眠れるなら、それでいい
朝が二度目に来た時、草原はもう「昨夜の跡」ではなかった。
驚きはまだある。
でも、昨日の朝ほど鋭くはない。
驚いたまま立ち尽くすのではなく、驚きの隣に座れるくらいには、世界が少しだけ落ち着いていた。
相沢悠は、草原の低い斜面に座っていた。
風が通る。
草が擦れる。
空が高い。
その全部が、妙にちょうどいい。
「……やっぱり寝やすいですね、ここ」
ぽつりと言うと、少し離れた場所にいたMUSEが肩を落とした。
「世界変わった翌日の感想がそれなんだよなあ……」
「だって本当にそうですし」
悠は真顔で言った。
「座るだけで分かりますよ。落ちやすい感じがするというか」
白ローブの一群が、また危うい方向にざわつく。
MINAが即座に切る。
「そこ宗教的に拾うな」
ORACLEが口を開きかけたところで、MUSEが先に言った。
「書くな」
ORACLEは傷ついた顔をしたが、今日は手帳を開かなかった。
草原の外縁には、昨日までとは違う静けさがあった。
近づきすぎる者はいない。
大声を出す者もいない。
運営NPCも、上位勢も、白ローブたちも、みんな少しずつ距離の取り方を覚え始めている。
それが今の草原の秩序だった。
「それで」
悠は草を指でいじりながら言った。
「結局、どうなるんですか、ここ」
MINAはすぐには答えず、草原の入り口の方を指した。
白い制服の公式案内NPC。
その横に立つ、上位管理NPC。
謝るために作られたみたいな硬い顔。
頭上の公式ウィンドウは、昨日より長かった。
```text id="p40r1"
Official Statement
We acknowledge that the containment and subjugation operation has failed.
We also acknowledge that the affected area can no longer be treated as a standard combat event field.
From this point onward, the area will be redesignated as a restricted coexistence zone.
Forced intrusion, aggressive contact, and unauthorized system intervention are prohibited.
We apologize for the damage, confusion, and operational failures caused to all players.
```
悠はその文面を読んで、少しだけ首を傾げた。
「……失敗って、ちゃんと言ったんですね」
MUSEが低く口笛を吹く。
「うん。わりと全面的に」
「共存区域……」
悠がその言葉を繰り返す。
MINAが補足した。
「討伐は諦めたってこと」
「管理不能を認めたうえで、近づきすぎない、刺激しない、でも切り捨てもしない」
「そういう方向」
MUSEが横から口を挟む。
「要するに、“触ると壊れるから丁重に扱おう”ってことだな」
「雑だけど、だいたい合ってる」
MINAが言った。
悠は少し考えた。
「それ、わりと普通の人間関係でもありますね」
MUSEが吹く。
MINAも、ほんの少しだけ口元を動かす。
「あるね」
「かなり厄介な相手への対応としては、かなり普通」
「厄介なの僕ですか」
「今そこ突っ込む?」
MUSEが言う。
「いやまあ、そうなんだけどさ」
悠は草原を見回した。
静かだ。
人はいる。
白ローブもいる。
運営NPCも遠くにいる。
でももう、昨日みたいな包囲の息苦しさはない。
それは少しだけ楽だった。
「仕事は」
今度は現実の話をする。
MINAは即答した。
「戻らなくていい」
「少なくとも今すぐは」
「休職は通ってるし、会社側も今は強く出られない」
「鬼塚さんは」
「かなり静かになった」
MINAが言う。
「人を倒した直後って、みんな静かになるから」
その言い方に、悠は少しだけ苦笑した。
「僕、別に復讐したかったわけじゃないんですけど」
「知ってる」
MINAは言う。
「休みたかっただけでしょ」
「はい」
「なら、それで十分」
その返しは、やけにまっすぐだった。
少し黙ってから、悠は言った。
「……最後のやつ」
「全部は言えない、って言ってましたよね」
風が一度、草原を横切る。
白ローブたちも少し静かになる。
今度は、MINAも逃げなかった。
「全部は、今も分からない」
彼女はゆっくり言った。
「でも、分かってるところまでは話す」
悠は黙って聞いた。
「まず、NOX」
MINAは草原の奥を見たまま言う。
「完全な別人格じゃない」
「たぶん、“あんたの眠りたい”と、睡眠モードが持ってた保護機能が、深いところで噛み合ってる」
悠の指が止まる。
MINAは続けた。
「NEOSPHEREの睡眠モードって、もともとは初心者が安全に休むための機能だったはず」
「特に草原みたいな初期エリアには、そのための保護権限が残ってた」
「普通はただの補助で終わる。安全域が少し強くなるとか、その程度」
「でも、僕は違った」
「違った」
MINAは頷く。
「あんたはずっと眠れてなかった」
「眠りたいのに眠れないまま、ずっと削れてた」
「その状態で、やっと深く落ちた」
悠は草を見たまま、小さく息を吐く。
「その瞬間」
MINAは言う。
「あんたの『邪魔するな』『寝かせて』って本音と、その保護機能が一つになった」
「それが、みんながNOXって呼んでたもの」
MUSEが横で、珍しく口を挟まなかった。
ORACLEも、今日はメモより先に聞いている。
悠は少しだけ困った顔をする。
「じゃあ……」
「僕が、やってたんですか」
「“わざと”じゃない」
MINAはすぐ言った。
「そこは違う」
「でも、無関係でもない」
その言い方は厳しかった。
でも、ごまかしていなかった。
「NOXは、あんたから完全に切り離された別人じゃない」
「でも、起きてるあんたが意識して操作してたわけでもない」
「深い睡眠に入った時だけ動く、“睡眠防衛態”みたいなもの」
「私はそう見てる」
悠は眉を寄せた。
「……睡眠防衛態」
「名前は今つけた」
MINAは言った。
「でも意味はそれで合ってるはず」
少しだけ、草原に風が通る。
「じゃあ、なんで運営は負けたんですか」
悠は今度はそこを聞いた。
「相手、運営ですよね」
MINAは頷いた。
「そこも大事」
「NOXが“敵として強いボス”だから勝ったんじゃない」
「先に、場所の意味を変えたから」
悠は黙る。
MINAは草原の地形を指す。
「運営の封印も討伐イベントも、前提は全部“戦場”だった」
「敵がいて、味方がいて、戦闘判定が立って、進入禁止線が引けて、終了条件が管理できる」
「でも、あの夜は途中からもう戦場じゃなかった」
「寝床だった」
MUSEが小さく言った。
「そう」
MINAは続ける。
「NOXは敵を倒す前に、周囲を“眠りを邪魔するものが成立しない領域”へ変えた」
「だから封印も隔離もイベント終了も、全部前提から崩れた」
「戦闘イベントの権限より、休息領域としての保護権限の方が上に出た」
「少なくとも、運営はそう扱われた」
悠は少しだけ寒くなった。
自分の眠りたい、が。
それだけが。
討伐イベントの前提そのものを壊した。
「だから草原がこうなったんですか」
悠は静かに聞く。
MINAは頷いた。
「壊したっていうより、寄せたんだと思う」
「眠れる形に」
「風の通り方も、草の沈み方も、窪地の位置も、全部」
「あんたが一番落ちやすい条件に、地形ごと再構成された」
悠は、もう一度草原を見た。
確かにそうだった。
ここは、自分の欲しかった条件に寄りすぎている。
静かで、
柔らかくて、
起こされにくくて、
座るだけで落ちやすい。
「……迷惑すぎません?」
本気でそう言った。
MUSEが吹き出した。
VARGAが口元を押さえた。
ORACLEですら、今日は小さく笑った。
MINAも、少し遅れて笑う。
「かなり」
「でも、あんたは最初から最後まで、ただ眠りたかっただけでしょ」
悠は草を見た。
「……うん」
「なら、今はそれでいい」
MINAは言う。
「全部を理屈で閉じるのは後でもいい」
「でも、“結局何だったのか”だけ言うなら、そういうこと」
悠は長く黙った。
自分が全部やった、と言われたら重すぎた。
完全に別人でした、と言われても納得できなかった。
今の説明は、その中間にあった。
自分の本音が根にある。
でも、自分の意識ではない。
自分の眠りたい、が動かした。
でも、わざとではない。
そのくらいが、今の自分にはちょうどよかった。
「……そっか」
短く出た。
その時、白ローブたちが少し離れた場所で、新しい看板を立て始めた。
木の板だ。
妙に丁寧な字で書かれている。
「静穏維持区域」
その下に小さく、
「大声・戦闘・無断侵入 禁止」
さらにその下に、もっと小さく、
「睡眠を妨げる行為は厳罰」
悠はそれを見て、思わず言った。
「厳罰って何ですか」
ORACLEが少しだけ誇らしげに答える。
「まだ未定です」
「未定なのに書いたの!?」
「抑止力は先に必要ですので」
MINAが額を押さえる。
MUSEは腹を抱える。
VARGAは止めない。
SABLEも止めない。
たぶん、もうこのあたりは止まらないのだろう。
闇ギルドは、討伐軍を迎え撃つ組織から、静けさを守る自治組織みたいなものへ変わり始めていた。
必要悪、というより、必要そのものに近い。
それを見ながら、悠は少しだけ思う。
世界は、やっぱり戻らない。
でも、戻らないなら戻らないなりの形ができるのかもしれない。
「……前よりは、悪くないです」
MINAがその言葉を聞いて、少しだけこちらを見る。
「前よりは、って」
「基準低くない?」
「だって、前は会社ありましたし」
それを聞いて、MUSEが吹き出した。
MINAも、耐えきれず少しだけ笑った。
笑い声はすぐ草原の風に溶ける。
その小ささが、今はちょうどよかった。
夜。
草原は、昼よりさらに静かになる。
でももう、怖い静けさではない。
眠る前の静けさだ。
悠は、昨日と同じ場所に腰を下ろした。
白ローブの列は、今日は少し遠い。
運営NPCも距離を取っている。
MINAは相変わらず三歩先だ。
MUSEたちはその外側。
新しい秩序が、少しずつ出来始めていた。
「で」
悠が言う。
「これからも、こうなんですかね」
「たぶん」
MINAが答える。
「前と同じには戻らない」
「でも、そのぶん別のやり方を作るしかない」
「別のやり方」
「そう」
「眠れるように」
その一言で、答えは十分だった。
前と同じ生活には戻らないかもしれない。
普通の初心者プレイヤーにも戻らないかもしれない。
会社員にも、すぐには戻らない。
でも、眠れる生活には行けるかもしれない。
それなら、今はそれでいい気がした。
悠は少しだけ目を閉じる。
「……全部は分からないですけど」
「うん」
「でも、悪くないです」
「今のところ」
MINAは少しだけ黙って、それから言った。
「全部は分からなくていい」
「今は、眠れるならそれでいい」
その言葉は、最初から最後まで、この話にいちばん似合っていた。
悠は小さく笑う。
「じゃあ」
「それでいきます」
草原に風が吹く。
静かで、起こさない風だった。
少し離れたところで、MUSEが小声で言う。
「……今の、締めっぽくなかった?」
ORACLEが即答する。
「締めです」
「書くな」
MINAが言う。
でも今日は少しだけ遅かった。
ORACLEはもう手帳を開いていた。
悠はその気配を聞きながら、目を閉じる。
全部は分からない。
でも、眠れる。
それで十分だと思えた。
「……おやすみなさい」
誰に向けたのか、自分でも少し分からなかった。
でも、それでよかった。
今夜は返事がなくても、不安じゃない。
返事がなくても、ここに静けさがあると知っているからだ。
草原の上に、また一つ夜が落ちる。
今度の夜は、誰かを壊すためではなく、ただ眠るための夜だった。
その静けさの中で、新しい日常が、ようやく始まった。
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NEOSPHERE ONLINE 匿名掲示板:初心者草原総合 Part 70
`1901:` 今日、草原静かだな
`1905:` 昨日と違って戦闘音ゼロ
`1909:` 運営の共存宣言出たし、もう来ないだろ
`1913:` 上位連合も撤収完了
`1917:` ASTERが「また来る理由ができたら来る」って言ってた
`1921:` かっこいいけど理由ないだろもう
`1925:` ないな
`1929:` ECLIPSEの看板見た?
`1933:` 「睡眠を妨げる行為は厳罰」ってやつ
`1937:` 厳罰の中身未定で草
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`1945:` いや今回は草でいいだろ
`1949:` 草原だけにな
`1953:` …………
`1957:` で、初心者は
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`1969:` 今日も
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`1977:` 怖い、じゃなくない? もう
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`1985:` 知らん。でも怖いとは違う
`1989:` おやすみ、じゃね
`1993:` おやすみ
`1997:` おやすみ
`2001:` ――おやすみ
(了)




