エピローグ
ザオルグたちがその場から完全に去ると、フィリアはその場に崩れ落ちて号泣した。
エルドワードが、そっとハンカチを王女に差し出す。
「――ありがとうございます」
彼の言葉に、フィリアは表情をゆがめる。
「……なぜ、お礼を?」
「フィリア様は、ザオルグ先生に自害させないために、あんなことをおっしゃったのでしょう? 自分を憎ませるために。憎しみほど他人の心を刺すものはない。その感情が、きっと、ザオルグ先生を生かす」
フィリアはエルドワードからハンカチを受け取ったが、つんと顔を背ける。まるで、何者にも懐かない気高い猫のようだ。
ようやく、ティナも王女の意図に気付いた。
ザオルグは、もはやこの世に未練などないような状態だった。きっと独りになったら、いずれ死を選んでいただろう。
ティナはフィリアに向かって、深く腰を曲げた。
「……ありがとうございます」
――憎まれても良い。ただ、生きていてくれたら。
きっと、そんな考えは傲慢だ。生きているよりもいっそ死んだほうが、ずっとそのひとにとって救いになることだってあるだろう。
だから、これは本当に、ザオルグに生きていてほしいという、ティナとエルドワードの我がままだ。
(時間はきっと、ザオルグ先生を癒すから……)
たとえ今がいかに辛くても、誰のもとにも平等に時は流れる。
時の女神は、とても儚くて、残酷で、やさしい。
(けれど、30年……ほんとうに、フィリア様は、ザオルグ先生を待つおつもりでいるの?)
そう思うと、ティナは胸をかきむしりたいような気持ちになる。同情心とともに、湧いてくるのは共感だ。
脳裏に浮かぶのは、4年前のあの夜のこと。
(きっと、王女様は、かつての私と同じような心境に陥っている)
恋などしなければ良かった、と。
こんなにつらいなら、いっそ忘れてしまいたい。きっと、そう思っている。
ティナは、そう確信した。
「――フィリア様。私は、ひとつの魔法の呪文を知っています」
「それは?」
「記憶と、恋心に蓋をする呪文です」
ティナが表情を強張らせてそう告げると、フィリアは目をおおきく瞬かせた。そして苦い笑みをこぼして、首をふる。
「私には、そんなもの必要ないわ」
「王女さま」
フィリアは瞼を閉じて、そっと胸を両手で抱きしめる。
「――この身を焦がすような苦しみも、醜い感情も、胸を震わせる喜びも、すべて私のもの。決して、誰にも渡すものですか。たとえ神さまにだって渡さないわ。どんなに見苦しかったとしても……私は、本当の恋をしたのだから」
ティナは、言葉を失った。
フィリアは、その宝石のような目から涙をあふれさせる。
「……ねえ、貴方もそうだったんでしょう? ザオルグ」
ここにはいない相手にむかって、フィリアは、そう微苦笑した。
◇ ◆ ◇
ティナは、しばらくのあいだ、その場に佇んでいた。
この場に残っているのは、ティナとエルドワードだけだ。フィリアも、とっくに去ってしまっている。
「ティナ」
エルドワードが、優しく声をかけてくる。
その途端、堰が壊れたかのように、耐えてきたものがあふれだした。
エルドワードの胸の衣をつかみ、ティナは荒々しく揺さぶる。どうにもならない激しい感情に襲われていた。
「エルド……! 私は、耐えられなかった……っ」
あの王女のように孤独を受け入れる覚悟を、持ち合わせていなかった。
恋心に翻弄されて、自分が変えられてしまうのが嫌だった。
愛しているのに、彼と離れていなければならないことが、本当につらくて。
けれど、自分が正しいことをしたのか、急にわからなくなる。
他人を巻き込まないように、ひとりで戦うことを選んだはずだ。けれど、それがエルドワードを苦しめる結果となった。
――ひどく、身勝手な感情だ。
エルドワードは深く息を吐く。
「……フィリア王女は、国王に嘆願してくださったようだよ。ザオルグ先生は、本来なら処刑されてもおかしくない。最低でも、ベルクフリートに生涯閉じ込められるとこだろう。でも、王女のおかげで、普通の牢塔に30年で済んだんだ」
――30年。
それは、途方もなく長い時間だ。
「あの王女がザオルグ先生にしたことを、ぜんぶ聞いたよ。確かに褒められたものじゃないけれど……でも、もしも――彼女が本当に30年間、ザオルグ先生を待てるのなら……それは、ただの執着ではなくて、愛と呼んでもいいのかもしれない。僕は、そう思うよ」
口で待てると言うのは、たやすい。
けれど、それを実行できる人間が、どれだけいるのだろうか。
いつの間にか、涙を流していたらしい。
濡れた頬を包まれて、そっと、持ち上げられる。
美しい若葉色の瞳と、視線があう。
「僕は、待つよ」
エルドワードの言葉に、ティナは息を飲んだ。
「エル、ド……?」
「だって、そうだろう? 僕は、もうずっと、きみを待っていた。4年間もきみに冷たくされ、その後の4年間はきみを目にすることさえ叶わず。――本当に、気が狂いそうになる時間を生きてきた。きみへの憎しみの感情があることも、否定しない。でも、もう全部、許すから……」
僕の、そばにいてください。
願いは、ただそれだけですから。
エルドワードが、かすれた声で懇願する。
「ああ……」
ティナは耐えきれず、吐息を漏らした。
すでに、魔法はとけている。
これはすべて、自分自身の感情だ。
――かつて、彼を受け入れようとしなかったのは、いつかくる彼との別離を恐れたから。
そばにいて欲しくて。
それが叶わず、喧嘩をして。
適度な距離の取り方がわからなくなって、冷たい態度を取ってしまった。
後悔や、やるせなさや、愛おしさ。さまざまな感情が押しよせてきて、胸の中にあふれていく。
嗚咽のせいで、声がうまく出てこない。
けれど、どうしても言わなければならない。
「……エルドワード」
ティナは手を伸ばして、エルドワードの頬にふれた。
彼の顔も濡れていた。
お互いに表情も歪んでいて、きっと、誰もが同じくらいに見苦しくなる。
「――――」
その一言を、やっと唇にのせる。
言葉を奪うように、唇が重ねられた。
◇ ◆ ◇
世界を滅ぼそうとした魔法使いの話は、フィルディル王国にひろく知れわたっていく。
けれど、その歴史の裏側で、ひとつの小さな恋物語が終わったことを知る人は少ない。
――これは、誰にも語られない、悪名高き魔女の恋。




