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朝の地形


朝、相沢悠は、何もないところから浮かび上がるみたいに目を開けた。


しばらく、天井を見ていた。


白すぎない天井。

見慣れていない部屋。

遮光カーテンの隙間から、薄い朝の光が一本だけ入っている。


そこでようやく思い出す。


ああ、昨日は会社へ行かなくてよくなった。

昨日はこの部屋で寝た。

昨日は――その先の記憶が、妙に静かだった。


夢を見たかどうかも分からない。

覚えているのは、深かった、という感覚だけだった。


「……あ」


小さく声が出た。


身体が軽い。


目の奥が痛くない。

首の後ろも重くない。

喉も乾いていない。

起き上がっても、頭がちゃんとついてくる。


それだけのことが、自分にはほとんど奇跡みたいだった。


立ち上がる。

視界が遅れない。

足元が遠くならない。


眠れた朝、ってこういうことなんだ、と思った。


部屋の隅を見る。


椅子に座ったまま、一条美奈が寝ていた。


寝ている、というより、途中で意識が落ちた感じだった。

腕の位置が半端だ。

首も少し傾いている。

たぶん、ちゃんと寝ていない。


ずっと起きていたのだろう。

守ると言って、一人で寝るなと言って、その通りここにいた。


悠はその姿を見て、少しだけ申し訳なくなった。

でもその申し訳なさは、昨日までの“全部自分が悪い”みたいな重さではなかった。


ただ、普通に申し訳ない、だった。


床が小さく鳴る。


美奈がすぐ目を開けた。

起きるのが早い。

それだけで、昨夜ずっと気を張っていたのが分かる。


彼女は一瞬だけ、ここがどこか思い出す顔をして、それから悠を見た。


「……どう」


その二文字が、夜の続きみたいだった。


悠は少し考えてから答えた。


「すごいです」


美奈が眉を上げる。


「何が」


「寝た感じがします」

「ちゃんと」


言ったあと、自分で変だと思った。

でも、他に言いようがなかった。


美奈は一瞬だけ黙って、それから肩の力を抜いた。


「そっか」


その二文字だけだった。

でも、そこにあった安堵は大きかった。


「……よかった」


今度は、ちゃんとそう言った。


悠は少しだけ視線を落とした。

誰かに「よかった」と言われるような眠りを、自分がした。

それが少し、不思議だった。


「ありがとうございます」


言うと、美奈は少しだけ遅れて返した。


「まだ早い」

「ゲーム見てからにして」


その言い方で、昨夜がまだ終わっていないことを思い出す。


深く眠った。

その先で、何かが起きた。


悠は小さく言う。


「……怖いですね」


美奈は否定しなかった。


「うん」

「でも、見た方がいい」


それもそうだった。

見ないままにするには、昨夜は静かすぎた。


ログインした瞬間、最初に見えたのは空だった。


草原の空。

見慣れているはずの、初心者エリアの朝の青。


でも、その青の下にあるものが、見たことのない形をしていた。


悠は、その場でしばらく動けなかった。


草原が、違った。


広い。

静かだ。

でも、昨日までの“ただの初心者草原”ではない。


起伏が変わっている。

地面の線そのものが変わっている。


なだらかに落ちる斜面。

風が通る低い窪み。

踏むと柔らかいのに沈みすぎない草地。

視界を遮りすぎず、でも落ち着く位置にだけ置かれている石。


戦場の跡じゃない。

崩壊の跡でもない。


妙に、綺麗だった。


「……何これ」


本気でそう言った。


その声と同時に、周囲にいたプレイヤーたちが一斉にこちらを見る。

いや、見るというより、最初から見ていた。


距離を取って並んでいる。

白ローブの列。

跪いている者。

頭を下げたまま動かない者。

泣いている者までいる。


数が多い。

昨日までより、明らかに多い。


MUSEが一番先に走ってきて、それから五歩手前で止まった。

止まったあと、止まった自分に一回びっくりして、それから深く息を吐く。


「……おはよう、マスター」


その声が、いつもよりずっと小さかった。


悠は思わず返す。


「おはようございます……?」


語尾が上がった。

仕方がなかった。


目の前の草原が知らない場所すぎる。

周りの人数も多すぎる。

しかも全員、朝から感情が重すぎる。


「何ですかこれ」


悠は周囲を見回した。


「運営のイベント演出、すごくないですか」


その一言で、白ローブの一群がざわめく。

ざわめくというより、感極まる方向へぶれる。


「演出」

「やはり……」

「神は……」


「神ではない」


MINAが即座に切った。

でもその声も少しだけ掠れていた。


彼女は三歩先に立っていた。

昨夜と同じ距離だ。

でも顔だけが少し違う。


疲れている。

寝ていない。

それでも今、ちゃんと立っている。


悠はその顔を見て、少しだけ現実味が戻る。


「何か、あったんですよね」


小さく聞く。


MINAは少しだけ黙った。

それから、答えを選ぶみたいにゆっくり言った。


「かなり」

「大きく」


その言い方が逆に怖かった。


MUSEが横から口を挟む。


「かなりとか大きくとか、そういうレベルかなあもう……」

「いやでも、今はそれくらいしか言えないんだよな……」


VARGAが近づく。

いつも通り短い。

でも今朝の短さは、少しだけ重い。


「討伐軍は崩れた」

「運営も止まった」

「ここは残った」


三つだけだった。

でも、その三つで十分すぎた。


討伐軍は崩れた。

運営も止まった。

ここは残った。


その情報を頭の中で並べた時、悠は初めて少しだけ寒くなった。


自分は寝ていた。

寝ていただけだ。

その間に、討伐軍と運営が止まった。


悠はもう一度、草原を見た。


整えられている。

眠れる形の方へ。

しかも、あまりにも自分の都合に寄りすぎていた。


静かで、

座りやすくて、

風がちょうどよくて、

起こされにくそうで、


まるで、自分の欲しかった条件だけを地形にしたみたいだった。


「……僕」


小さく出た。


「僕、何かやりました?」


今度は、ちゃんと最後まで言えた。


その問いに、周囲が一斉に黙る。


MUSEが口を開きかけて閉じる。

ORACLEは視線を落とす。

VARGAは答えない。

SABLEも答えない。


MINAだけが、少しだけ目を細めた。


答えは持っている。

でも、今ここで全部は渡さない。

そういう顔だった。


「全部はまだ言えない」

彼女はゆっくり言った。

「でも」

そこで一度だけ息を吸う。

「少なくとも、あんたが思ってるより大きいことは起きた」


その答えは、不親切なようで、今の悠にはちょうどよかった。


全部を聞いたら、たぶん今は壊れる。

聞かないままにするには、もう景色が違いすぎる。


だから、“思ってるより大きい”くらいがちょうどいい。


その時、視界の端にNPCが見えた。


運営側の制服を着た公式案内NPC。

いつもなら初心者に導線を出すだけの、表情の薄い存在。


それが今朝は、草原の入り口で深く頭を下げたまま固まっていた。


頭上には運営メッセージの窓が出ている。


```text id="unwq4m"

Official Notice


We are currently confirming a large-scale terrain anomaly and event failure.

We apologize for the inconvenience caused to all players.

Please refrain from forced entry into the affected area.

```


「謝ってる……」


悠が小さく言う。


MUSEが乾いた笑いを漏らす。


「うん」

「わりと全面的に」


「いやでも、イベント失敗って普通、もっと派手じゃないですか」

「爆発とか、討伐失敗ムービーとか……」


「そういう失敗じゃないんだよなあ……」


MUSEが遠い目をした。


それは何となく分かった。


派手に失敗した跡ではない。

綺麗に失敗している。

綺麗すぎて、逆に怖い。


悠は草原の先へ少しだけ歩いた。


白ローブたちが道を開ける。

開け方まで前より整っている。

参道みたいで嫌だった。


「普通に歩きづらいんですけど……」


ぽつりと言うと、列の何人かが本気で青ざめた。

MUSEが慌てて叫ぶ。


「引け!」

「神――じゃない、マスターの導線塞ぐな!」


「今、言い直したよね?」

MINAが睨む。


「ギリギリで戻しただろ!」


そのやり取りが少しだけいつも通りで、悠はようやく少しだけ息をつけた。


少し先の草地に腰を下ろす。


驚くほど、座りやすい。


草の長さ。

地面の柔らかさ。

風の抜け方。


全部がちょうどいい。


「……うわ」


思わず漏れる。


「ここ、めちゃくちゃ寝やすそう」


白ローブの後方で、何人かが泣いた。


「何で泣くんですか」


悠が本気で引く。


ORACLEが、とうとう小さく口を開く。


「主の御心が、地に――」


「書くな」


今度はMINAとMUSEが同時に言った。


ORACLEは本当に傷ついた顔をした。

でも今日は手帳を開かない。


悠はその様子を見ながら、もう一度だけ草原を見た。


ここはもう、初心者草原ではない。

でも、完全に別マップになったわけでもない。

面影はある。

あるのに、意味だけが変わっている。


「……戻れない感じ、ありますね」


その言葉は、半分独り言だった。


MINAの喉が小さく動く。

MUSEが笑いそうになって、笑えない顔をする。

VARGAは何も言わない。


戻れない。

たぶんそうだ。

昨夜で、何かは戻らないところまで来た。


でも、その“戻れない”に昨日までのような絶望はなかった。


眠れたからかもしれない。

ちゃんと寝た後だと、人は少しだけ違うことを考えられる。


戻れない。

でも、今ここで立っていられる。

息もできる。

頭も回る。

明日、会社へ行かなくていい。


その条件の方が、今は大きかった。


「……まあ」


悠は小さく言う。


「眠れるなら、ちょっと考えます」


その答えに、MINAがほんの少しだけ笑った。


ほんの少しだけだった。

でも、昨夜から初めて見た顔だった。


「うん」

彼女は短く答える。

「それでいい」


草原を渡る風が、静かに吹いた。


戦場だったはずの場所に、朝の風が吹いている。

誰も戦っていない。

誰も叫んでいない。

ただ、寝やすい草原が広がっている。


それが今朝のいちばん異様な光景だった。


---


NEOSPHERE ONLINE 速報 / World Feed


```text id="zrmu2h"

08:02 初期村草原一帯で大規模地形変化を確認

08:04 公式討伐イベント「ECLIPSE封鎖」進行不能を確認

08:07 運営、対象エリアへの強制侵入を控えるよう告知

08:10 現地プレイヤー報告「戦場ではなく休息地形に近い」

08:13 上位連合の一部、撤収を開始

08:19 掲示板トレンド1位「草原の王、世界を書き換えた?」

08:23 掲示板トレンド2位「運営の謝罪NPC」

08:27 掲示板トレンド3位「寝やすそう」

```


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