エルドワード
エルドワードは、満身創痍というようすだった。
顔色は悪く、つらそうな表情で腹部を押さえている。
わずかにめくれた袖から垣間見える手首には、痛々しい拘束の跡まであった。
何より目を背けたくなったのは、血がにじんだ彼の指先だ。
「ちょっと、これ……! どうしたんですか……っ」
さすがに驚いて、ロイはエルドワードの腕をつかんで患部に顔を近づけた。
爪がはがれて、黒くなった血が固まっている。骨こそ折れていないようだが、かなり痛々しかった。
エルドワードは深く息を吐く。
「……ああ。脱走に少し、手こずってしまってね」
「脱走って……。エルドワードさん、いったい、どこにいたんですか……?」
てっきり、エルドワードはドルシアと同じ牢にいるのだろうと思っていた。だが、そうではなかったらしい。
「――ベルクフリートだよ」
その言葉に、ロイは絶句した。
「それって、入ったら2度と出てこられないって言われている塔じゃないですか……。よく、生きていましたね……」
ロイは、感嘆と呆れの混じる声で、そうつぶやいた。
睫毛を伏せると、エルドワードの表情に憂いの色がおびる。
「魔法が使えたら、早かったんだけどね……。ザオルグ先生は、僕を絶対に出したくなかったらしく、魔法無効化の呪文をかけた手枷までつけてくれていたから。余計な時間がかかってしまった」
ロイは、口元が引きつるのを感じた。
弟子に対してそこまで容赦なくできる師も普通ではないが、そこから脱獄できる弟子もそうはいない。
はっきり言って、ロイの常識から考えると、この師弟は異常だ。
ロイが内心で恐れ戦いていると、エルドワードは身をふらつかせて、そばにあった壁に寄り掛かった。
そのまま、ずるずると彼は地面に腰を落としてしまう。
「だっ、大丈夫ですか……!?」
ロイは慌てて、エルドワードに近づいた。
彼の唇から血の気が失せている。
「……あまり、大丈夫じゃないかな。ほんと、ザオルグ先生は、昔から僕に対しては厳しいんだよね。ティナに対しては、けっこう甘いくせにさ」
エルドワードは、そうぼやいた。
「ティナ……」
エルドワードの放った言葉を、ロイは聞き逃さなかった。
それは、ドルシアの別の名前。
ロイの知らない、師のもうひとつの顔。
「……きみは、何か事情を知っているようだね。表情がくるくる変わるから、見ていてわかりやすい」
エルドワードは苦笑している。
ロイは拳を握りしめた。水が器からあふれるような勢いで、これまであったすべてのことを彼に説明していく。
ロイは上がっていた息を吐いた。
エルドワードはずっと黙って、ロイが話し終えるまで耳を傾けていた。若葉色の瞳が何かを思考するように細められる。
「なるほどね……。だから、こんなに町中が異様な気配をしているのか。ザオルグ先生も無茶をするなぁ」
何故か、エルドワードは楽しげに笑ってさえいた。
その様子に、ロイは苛立つ。
「何を、のんびりしたことを言っているんですか……っ。そんなことを言っている場合じゃないっていうのに……!」
こうして、問答をしている時間さえ惜しい。
いつ、誰かがふたりに気付いて近づいてくるかもわからない。
できるだけ声をひそめていても、ロイは周囲が気になって、気が気ではなかった。
「べつに、落ち着いているわけじゃないよ。頭の中ではどうしようかなって、せわしなく考えている」
エルドワードは土で薄汚れた蜂蜜色の髪を後ろになでつけた。
そんなぼろぼろの状態であっても、どことなく気品と美しさがある。
エルドワードは酷薄な笑みを浮かべた。
「――僕はね、ロイ君。世界なんて、本当は、どうでもいいんだ。僕とティナさえいれば良い。世界なんて、壊れてしまっても構わないと思っている」
「そんな……!」
(何てことを言うんだ、この人は……っ)
ロイは呆然とした。唖然もした。
次第に、湧き上がってくる怒りで、目の前が真っ白になっていく。
エルドワードは自嘲気味に笑う。
「――禁書の選択は正しい。僕を選ばなくて正解だった。その、ゲイルと言ったかな? 禁書は、僕を動かすのに最も適した答えを導きだした」
「何を……っ」
言っているのか。
ロイには、まだ理解できない。
「きみは、紙と羽ペンを持っているかな? きみに渡したいものがある」
そう問われて、ロイは慌てて、背負っていた革袋から紙と羽ペンを取り出す。
紐でかたく結んであったおかげで、まったく濡れていない。
エルドワードはそれを受け取ると、傷が痛むのか、細く息を吐いた。そして、ロイに向かって言う。
「――ロイ君、僕はしばらく集中しなければいけないから、周囲を見張っていてくれ。もしも、誰か近づいてきたら、すぐに教えて」
そう伝えるなり、エルドワードは物凄い速さで、紙に何かを書きつけはじめた。
エルドワードの切迫した表情に、ロイは言葉を失う。
本当は、羽ペンを持つことさえつらいのかもしれない。
エルドワードの額には、脂汗が浮いていた。
けれど、彼はよどみなく何かを紙に記していっている。――流れるように、そのわずかな時間さえ、惜しむように。
ロイは辺りを警戒しつつも、エルドワードから目が離せなかった。
(なんで、この人は……)
「……きみは、どうして僕がこうするのか、疑問に思っているのかな?」
エルドワードは書き続ける手は止めないまま、ロイにむかって言った。
彼は視線さえ、上げていない。それなのに、ロイが考えていることがわかるのだろうか。
困惑するロイの様子が存外に面白かったのか、エルドワードが噴き出す。
その態度が癪にさわり、ロイはきつく眉根をよせる。
「当然でしょう……! いきなり何を始めたのか、さっぱりわからないし……っ」
「計算しているんだよ。それが、どこにあるかを」
「どこに……?」
ロイは、エルドワードの手元を覗き込んだ。
彼が描いているのは、簡略的なこの町の地図のようだ。そして、膨大な魔法文字と、数字の羅列。
――まるで、転移の魔法陣をつくるときのような精密さ。
彼が求めようとしている数式の答えを知り、ロイは開いた口がふさがらなくなる。
「まさか……、エルドワードさん……」
「大きな魔法を行使するには、呪文だけだと長い時間がかかる。負担も大きいしね。だから、みんな、それを補助するための魔具を使う。魔具を設置する場所は、魔法陣に描かれているものなんだ。魔法陣に描かれる魔法文字は、綿密な計算の上に成り立っている。だから、あとは計算で導きだせるはずだ。そもそも、王都で魔具を置ける場所は限られているからね」
「――この魔法陣のことを、知っているんですか?」
「いや、知らなかった……というのも、正しくないか。半分だけなら、ザオルグ先生の部屋で見たことがある」
「だからと言って……」
半分しか知らないものを、普通の魔法使いが計算して答えを導き出せるものではない。
天才エルドワード。
彼がそう称えられる理由を、ロイは初めてまのあたりにした。
ロイが戦慄しているあいだに、エルドワードはすべて書き終えてしまったらしい。
彼は町の見取り図を描いた紙の上に、魔法陣を描いた紙を重ねる。
それを陽光に透かせてみると、描いたものはまったく違っているのに、ぴったりと町の建物と重なっているところが数か所あった。
「この建物と、この道沿いにある何かの建物と……この塔だな。おそらく、この滅びの魔法陣の要となる魔石か魔具が置いてある。――これを壊していけば、魔法は発動できなくなるはずだ」
エルドワードは、自らが書きつけたそれらの紙をロイに押しつけた。
「きみに、これを託す。町に戻って、これを壊してくれ」
「……エルドワードさん……」
喉が詰まって、言葉が出てこない。
ロイに渡したその紙は、端が血で汚れている箇所さえある。震える指で、エルドワードはそれを押しつけてきたのだ。
(彼が言う通りなら、世界なんてどうでもいいはずなのに……どうして、ここまで……)
「――彼女が護りたい世界を、護る。ただ、それだけだよ」
エルドワードはそう言って、微笑んだ。
◇ ◆ ◇
走り去っていくロイの後ろすがたを見つめながら、エルドワードは深く息をこぼした。
右手には、ロイに渡された短剣がある。
そっと立ち上がり、壁をつたいながら目的の場所へ歩きはじめた。
激痛で、歩くのもつらい。
(本当は、1分1秒でもはやく、助けに行きかった……)
計算にかかる時間が悔しくて、血がにじむほど唇を噛みしめた。
「戻らなきゃ。約束したんだ……」
すぐに戻るからと、置き手紙を残した。
ふいに、顔にかかった影に気付いて、エルドワードは空を見上げる。
1羽の鳥が、王城の上空を飛んでいた。蒼穹を滑るそのすがたは、優美でありながら、どこか寂しげにも見える。
――番は、どこにいったんだろう。
そんなことを、エルドワードは思った。
「本当に、ザオルグ先生の出す課題は、いつも難しいんだからなぁ……」
そう苦い笑みをのせて、エルドワードは唇の血を手の甲でぬぐう。




