103, 琴野辺先輩との邂逅
9月になった。
僕がその実感を季節ではなくて単に新学期というかたちで知ったのは、この夏の陽気も晩夏が過ぎてもなお続いているせいだった。
通学路のアスファルトを照りつける太陽は、まだ8月と大して変わらないのだけれど、それでも長い夏休みが終わったその週には、僕たちは久しぶりに登校しなくてはならなかった。おかげで、夏の終わりをいやが応にも感じずにはいられなかったんだ。
もっとも、そんなふうに思ってしまうのは僕が夏休み中にちっともこの久良川高校に来ていなかったせいで、部活動に参加している生徒は毎日のように高校に来ていたのだろうし、休みボケなんてしていられない。だって、秋には文化祭や体育祭があるし、そうでなくても久しぶりに始まった授業に集中しないといけなかった。
とはいえ、1か月以上も期間が空いて再開した高校生活だったけれど、何日かすると僕はその学校生活の日常を思い出すことができた。
だいたい、僕は夏休みのあいだにもクラスメートの河原崎くんや双嶋くんと頻繁にメールのやりとりをしていたし、同じクラスで仲のいい女の子――七倉さんや相坂さんとも夏休み中にちょくちょく会っていた。だから、高校生活からそれほど身を離してとも思えない。
そのせいなのかどうか分からないけれど、七倉さんは休み明けからちょっとだけ忙しそうに見えたし、相坂さんはまた教室のなかではツンと澄ましたような様子でいるように見えた。それはこのクラスでの日常でもあったんだけれど、夏休み中の機嫌の良さそうな姿があまり見れなくなると思うとちょっと残念だった。
けれども、それは仕方のないことで、相坂さんがいつもニコニコしていたら相坂さんは毎日のように男子から告白されて、その対処にてんてこ舞いになりそうだったんだ。要するにそれくらい相坂さんの笑顔はトラブルの元だということ。
ところで、そうして始まった2学期のはじめに、僕はとっても不思議な不思議な先輩と出会ったんだ。
突然だけれど、僕はその先輩に話しかけられた。
それはあまりにも意外な場所でのことだったから、僕はこの先輩との話のことを、あまり僕以外のひとには話すことができない。はじめに、七倉さんがなんとなく忙しそうだと確認したことも、相坂さんが周りのひとを近づけないような態度に戻ってしまったことを感じ取ったのも、それは僕がふたりに助けを求めることができないという言いわけをするためのようなものだった。
女の子の問題なら、女の子に質問すればいいんだけれど、今回はそれをなるべく避けたいと思う。
なぜならば、僕と先輩が初めて出会ったのは、僕自身の部屋の中だったんだ。
だから、この先輩に関する手がかりもまた、僕の部屋を起点として、そう広い範囲に散らばっていることはないということは大前提としておきたい。僕がいつも何気なく起居している部屋のことは、後でもういちど確かめるとしても、おそらくここ数ヶ月の間で大きく変わったわけではないと思う。
……ううん、それは正しくないかもしれない。この部屋の様子が変わる原因がふたつあった。
ひとつは、僕がこの4月から県立久良川高校に通う高校1年生だということ。
もうひとつは、僕がこの3月に亡くなった祖父の跡を継いで――正式には後継者というわけではないけれど、少なくとも僕の身の回りでは、祖父の跡を継いだ者に起こりうる、不思議な出来事の数々が起こっていること。
もちろん、物事の根本は後者にあるに決まっていた。それは現実には信じられないような出来事だったから。それに、先輩本人が言っていることでもあったんだ。
それでも、僕は先輩との邂逅を驚愕をもって自己問答せずにはいられない。少なくとも、僕がこうして自分自身で前置きしたくなるくらい、それは僕にとってびっくりするような出来事だったんだ。
***
それは僕がちょうど2学期のはじめの1週間を終える日のことだった。とにかくその日のことを整理すると、授業はごく普段どおりに行われたし、行き帰りに不自然なことが起こったわけでもない。
僕の身の回りのひとはといえば、河原崎くんはいつもどおり表情の読めない顔をして僕との雑談に興じていてし、七倉さんは女子の輪の中心にいたけれど、それでもなんとなく多忙そうだったので行き帰りが一緒になることもなかった。ちなみに、相坂さんは不景気そうな表情をしながら僕のところに愚痴を言いに来た。なんでも、新学期が始まったのに仕事が忙しいとかで。
外の天気はとても良かった。この年の夏空はちっとも秋の気配を見せなかった。朝晩は涼しくなったようにも思えたけれどそれだけで、昼間に外出するなんてもってのほかだった。だから、僕はこの日も朝から夕方まで高校から一歩も外に出なかったし、放課後になると自転車を飛ばして家に帰った。寄り道なんかもしていない。七倉さんは車で先に帰ってしまったし(運転手はもちろん親戚の京香さんだ)相坂さんも駅まで急いだみたいだ。
「こんにちは」
自宅の部屋に戻った僕は、制服のネクタイを外したところでのんびりとした声をかけられた。僕がいつも聞いているどの声とも違っていた。とても落ち着いていて、少し掠れているようにも思えるくらいだった。
「こんにちは」
僕はくるりと上半身を捩った。
そこには、見たこともないような制服を着た、髪の長い女のひとが正座していた。年の頃は僕よりも1、2歳上だと思う。制服を着ているけれども確実に年上だと思ったから。けれども、もし制服を着ていなければ僕は大学生か、もっと上だと考えたかもしれない。
落ち着いていて、そしてどこか儚げな印象のある女性だった。
髪の一本一本が糸みたいに細くて、それが白と臙脂色の制服にかかっている。目はすこうし細くて、鼻梁もあまり強調されていない、唇の色も肌の色も薄くて、ともすると不健康そうにも思えるくらいだった。
でも、綺麗な先輩だった。
僕はネクタイにかけた手を慌てて離すと、そのまま一歩、二歩と後ずさった。
「だっ、だ、誰ですかっ」
先輩はスローモーションみたいな緩慢な動作で首を傾げてから、小さな子供に対してするような、とても無防備な微笑をつくった。
「こんにちは、聡太さん」
先輩は立ち上がる様子を見せなかった。なんだか脚に根が生えているんじゃ亡いかと思うくらい、そこに馴染んでしまっていた。もちろん、僕はもうこのとき、ふつうじゃないな、とは思っていたんだけれど。
「ええと、私のことは……好きなようにお呼びください」
僕はいきなり困ってしまった。誰だと聞いて、こんなふうに答えるひとなんて見たことがない。ただ、その女のひとは、僕が困っていることに気づいたらしく、しばらくしてこう付け加えてくれた。
「じゃあ、琴野辺……って、呼んでください」
「琴野辺先輩ですか?」




