後始末
「はあ、はぁ・・・」
暗い路地の壁に手をつき、影未は荒い息を吐いていた。
スイッチを押したあとの事は、正直あまりよく覚えていない。
スイッチを押しながら宮殿から脱出し、近くに待機させてあった作戦が失敗した時用のヘリで緊急脱出。ヘリの性能が良かったためか、日本に二時間ほどでたどり着いた。ヘルズにやられた分にヘリの操作による疲労が加わり、今にも倒れそうだ。
「はぁ、でもこれで、警察も私を追って来ることはないはず・・・」
息を荒げながらも、影未は嗜虐的に微笑んだ。
当然だ。警察だってまさか影未が日本に逃亡したとは夢にも思わないだろうし、分かったとしても他国の事情なのでそう易々と介入出来ない。
それに、向こうには影未よりも有名な犯罪者が居る。有名でかつ捕まえられる距離に居るヘルズと、無名で手の届かない距離に居る影未。
警察がどちらを狙うかなど、一目瞭然だった。
「さて、ここからあのビルに戻るには、どうやって・・・」
影未の正体。それは、テロ組織を裏で操る事を目的とした会社の社員だ。その組織は、つい最近警察の強制捜査で一斉検挙されてしまった。影未がイギリスに行くのと入れ違いに警察が来たため、影未だけは捕まらずに住んだのだ。そして組織の活動資金二億円は、とある男に盗まれてしまった。
「ヘルズめ・・・最後まで私を苔にしやがって! お前のせいで職も、金も失ったんだぞ! どうしてくれるんだよ!」
壁をバン! と叩き、影未は叫んだ。そもそもヘルズが影未たちの組織に盗みになんて来なければ、こんな事にはならなかった筈なのだ。全てはヘルズが悪い。
「まあとりあえず、今は寝る所を探さないと・・・ホテルでもいいけど、お金持ってないしな・・・」
恥を捨てて見知らぬ男の家というのも考えたが、ヘルズとの戦いのせいで服が血まみれなため、流石にそれは却下だ。
「仕方ない、どこか寝られる所を探そう」
という事で、どこか空き家を探したのだが見つからず、慣れ親しんでいるという意味も合って、組織の仮眠室で休もうと決めたのだ。
「警察も残念よね・・・科学が進歩して捜査の速度が格段に上がったせいで、『現場百篇』なんて言葉が消え去り、誰も犯人が元の場所に戻って来るなんて考えなくなった」
影未の言うとおり、科学が進歩したおかげで凶器や犯人の逃亡ルートなど、様々な事が分かるようになった。しかし、それ故に誰もが機械による捜査に頼り、誰も現場に行かなくなったのも事実だ。数日たった今では立ち入り禁止の札すらも剥がされているだろう。
「ほんっと、かわいそうな連中ね。そんな事ばっかりしてるから、いつまで経ってもヘルズを捕まえられないんでしょ」
小声で警察を嘲笑うと、影未は再び歩き出した。もうこれ以上時間を無駄には出来ない。念のため、前方を確認する。
「さて、前方に人は・・・・居るわね、一人」
10メートルほど離れた場所に、老人が歩いていた。酔っぱらっているのかその体はフラフラと揺れており、右手には空になった一升瓶を携えている。
「うぃーっ、ひっく! やべえ、二日連続で飲み続けんのやべえ! もう金すっからかんだよー、ひっく! あー、もうこんな時は歌だな、うん! 歌だ歌! 歌うぞー!」
どうやら本当に酔っぱらっているようだ。影未は溜め息を吐いた。
「仕方ない、あれだけ酔っぱらっててもこんな血まみれの姿を見られると何があるか分からないし。一応光学迷彩使っておくか」
念のため光学迷彩を発動させる。そして一気に路地を抜けるべく走り出す。
「お嬢さーん、夜道はー、危なーいですよー、ひっく!」
老人の言葉に、一瞬足が止まりかける。
(まさか、バレてる⁉)
だが光学迷彩を使っている以上、バレるはずがない。どうせ酔っぱらいの戯言だと思い、影未は再び走り出す。老人の横をすり抜けようとした時ーーーーー
「だから、夜道は危ないって言ってるだろ、間抜け」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
腹に強烈な衝撃がかかり、影未の体が吹き飛ばされる。身体が錐揉み状に回転し、頭から塀に突っ込む。バチン! という音と共に光学迷彩が解除される。
(一体、何が起きてーーーーー)
何とか塀から頭を出した瞬間、影未はあまりの痛みにうめきかけた。腹に穴が空いたかと思うほどの強い衝撃。その痛みは、日常では絶対に味わう事の出来ない物だ。額が割れて、影未の視界が赤く染まる。
(嘘、これは・・・)
人間には、一定以上の攻撃を受けると痛覚が麻痺すると言われている。
もしそれが本当なら、これは痛覚を限界まで引き出した攻撃だろう。痛覚が麻痺するギリギリに攻撃を弱め、あえて敵の痛みを倍増させる、悪魔の所業。
(こんな高等技術が出来るなんて・・・こいつ、何者⁉)
とにかく起き上がろうと、影未が首をわずかに動かす。その刹那、とてつもない衝撃波が影未を襲い、影未はまたも塀に叩きつけられる。全身が引きちぎられるように痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いーーーーーーーーーー
ドスッ!
あまりの痛みに意識が朦朧としたその時、何かが肉を穿つような、鈍い音が聞こえてきた。
(え?)
その、どこか心地よさを感じさせる音の音源は、影未の腹だった。影未が震えながら下を見ると、影未の腹に無数の琥珀色の破片が突き刺さっていた。
「・・・・ぁ」
視界が真っ赤に染まっているせいでよく分からないが、それは一升瓶の破片に見えた。
「よお」
どこかから、あの老人の声が聞こえる。その声には、先程までの酔っ払った感じは見当たらない。影未は声の元を探ろうとするが、意識が朦朧として特定出来ない。
「今回は随分と派手にやってくれたみたいじゃないか。現在複数の国からお前の逮捕状が出ている。治安維持を名目にICPOも動き出した。仲間は全滅、指名手配もされた。そして我が輩にも目を付けられた。もうお前は終わりだ。諦めろ」
「そ、そんな・・・ま、まだ、終われない・・・・」
「まあ一番の失態は、我が輩の弟子を殺すとか宣言しておきながら、殺すどころか返り討ちにあって逃げてくる事だがな。そこはせめて討ち死にしろよ、な?」
老人の諭すような言葉が、刃のように影未に突き刺さる。だが、影未は諦めない。
「まだ・・・まだぁ!」
諦めるな。
そう、誰かが励ました気がした。
そう、ここで諦めたら終わりなのだ。仲間との再会も、組織の復活も、ヘルズへの復讐も、全てが終わる。
まだ、終わりたくない。
「諦めるか、絶対に! 私は――――――」
ドスッ!
影未の切ない思いは、老人が振った手によって、砕け散った。
「諦めろ。いつまでも縋っているのは、みっともないだけだぞ」
老人の姿が掻き消え、瞬間、影未の全身に耐えきれない負荷がかかる。
「あああああああああああッ!」
「我が輩に引導を渡してもらえるだけ、ありがたいと思え」
「ぶ、物理、げ、限界・・・なた、何者?」
『物理限界を越えている。貴方何者?』と聞こうとして、失敗する。
そう、今の老人の動きは常軌を逸していた。影未はこれでもテロリストの一員だ。テロリストとして鍛え抜かれた彼女の直感は、時にヘルズの接近すら感知する(といっても反射神経が追い付かないので、結局逃げられないのだが)。
だがこの老人に対しては、影未の直感が通用しなかった。まるで幽霊のようにフッ、と老人は現れたのだ。
影未の問いかけに対して、老人はフンと鼻を鳴らした。
「物理限界? なんだそれは」
「・・・・・・は?」
物理限界。それは物体における大きな壁だ。物体はどう足掻いても物理限界を越える事が出来ない。このくらいの事、中学生でも知っている。
唖然とする影未に、老人は続ける。
「そんな物、とっくに突破しているだろうが。我が輩を見くびるな」
「まさか、貴方はーーーーー」
物理限界を超越した身体能力。そして『弟子』というこの呼称。そして、今では珍しい『我が輩』という一人称。
この老人は、間違いなくーーーーー
「時間切れだ。言い残す言葉はもうないな」
老人の手が眼前に迫り、影未の意識は暗闇の中に落ちた。
次回は、5月31日(水曜日)更新です。




