって大事な魚運んでるんだよ! うちの方が先に航路に居たんだから! 舵貸してウラド!」
「船長ッ、大丈夫だ、大丈夫だから私に任せてくれッ」
結局ギリギリで擦れ違って行くキャラック船から罵声が飛んで来るが。
「危ねぇだろォォォ!? もっと大きく避けやがれー!!」
「やかましー!! こっちも商売だよ!!」
私もお姫マリーにねじり鉢巻き姿で応戦する。今日で海に出てから183日。私もだいぶ性格が変わったなあと思う。
ウインダムに着く頃には午後三時を過ぎていた。ここまで来てようやく雲間から陽光が差して来た……折角極夜の世界から帰って来たのに、暫く太陽を見ていなかったような気がする。とは言え、陽が射したら射したで気が気ではないのが極光鱒の事だ。
「市場へ早く行きたいんですよ! 中央波止場に行かせて下さい、はいこれ賄賂! ロビンクラフト! 帆を開きなおして!」
「了解、帆を開きまーす」
「ちょ待て、駄目だったら、俺の権限じゃそこまで出来ないから本当に!」
ウインダムの港湾役人のおじさんは案の定、一見の小船のフォルコン号を港の片隅の市場から遠い錨地に泊めるよう言って来たが、何の事は無い、中央市場の前の波止場にはフォルコン号が泊められるくらいの空き地は十分にあるのだ。
「御願いします! 遠く極北海からやって来たとは思えない、鮮度抜群の極光鱒なんですよ! ほら食べてみて下さい、美味しいんです本当に!」
「ちょっと! やめなさいお嬢さん、やめッ! モゴッ……」
交渉の結果中央波止場に泊めさせて貰える事になったフォルコン号は縦付けながらブリッジをつけてもらい、私はついにウインダムの中央市場の目の前へと降り立った。
極光鱒は自分達用に卸した一尾を除き、残らず損ねずに持って来れた。冷凍状態も完璧だ、一度も解凍していない……しかしここからは時間との戦いである。
「仲仕のみなさまー! 手間賃は三倍払いますのよ! どうか張り切って運んで下さいませ!」
「おお! やるじゃねえか姉さん!」
こういうお金は使えばちゃんと帰って来るというのはアレクの提案だった。私とアイリはさらに自家用に使っていた極光鱒をどんどん切って行く。
「船長、もっと大きく切って! 口一杯に頬張れるように!」
「了解太っちょ! さあ仲買いの皆さん! これが新鮮な極光鱒のお味だよ! お代は無用だ、食べて食べて!!」
仲仕の兄さん達が異様に張り切って、フォルコン号の極光鱒を一尾一尾丁寧に、かつ威勢よく運び出して行く。
「どいたどいた! 新鮮な極光鱒様の御通りだ!」
極光鱒の試食も、仲買さんだけに限らずそのへんで働いてる人皆に振る舞う。
「さあ! 最高級の極光鱒ですわよ! 王様も公爵様も大満足、極北海の極光鱒が氷漬けでこのウインダムに届きましたのよ、生でも食べられる極上の極光鱒ですわ! お味はどうぞこちらでお確かめになって!」
アレクは不精ひげとウラドをお供に競売場の方へ行った。カイヴァーンとファウストには木炭と焼き網を出して極光鱒の焼き身を作って貰う。
まあ卸売市場で勝手にそんな事をしていればすぐ役人が飛んで来る訳だが、そういう時に物を言うのが私がそっと袖の下から差出す金貨である。
「極光鱒は焼いても最高の味ですのよ! そこのお兄さん達もほら! え、仲買人じゃない? いいから食べて食べて! 美味しいんだから! あっ、お役人様、お仕事御苦労様ですわ、あのこれ、いいんですいいんです、魚心あれば水心でございますわ」
私には船長になる事で得た物がたくさんあると思うけど、船長になった事で失った物も結構あるんだろうなあ……おっと、ここで弱気になっちゃ駄目だ。私はねじり鉢巻きを締め直す。
「北洋で一番の贅沢品、伝説の美食極光鱒がウインダムにやって参りましたのよ! さあ寄ってらっしゃい試食は無料ですわ、早く来ないと無くなりますわよ!」




