125, よろずを開けつる鍵なればこそ
なつひめさまは思い出します。
「ななくらのひめぎみは、七倉の城を落とされし後、城の物陰に隠れおおせ、鬼どもの囲いを破り、宵のうちに弟とともに山を駆け下りました。すぐに、母の実家である倉橋家を頼り、足軽、騎馬を借り受け、財を用いて武器を整え、七倉城へと攻め上ったのです。そして、月の暗き晩、酒を飲み、くつろいでいた鬼どもの背後を打ちました」
「そのときも神がおわす山を走り抜け、神出鬼没、弓矢の雨を降らせたのであろう」
「わたくしの悪しき噂は、百姓も知るほどですか」
若い男は首を横に振りました。
「悪しきことか。山は神子みこが封じる聖域であろう。清き身でなければ足を踏み入れることなど、とても叶わぬ」
「ふふ」
なつひめさまは、男の世辞につい微笑んでしまいました。喜んだわけではありません。男は、まるで見当違いのことを言っていましたから、嬉しいとは思えなかったのです。
もちろん、なつひめさまは、美しいと言われることに嬉しくないはずがありません。まして、祭りの夜に男のひとから声を掛けられるなど、ほんとうに村娘になったような気分で、なつひめさまは心躍るのです。
けれども、なつひめさまが鬼を斬ったことは事実でしたし、神子などという神聖な役目を演じたこともありません。それに、なつひめさまはとても大切な秘密を抱えておりました。その秘密は、並みの人びとには理解すらできないものでした。
ですので、なつひめさまは、目の前の男が、いくらか頼もしいように見えても、所詮は見かけだけのことなのだと残念に思ってしまうのでした。思えば、なつひめさまの美しさとて、心優しい母と、雄々しい父が与えてくださったものです。
「戯れ言と思うなかれ。まこと、まじないとは恐ろしいもの。鬼どもは、人を縛り、意のままに操ることも容易いという」
「言われずとも存じております。あれは、恐ろしきものでした」
鬼のほんとうの恐ろしさも知らぬ、小賢しい男を、なつひめさまはたしなめるかのようです。男の言うことに誤りはありません。しかし、そのような話は、七倉村では物心ついたばかりの子供ですら知っています。いえ、七倉村だけではなく、近隣の村々でそのことを知らぬ者はおりませんでした。
そのようなことも知らないとは、この男はいったいどこから参ったのでしょう、と、なつひめさまは思いました。
「今は昔、醜き鬼どもが七倉の城に攻め入った。そのとき、七倉の侍、郎党、家人にいたるまで城に篭もり戦した。だが、まじないを使う鬼どものこと、七倉の当主は操られ、狂うた。
心なき侍ども、恐れおののき、ひとり、またひとりと城を去る。しかして、逃げ出したものひとりとしてふもとの村までたどり着かぬ。みな討ち取られ、あるいは、まじないの餌食となりて城への攻め手となった。
ある夜、鬼どもは城に攻め込み、七倉の者はみな、ひとときのうちに討たれたという」
「かなしき話です」
幾度も聞いた話でしたが、なつひめさまは痛ましい気持ちになります。そのときの七倉家の当主とは、なつひめさまの父親でした。また、七倉城に籠城したときに戦った侍の多くは、なつひめさまが生まれる前から七倉家に仕える譜代の家来でした。みな、なつひめさまを逃がすために戦ったのです。
なつひめさまが笛を吹くのは、自分が無事であることを、遠くにいる父親や家来たちに教えるためでもありました。鬼どもを追い払い、平和が戻った七倉の里を、なつひめさまが笛を吹いて知らせていたのです。
なつひめさまが笛を吹くごとに、砦を守っていた父のきょうだい、古くから付き合いのある家来や、なつひめさまに力を貸してくれる人びとが集まってきました。でも、なつひめさまの大切なものは、逆に遠く離れてゆくような気がしました。
このときも、なつひめさまは、目の前の男のことよりも、遠いところのことを考えてしまうのです。けれども、この男は思わぬことを言い出したのです。
「しかし、いぶかしきことあり。七倉の姫君、城に隠れ、夜にまぎれ、弟君とともに山を下りおちのびたという。しかし、まじないをつかう鬼どもから、隠れおおせることができるものか?」
「運がよかったのでしょう」
意外なことに男はうなずきませんでした。
「さにあらず。七倉の城、外は鬼ども、内は操られし人びと。とても逃げられぬ有様。まして、美しき姫君、鬼どもが逃す道理なし」
言われてみるとそのとおりです。あのとき、なつひめさまは無我夢中で逃れてきましたが、もしあのとき城の中に冷静でいれば、とても逃げられるものではないと考えたことでしょう。
「過ぎたる力をば、もつものゆえ」
なつひめさまは答えましたが、あまり良い答えではないことには気づいていました。でも、誤りでもありません。もともと、なつひめにこのような問いかけをしてくる男など、今までおりませんでした。いたのは、まつりごとのことであるとか、いくさの仕掛けのことばかりです。また、少し気の利く男でも、古き歌のことだとか、各地の名物や物珍しい事物のことを話すだけです。
なつひめさまは、自分がとてつもない勘違いをしているのではないかと思い始めていました。ですから、慌てて付け加えたのです。
「しかし、わたくしとて女です」
「ならばことさら。七倉の家は、力持つという姫君を捕らえなければ、滅ぼせぬ」
なつひめさまは、胸が高鳴るのを気づいていました。この男は、明らかに何かに気づいて、このようなことを話しています。このような話し方をする男は、今まで出会ったことがありません。女衆であれば、このような話をする者はいるのです。なつひめさまと、同じ秘密を抱える者です。しかし、かの娘たちは、なつひめさまのような姫君ではありません。親しくつきあえる者ばかりとも限りません。
なつひめさまが、なつひめさまであることを疑う者などいるでしょうか。
戦が終わってから伸ばした髪は長く、母譲りの鋭い眼、艶やかで色の白い肌、戦を経験したとはいえ所作や作法は、そう真似できるものではありません。戯れとはいえ、ななくらのなつひめと名乗りました。たしかに、夜のことではありますが、この姫君がなつひめであることを疑うものがいるとすれば、見る目がありません。
でも、この男はそれを疑っているのでした。
「もとより、城に篭もり、戦をするとは、戸に鍵、門にかんぬきをかけ、矢、焙烙を雨のごとく放ち、鉄砲てつほうをうちかけ、木、岩、石を山のごとく積み上げ、鬼どもに投げ打つを絶え間なきこと。外からは入ることあたわず、内からのがれることまたあたわず」
「書のひとつもご覧じなさらぬでしょうに」
なつひめさまは小馬鹿にしたような答え方をしました。男を試したのです。けれども、この若い男はなつひめさまの言葉に腹を立てることなく、話を続けるのです。
「また、鬼どものもちいるまじないとは、人を惑わせ、幻を見せ、現世うつしよにまことの地獄のごとき、いつわりの極楽のごときを作り出すこと」
「現世に……」
男の言葉に、胸を突かれたように思えます。なつひめさまの心は現世にない、そう考えていた自分がいたからです。なつひめさまは、男の言葉を待ちました。もしかしたら、この男は、黄泉の国より遣わされた者なのかもしれません。そうであれば、なつひめさまの心の中を知っていてもおかしくありません。
そして、男は重々しく言いました。
「ななくらのなつひめ、鬼どもに捕らえられしも、みずから縄を解き、まじないも解き、かんぬきも解き、幻をも破り、弟君とともに逃れる。すなわち、姫君、美しきのみならず。さのごとく鬼のまじないを打ち破り、いま、かくのごとく神子の祓いを打ち破る。
今日、七倉の家、財物を山のごとく持ち、各国より呼びたる侍を従え、七倉の郷では百姓に慕われ、世においては名高きこと並ぶものなし。
されど、内に世嗣よつぎたる弟・新左衛門あり、南に叔父の兵部ひょうぶあり、東に倉橋尾張守おわりのかみあり。家中には、音に聞こえし豪傑、功ありき老臣、他国者もあり。これらみな、うら若き姫君にひれ伏すのはいかなるわけか
すなわち、ななくらのなつひめ、人ならぬ力もち、されど、神のごとき力もつ。人ならぬ力とは、戦の力にあらず、金の力にもあらず。ただ、世の人に知られぬ異能力ちから。そは、みがきぬかれた美しき『鍵』のごとし。よろずを開けつる『鍵』なればこそ」