104, 琴野辺先輩との接点について
「はい」
琴野辺先輩はおっとりとした様子で笑顔になった。僕よりも年上で、落ち着いた雰囲気なのに、なんだかとても純粋なひとなんだなと思った。
「そう呼んでください」
「琴野辺先輩はどこから入ってきたんですか」
僕は玄関で靴を脱いだときのことを思い出した。今日は母親が帰ってくるのが遅くなるはずだから、玄関に鍵を掛けておいたんだ。もちろん、背後から琴野辺先輩がこっそり入り込んだわけでもないし、ベランダから侵入したこともありえない。なぜなら、琴野辺先輩の制服はちっとも汚れていないし、琴野辺先輩はそんな無茶をするようなひとには見えなかった。
「聡太さんがご存じのとおり、ちょっと変わった方法です」
「琴野辺先輩もなにか不思議なちからを持っているんですか?」
「そうなんです」
琴野辺先輩は微笑んでから、こんどは僕の部屋のなかをのんびりと観察した。ものすごくマイペースなひとだった。僕が先輩の視線の先に見られたらマズいものがないかどうか調べているうちに、先輩はいつの間にか部屋の真ん中から移動して、僕のベッドの隣に移動して正座していた。
「とてもきれいなお部屋ですね」
「あっ、あんまり見ないでください」
「まあ、どうしてでしょうか」
もちろん、僕の部屋をひっくり返しでもしない限りは、イキナリ先輩を卒倒させるような代物がでてくるはずはないけれど、僕のなかではごく常識的なものでも、ほかのひとに誤解を与えるようなモノが置いてあるかもしれない。
「あら、これは……」
「あ――っ!」
僕は琴野辺先輩がベッドと机の隙間に詰め込んでおいた本の束を引っ張り出そうとするのを、慌てて押しとどめた。琴野辺先輩はあんまり腕の力が強くないようで、僕がそれを神速の動作で机の棚のいちばん奥深くに押し込むと、琴野辺先輩はそれに抵抗することはできなかった。
琴野辺先輩はくすくす笑って、また家捜しを始めたので、僕はなんとかそれをやめさせようと決意した。
「琴野辺先輩はいったい何をしに来たんですか」
「聡太さんのことを知りたいなあと思ったら、来てしまいました」
なんだか恥ずかしいけれど、琴野辺先輩はとても自然な口調で言ったから、ひょっとすると琴野辺先輩の能力に関係しているのかもしれない。そうかと思えば、琴野辺先輩は窓の外を見て首を傾げた。
「ここはどこですか?」
「えっ?」
「住所です。このあたりのことは詳しくないので、帰るときも大変だろうなあと思ってしまったんです」
なんだかストーカーみたいなことを聞いてくる先輩だったけれど、実際のところ、琴野辺先輩はあまり相手に警戒心を抱かせないようなひとだった。僕みたいにあまり交友関係が広くないタイプでも、琴野辺先輩はどちらかというと話しやすい。
それに、住所といっても僕の家の住所を聞いているわけではなさそうだった、本当にこのあたりのことを知らないような口ぶりだった。それなら、どうやってここまで来たんだろう。
「久良川町……は分かりますよね、2丁目です」
「ああ、それなら分かります。昔はこの辺りは田んぼしかなかったのですけれど、ずいぶん家が増えて、1丁目から6丁目の区割りになったんですよね」
たしかに住所がそういうふうに分かれていることは知っているけれど、僕が生まれた頃にはこの辺りも住宅街だったと思う。もしかしたら、お父さんに尋ねれば昔のことも分かるかもしれないけれど。
「今日はちょっとだけご挨拶に来ただけです。でも、また会いに来てもいいですか?」
琴野辺先輩は邪気のない顔で尋ねるから、僕もどうやって答えていいものか困ってしまった。進んで頷いていいものか悩んでしまうけれど、かといって拒んでしまう理由もなかったんだ。それに、琴野辺先輩の能力はとても気になったので、僕は曖昧に肯定した。
「それでしたら、また来ます。さようなら、司家聡太さん」
「うん?」
「どうかなされましたか?」
「つかさけ?」
僕が尋ねると、琴野辺先輩は僕の名前を呼び間違えたことに全く気がつかないみたいな反応をした。もちろん、僕のことを全く知らないわけじゃないはずだ。さっきまでは僕の下の名前で呼んでいたのに、名字だけを間違えるなんて珍しいことだった。
「司家聡太さんですよね?」
「司です。司聡太」
「ああ! ごめんなさい、ついうっかり間違えてしまいました」
その様子は嘘をついていたり誤魔化しているようには見えなくて、本当に僕の名字のことを間違えたみたいだった。でも、変わった間違え方だよなあ……、それに、いったいどこで僕のことを知ったんだろう。
琴野辺先輩を玄関まで見送るあいだにも、僕は必死になって思い出そうとしていた。それなのに、僕はちっとも心当たりに思い至らなかった。琴野辺先輩は僕と接点があるような口ぶりなんだけれど……
「先に謝っておきます。ごめんなさい。僕は先輩と会ったことがあるんですか? さっきから思い出そうとしても先輩のことは記憶にありません」
「お祭りのときです。でも、聡太さんは覚えていないと思います」
お祭りというのは、夏休みのうちに相坂さんと行った、惣社の夏祭りのことに違いなかった。もっとも、夏祭りには相当な人出があるから、そのなかで僕と琴野辺先輩が出会ったかどうかなんて分からない。思い出そうとするだけ無駄なことだった。
「でも、もっと昔から知っているとも言えます」
「ひょっとして、誰かからメールで教えて貰ったりとか……」
「いいえ、機械は苦手なんです」
見かけの雰囲気もそうだけれど、琴野辺先輩はどこか無垢で世間ずれしているように見えた。僕の知っているひとのなかでは、楓さんに似ているような気がする。でも、楓さんほどには畏怖のような感情を抱かなかったし、どちらかというと和やかな気持ちさえ抱いていた。どうしてだろう。
琴野辺先輩を見送ると、僕は部屋の中の様子を確認することにした。
もちろん、玄関の戸締まりは確認したし、窓の施錠も見回った。その結果は、どの鍵も掛けられているということだった。
それは当然のことで、9月になった今日も部屋のなかではクーラーを点けるしかなかった。これは、僕の住んでいる家がコンクリート造りのマンションなので、単に窓を開け放つだけでは部屋の中が暑くなりすぎるからだった。
もちろん、七倉さんのように玄関の鍵を触れただけで開けることができるなら、この家の中に簡単に忍び込むことができる。でも、琴野辺先輩が現れたのは僕が家に戻ってきてからだった。それも、僕の背後に突然姿を現したわけだから、この部屋の中になにかヒントがあるはずだった。
この家は、僕の家族が借りている賃貸マンションの一室だ。つまり、分譲マンションでのような真新しいものではなくて、賃貸に卸されるくらいに築年数が建っている。もっとも、ときどき修繕が入っているからおんぼろでもない。部屋だって、琴野辺先輩も言っていたとおり綺麗な状態だった。
僕はマンションの一部屋を自由に使っていいように両親から言われている。ベッドと学習机、クローゼット、デスクトップのパソコンが置かれた部屋が僕の自室だった。つい2年前に引っ越してきたとき、新しいこの部屋をできるだけ清潔に使おうと思っていたから、定期的に片付けをするように気をつけている。
だから、琴野辺先輩が急に現れても慌てずに済んだのだった。……ちょっとだけ見つけて欲しくないものは見つかったけど。




