あれ何?
桃の店を出てから、舞子はよく窓の外を見るようになった。
昨日までは、バンドばかり見ていた。
今はほとんど見ていない。
「あ」
「なに?」
「あれ何?」
俊は前を見たまま聞いた。
「どれ?」
「右。赤いやつ」
「分かんない」
「大きいよ」
「見えない」
「もう過ぎた」
「じゃあ無理だね」
舞子は振り返っている。
「戻ろうよ」
「また?」
「だって気になる」
「何かも分かんないのに?」
「だから気になるの」
俊は笑った。
「舞子、変わったね」
「何が?」
「前だったら調べてた」
舞子が腕を見る。
「調べる?」
「どっちでもいい」
少し考えて、舞子は言った。
「戻ろう」
俊は次の交差点を曲がった。
*
赤いものは、大きな牛だった。
店の屋根の上に乗っている。
「牛だ」
「牛だね」
二人で見上げた。
「なんで?」
「分かんない」
入口には、
〈乳製品直売〉
と書いてあった。
舞子が俊を見る。
「入る?」
「牛がいるから?」
「関係ある?」
「あるでしょ」
何の関係があるのか、俊には分からなかった。
店へ入った。
冷蔵ケースに瓶が並んでいた。
舞子が一本取る。
「牛乳」
「知ってるよ」
「瓶だよ」
「そこ?」
「だって瓶に入ってる」
舞子は嬉しそうだった。
俊も一本取った。
外にベンチがあった。
二人で座る。
舞子が蓋を開けようとした。
「あれ?」
開かない。
俊が受け取った。
「貸して」
「できる?」
「たぶん」
できなかった。
店の中から女性が出てきた。
「そこ、引っ張るの」
「ここ?」
「そうそう」
舞子が開けた。
「開いた!」
「そんな喜ぶこと?」
「俊、開けられなかったじゃん」
「舞子もね」
瓶を傾けた。
舞子が一気に飲む。
「おいしい」
俊も飲んだ。
冷たい。
「うん」
「さっき桃食べたのにね」
「牛乳は別でしょ」
「何が?」
「分かんない」
最近、そればかりだった。
*
また走った。
十分もしないうちに舞子が言った。
「あれ何?」
「今度は何?」
「でっかい塔」
「調べる?」
「行ける?」
「聞いてみる」
俊がバンドに尋ねる。
経路が出た。
「十五分」
「行こう」
「仙台、遠くなるよ」
「今日中に行かなきゃダメ?」
俊は答えようとして、やめた。
別に、ダメではない。
「行こう」
「やった」
舞子が笑った。
俊も少し楽しくなってきた。
*
塔は、ただの展望塔だった。
上まで上がった。
風が強かった。
舞子の髪が顔にかかる。
「すごい!」
舞子が柵まで走った。
「舞子、危ないよ」
「俊、来て!」
俊も行った。
遠くまで見えた。
山。
町。
畑。
自分たちが走ってきた道。
プリウスは駐車場で小さくなっていた。
舞子が指をさす。
「あっちから来たんだよね」
「たぶん」
「東京は?」
俊はバンドを見る。
舞子が腕をつかんだ。
「見ないで」
「なんで?」
「当てよう」
「分かるわけないよ」
「こっち」
舞子が指をさした。
「絶対?」
「たぶん」
「じゃあ俺、あっち」
「全然違うじゃん」
二人で笑った。
結局、どちらが東京なのか確認しなかった。
風が吹いた。
舞子の髪がまた俊の顔に当たった。
「舞子、髪」
「風に言って」
俊は髪をよけた。
昨日なら、それだけで緊張した。
今日は少し違った。
そのまま舞子の手を握った。
舞子が俊を見る。
俊も見る。
「なに?」
「別に」
舞子は手を離さなかった。
そのまま景色を見た。
少しして、
ピー。
どちらかのバンドが鳴った。
「どっち?」
舞子が聞いた。
「分かんない」
「まあいいか」
「うん」
もう確認もしなかった。
*
展望塔を出たのは、予定よりずっと遅かった。
車に戻って、俊が経路を確認する。
「仙台、まだ結構ある」
「何時に着く?」
「このまま行けば――」
舞子が窓の外を見た。
「あ」
俊は嫌な予感がした。
「なに?」
「あれ」
道路の反対側に小さな看板があった。
〈温泉 この先三キロ〉
俊も見た。
舞子が言う。
「温泉だって」
「知ってるよ」
「入ったことある?」
「バーチャルなら」
「私も」
二人は顔を見合わせた。
舞子が笑った。
「行ってみたい」
俊も笑った。
「行こう」
車は仙台とは違う方向へ曲がった。
*
温泉には、人がいた。
それだけで二人には珍しかった。
受付に年配の男性が座っている。
「二人?」
「はい」
「風呂だけ?」
俊と舞子は顔を見合わせた。
「風呂だけって?」
男性が俊を見る。
「泊まるの?」
「泊まれるんですか?」
「宿だからね」
知らなかった。
舞子が俊の袖を引いた。
小さな声で言う。
「泊まる?」
「仙台は?」
「明日でよくない?」
俊は時刻を見る。
それから舞子を見る。
「いいの?」
「俊は?」
俊は少し考えた。
「俺も、ここ泊まってみたい」
舞子が笑った。
「じゃあ決まり」
受付の男性が聞いた。
「一部屋でいい?」
「はい」
二人同時に答えた。
そして、二人同時に顔を見合わせた。
昨日とは違う。
今日は、自分たちで一部屋を選んだ。
*
部屋に荷物を置いた。
舞子が窓を開けた。
山の匂いが入ってきた。
舞子が荷物を開けた。
「お風呂、何持ってけばいいんだろ」
「バンドに聞く?」
「それくらい自分で考える」
タオルを出して、着替えを出す。
舞子は浴衣を見つけた。
「これ着るのかな」
「たぶん」
「じゃあ着替えいらない?」
「知らない」
「俊、なんにも知らないね」
「舞子もでしょ」
「私は今、考えてるの」
舞子は荷物をベッドの上に広げた。
その横で、俊も自分の荷物を整理する。
見慣れないものがあった。
小さく畳まれている。
俊は手に取った。
「舞子、これなに?」
舞子が振り返った。
「あ!」
俊の手から奪った。
「それ見ちゃだめ!」
「なんで?」
「私の下着!」
俊が固まった。
舞子も固まった。
「あ、ああ」
「もう!」
「そうなんだ。ごめん」
「なんで触るの!」
「何か分からなかったから」
「分からなくても触らないでよ!」
「でも俺の荷物の横にあったから」
「さっき出したの!」
舞子は下着を荷物の奥へ押し込んだ。
顔が赤い。
俊も急に恥ずかしくなった。
「ごめん」
「もういい」
「怒った?」
「怒ってない」
「怒ってるじゃん」
「恥ずかしいの!」
俊は黙った。
それは少し分かる気がした。
舞子が荷物を閉じる。
「お風呂行ってくる」
「うん」
舞子は立ち上がった。
ドアまで行って、振り返る。
「俊」
「なに?」
「私がお風呂入ってる間、荷物触らないでね」
「触らないよ」
「絶対だよ」
「うん」
舞子が出ていった。
俊は一人になった。
さっきのことを思い出した。
別に、ただの布だった。
それなのに妙に落ち着かない。
ピー。
バンドが鳴った。
俊は腕を見た。
「今?」
誰もいない部屋で、一人で恥ずかしくなった。
*
風呂から戻った舞子は、浴衣に着替えていた。
俊は一瞬、舞子を見た。
「なに?」
「いや」
「また変なこと考えてる?」
「考えてないよ」
「ほんと?」
「ほんと」
舞子は俊の隣に座った。
少しして、言った。
「ねえ」
「なに?」
「朝のやつ」
「朝?」
「ほら。ぎゅってしたやつ」
「ああ」
舞子は前を向いたまま言った。
「もう一回して」
俊は舞子を見た。
「いいの?」
「聞かないで。恥ずかしくなるから」
俊は舞子を抱いた。
今度は、朝よりゆっくりだった。
舞子も俊の背中に腕を回した。
ピー。
「また鳴った」
「もういいよ」
舞子は離れなかった。
俊も離さなかった。




