再会
ふと、その物音に気付いて、ティナは薄汚れた石床から視線をあげた。
先ほどまでと、どこか空気が変わったように感じられる。
「なに……?」
鉄格子に近づき、周囲を見まわした。
地下牢にこもっていた空気が、動いたように思えたのだ。
(誰かがいる……?)
左手にある通路の先――地上に続く石階段の向こうから、光が漏れている。
そこから聞こえてくる断続的な靴音に、ティナは息を飲んだ。
ひどく胸が早鐘を打つ。
まさか、とも思った。
だって、彼はティナの待ち望んでいた相手だったから。
「エルド……!」
エルドワードはティナを見つめて、どこかほっとしたような表情をした。
怪我でもしているのか、短剣を持っていない方の手は壁についている。
通路の燭台の火に照らされた彼の顔色は悪く、どう見ても健康そうな人のそれには見えない。
「エルドワード……、どうして……」
声が震える。
鉄格子を握っていた指を絡めるように、彼につかまれた。彼の指先には、痛々しい怪我の跡がある。
「――ティナ。会いたかった……」
ふたりの間には、鉄格子があった。
耐えきれず、ティナの瞳から涙がこぼれ落ちる。
「エルド……、わたしは……」
胸が引き絞られるように苦しくて、言葉にならない。
エルドワードは持っていた短剣をつかって、鉄扉を壊した。それが開くなり、痛いほどの力で抱きすくめられる。
傷が痛むのか、エルドワードはつらそうな呼吸をしていた。
それでも、腕の力は緩まらない。
幾筋もの涙が、ティナの頬をつたって落ちていく。
「エルドワード……」
エルドワードは、ティナの手枷を壊して外してくれた。
急に、エルドワードの脚から力が抜けて、石床に崩れ落ちそうになる。
ティナは驚いて、慌てて彼を支えようとした。だが体格が違いすぎて、彼の身体を下に直接ぶつけないようにするだけで精一杯だった。
エルドワードはティナの膝の上に頭をのせて、荒い息をついている。うっすら汗ばんだ額には、蜂蜜色の髪が貼りついていた。
ティナは驚いて、彼の頬に手を押しあてる。熱が高い。
「エルド……?」
ティナの顔から血の気が引いた。
エルドワードは怪我をしていて、そのせいで熱が出ているのだ。
ティナも魔女の端くれとして、彼が安静を要する状態であることがすぐにわかる。
「エルド、怪我しているのね? はやく、手当をしなきゃ……っ」
焦りばかりが先立ち、思考が真っ白に染まっていく。こんな牢獄で、手当なんてできるはずがないということも、思いつかないほどに。
「――ティナ」
エルドワードが穏やかに微笑んでいる。
ゆっくりと手を伸ばして、ティナの濡れた頬にふれた。
「結婚してくれないか?」
ティナの目から、大きな雫がこぼれ落ちる。
「なにを、言って……っ」
エルドワードが死にそうな顔で、それでも幸せそうに笑う。
――こんな、状況下で。
「……僕はずるいから、少しでも可能性があるときに求婚したいんだ。きみは僕を、いま憐れんでくれているから……そこにつけ込んでいる。死ぬ前に、どうか、僕を受け入れて」
左手をつかまれて、そのまま薬指に口づけを落とされる。その柔らかな感触に、肩が震えた。
(ああ……どうして、わたしは……)
何かの魔法で、感情が散らされていく。
こうして、エルドワードにふれられて苦しいほどの喜びを感じても、感情が気泡のようにまたたく間に生まれては、消えていく。
――そのとき、確信した。
(私は、何か、魔法をかけられている……)
何かを思い出そうとすると、記憶が蓋をする。
感情が閉ざされていく。
――人生で最高の瞬間も、心を封じる魔法に阻まれて、何も感じとることができない。
それがひどく悲しくて、涙があふれる。
「エルド……。わたしは……貴方に、言わなければならないことが……」
――4年前。
ティナは自分自身に、魔法をかけた。
『――この世界が滅びると知った瞬間、私が想ったのは、彼のことだった。彼に生きていて欲しい。だから、ゲイル。どうか、私にその魔法を……』
それ以上考えようとすると、ひどく頭が痛んだ。
ティナは、こめかみを手のひらで押さえた。
「思い出せない……」
深くうつむくと、黒髪が一筋、ティナの頬に落ちてきた。
エルドワードが、それをティナの耳にかけてくれる。そのまま、彼の指が首筋を這い、背筋に甘い痺れを感じた。
ティナはごく自然な動作で、エルドワードの唇に、自ら口づけを落とす。
「エルド、お願い。死なないで……。貴方が死んだら、私は、いったいどうすればいい?」
想像するだけで、どうしていいのかわからなくなるほど、絶望してしまう。
エルドワードは黙りこみ、ふいに、ティナから顔を背けた。
「……本当に、きみは、可愛くて困る」
「え……?」
エルドワードは片手で、自分の表情を隠していた。
けれど、指の隙間から見える頬は紅潮している。熱に浮かされたように、若葉色の瞳が潤んでいた。
「ティナ。僕を、殺す気なんでしょう?」
「えっ……」
エルドワードが何を言っているのか、わからない。
ティナは、彼をじっと見つめる。
「生きていても、僕はきみと離れていると、死んだような気持ちになる。笑いかけてもらえたら、嬉しすぎて死にそうだ。今でさえ瀕死の状態なのに……これ以上、僕に惚れさせて、どうするつもりなの?」
言われた台詞をだんだん理解していくにつれて、ティナの顔面が熱をおびる。
「エルド、なに言って……」
「――僕が死ぬわけがないじゃないか。僕を殺せるのは、きみだけだ」
エルドワードはそう言うなり、ティナの頭の後ろに手を添えて、ぐっと引き寄せてきた。
乱暴に、性急な口づけをされて、ティナは目を見ひらく。
押し入ってきた舌が口内をまさぐり、ティナのそれを絡みとっていく。
息継ぎもできず、呼吸するために開いた隙間さえ奪われてしまった。
――くらくらと、目眩がする。
視界が、真っ白にぼやけた。
唇がようやく離れると、エルドワードはきつく眉根をよせる。飢えた獣のような笑みを浮かべて、彼はささやいた。
「――きみは、僕の愛を、もっと思い知るべきだ」
突然、地響きのような轟音が響きわたる。
建物が揺れたような気配がして、ティナは顔をあげた。はらはらと、石壁から砂と小石が落ちてくる。
「いったい、何が……?」
エルドワードと話しているあいだに、どれだけの時間が流れていたのだろうか。
耳をすませると、男たちが騒いでいるような声が遠くから聞こえた。
まるで、外で乱闘さわぎでも起きているかのようだ。
ゆっくりと、エルドワードが身を起こして、深く息をつく。
「始まったか……」
「エルド、まだ休んでいないと――」
ティナは慌てて、彼の肩に手を置いた。
「大丈夫。ティナのそばにいたから、かなり楽になった」
おそらく、やせ我慢なのだろうが確かに最初に見たときよりも、彼の血色は戻ってきている。
「さあ、最後の一仕事をしよう」
エルドワードは立ち上がり、ティナに手を差し伸べてきた。
ティナは大きく瞬きする。
そして、微笑してから、己のそれを彼の手の上に重ねた。




