北の目覚め 第46話
早朝の空気はまだ冷えていた。
園内は静かで、朝霧が低く残っている。
ゴリムは園長室の前で立ち止まった。
小さな手が、扉の前で止まる。
深く息を吸う。
――コン、コン。
遠慮がちな音。
中から低い声が返る。
「入れ」
扉をゆっくり開ける。
ゴリムは一歩だけ中へ入り、
すぐに背筋を伸ばした。
園長は机に向かったまま、視線だけを上げる。
「何の用だ」
ゴリムの喉が鳴る。
「サイレント・ウィスパーの捕獲……」
言葉が途切れる。
拳が、わずかに握られる。
園長の目が細くなる。
「捕獲出来たのか?」
沈黙。
ゴリムは首を横に振る。
「捕獲……まだ……」
視線を落とす。
「見に来て」
小さく、だがはっきりと。
園長の眉がわずかに動く。
「わしに見に来て欲しいのか?」
「はい」
頭を下げる。
もう一度。
さらにもう一度。
不器用な礼。
園長はしばらく黙ったままゴリムを見る。
やがて椅子にもたれ直し、短く言う。
「朝飯食べてから行こう」
ゴリムの肩が、わずかに落ちる。
「……ありがとう……」
その声は、少しだけ軽くなっていた。
朝食が終わり、食堂のざわめきが落ち着く頃。
園長は湯飲みを置き、立ち上がった。
廊下へ出ると、少し離れた場所で待っていたゴリムに近づく。
「それじゃあ〜行こうとするか」
その一言で、ゴリムの背筋が伸びる。
だが次の瞬間、何かを思い出したように慌てる。
両手で丸を作り、目の前に当てる。
ぐい、と顔に押しつける仕草。
「……双・眼・鏡……」
区切るように、慎重に。
あらかじめ教わった通りに。
園長は一瞬だけ無言で見つめ、やがて頷く。
「ああ〜双眼鏡がいるのか?」
ゴリムの顔が明るくなる。
「そうそう」
何度も頭を下げる。
園長は小さく笑い、踵を返す。
「待っとれ」
自室へ戻り、棚の奥から双眼鏡を取り出す。
革紐を肩にかけ直し、再び廊下へ。
「よし、行くぞ」
ゴリムが大きく頷く。
二人は園を出て、森へ向かう。
朝の光が木々の間を縫う。
足元の霜がまだ溶けきらず、静かな空気が続く。
ゴリムは迷いなく進む。
やがて、森の奥にある大きな岩場へ辿り着く。
巨岩の陰に身を滑り込ませ、ゴリムが振り返る。
再び両手で丸を作り、目に当てる。
「ここで見て……」
小声。
園長が周囲を一瞥する。
「ここから見てれば良いのか?」
「はい」
深く頭を下げる。
森は、まだ静かだった。
岩陰に身を伏せてから、しばらくは何も起きなかった。
森は静かで、ただ水の落ちる音だけが遠くに響いている。
その時だった。
ゴリムの気配が、ふっと変わる。
園長は双眼鏡を構えたまま、わずかに眉をひそめた。
「……何だこの感覚は……」
目には見えている。
岩陰にしゃがむ、あの小さな背中。
だが――
存在の“重み”が薄れる。
気配が、抜ける。
まるでそこにいないかのような感覚が、背筋を撫でた。
風もないのに、空気が一枚剥がれ落ちる。
園長が戸惑う、その一瞬。
ゴリムは動いた。
音がない。
枝も鳴らない。
地面も踏み鳴らさない。
気づけば、姿はもう岩陰を離れている。
「……もうあんなとこまで……」
双眼鏡を追わせる。
信じ難い距離だ。
さっきまで目の前にいたはずの巨体が、
森の奥へと溶け込んでいる。
小さな背が、影になっていく。
静かな森に、ただの木立の一つのように混ざる。
やがて、岩のくぼみに湧き水が溜まる場所へ辿り着く。
双眼鏡越しに、はっきりと見える。
サイレント・ウィスパー。
何事もなかったように、水を飲んでいる。
首を傾け、羽を整え、細い脚で石を踏む。
逃げない。
警戒しない。
「まじか……」
思わず、園長の口から声が漏れた。
一羽が、ふわりと飛ぶ。
そして――
ゴリムの肩に止まる。
その体に。
小さな手のすぐ傍に。ゴリムは動かない。
呼吸すら感じさせない。
捕まえようと思えば、捕まえられる距離だ。
両手で包めば、それで終わる。
だが、動かない。微動だにしない。
サイレント・ウィスパーは、あまりにもか弱い。
細い骨。軽い体。
強く握れば、それだけで壊れる。
ゴリムは知っている。
だから躊躇った。
捕まえれば、傷付けるかもしれない。
捕まえれば、死なせてしまうかもしれない。
その恐れが、指先を止めている。
鳥はしばらく肩に止まり、やがて水場へ戻る。
ゴリムは、まだ動かない。
森の中で、ただ一つの“気配のない体”が
静かに立っていた。
ーーーーー
しばらくすると、水場の空気が変わった。
最初に異変を見せたのは
サイレント・ウィスパーたちだった。
一羽が顔を上げる。
もう一羽が羽を震わせる。
次の瞬間、ばらばらに飛び立った。
一斉ではない。
だが、確実に同じ方向を見ている。
森の空に、無数の小さな影が現れる。
サイレント・ウィスパーに似た影。
だが数が異様だ。
次には、さらに大きな鳥たちが枝を蹴り、
低い唸りを上げて空へ舞い上がる。
羽音が重なり、森の天井がざわめく。
静かだった森に、目に見えない圧が広がっていく。
園長は双眼鏡を上げ、空を追った。
「何だあれは……」
黒い影が、層をなして流れている。
ただ逃げているのではない。
押し出されている。その時だった。
足元で小さな砂利が鳴る。
「……園長!」
振り向くと、すぐ傍にゴリムが立っていた。
気配がない、いつ戻ったのか分からない。
「おおぉ」
園長が我に返り、双眼鏡を下ろす。
ゴリムの目は森の奥を見ている。
「園長、帰る。何か来る!」
声は低いが、迷いがない。
その直後、森の奥からざわめきが押し寄せる。
枝が揺れ、落ち葉が跳ねる。
小さな影が走る。
リスが飛び出し、
野兎が駆け抜け、
地を這う小動物までが一斉に移動している。
足音が重なる、近づいてくる。
森そのものが、逃げているように。
空も、地も、同じ方向を向いていた。
幹をかすめ、根を越え、園長とゴリムは迷わず園へ向かう。
背後で森がざわめき始める。枝が揺れ、落ち葉が逆巻く。
何かに追われるように、小さな影が次々と走り抜ける。
森そのものが怯えている。
その頃、園の上空を巡回していたシルヴァが
風の流れの変化を捉えた。北の空の一点が、わずかに歪んでいる。
目を凝らすと、黒い点が一直線にこちらへ向かっているのが分かる。
小さかった影が、瞬く間に輪郭を持つ。
雲の縁が裂ける、大きすぎる。
「翼だ!」
シルヴァが叫ぶ。
シルヴァは高度を上げ、空を裂くように鳴いた。
その声は鋭く、園へ向けて落ちる。
旋回しながら距離を取り、影を見失わない。
角馬場では木剣の音が響いていた。
クルツの号令に合わせてニコが踏み込み、ガルドとクレイグが見守る。
その空気を、上空からの鳴き声が断ち切った。
全員が顔を上げる。
北の空に黒点。
瞬きの間に大きくなる。
門の方から地を蹴る音が近づき、園長とゴリムが飛び込んできた。
息は荒いが、言葉は短い。
「森が、消えた」
それだけで十分だった。
クレイグの目が細まり、クルツの指が剣を強く握る。
空が暗くなる。巨大な翼が太陽を横切り、影が角馬場を覆う。
風が落ち、土が震える。影は上空をゆっくり旋回し、外縁へと降りていく。
着地の衝撃が地面を揺らし、黒き巨翼が広がった。
「アンズー!」
クルツが叫ぶ。
シルヴァは上空で旋回を続け、距離を保つ。
アンズーは建物には近づかず、角馬場の外に立ったまま翼を半ば広げる。
低い声が落ちた。
「北が、揺れた」
ニコが息を整え、通訳する。
森と空の異変が、ひとつの言葉に結ばれる。
園長が前へ出る。木剣が地に置かれ、自然と円ができる。
「カイチを呼べ!」
「はい!」
クルツが返事をし、走り出そうとしたその瞬間。
「呼ばずとも来ている」
静かな声とともに、カイチが姿を現す。
「何の用だ!」
カイチがアンズーに問う。
アンズーは睨みつけるように言う。
「北が目覚める」
空気がさらに重くなる。
カイチの目が細くなる。
「……古き災いが目覚めるのか?」
「そうだ。まだ幼い。だがいずれ白極の巨神となる」
「……巨神……」
園長から言葉が漏れる。
(……神話は、本当の話なのか……)
クルツがニコを見る。
「ニコ。白極の巨神って何なのか、聞いてくれ」
ニコがアンズーへ向き直る。
「白極の巨神って、何なのですか?」
アンズーが息を整え、語ろうとしたその時。
「待て。――我が話そう」
カイチが声を挟む。
全員の視線が集まる。
「白極の巨神とは、壊れた秩序をただす存在だ。名は――」
一拍。
「アルケオス」
その名が落ちる。
「この世界の“増えすぎた力”を止める存在だ」
静寂が広がる。
カイチは続ける。
「おそらく、魔獣王が討たれたのが引き金だろう」
アンズーが低く補足する。
「討たれたこと自体が問題ではない。次の王が生まれれば済む話だ」
視線が鋭くなる。
「だが今、魔獣王は存在しない。人間が魔獣の王に君臨している」
風が止まる。
「人間は魔獣の王にはなれても、魔獣王にはなれない」
その言葉が、角馬場に沈む。
園長が呟いた。
「神話は……本当だったんだな……」
空の重みが、確かに増していた。
第46話
北の目覚め
最後までお読みいただきありがとうございます!
前半のゴリムと園長の静かで心温まる森の観察シーンから一転
後半は森の異変、そしてアンズーの飛来と
一気に物語が動き出しました。ゴリムの不器用で優しい一面
伝わりましたでしょうか?
そしてついに語られた神話の存在「白極の巨神アルケオス」。
人間が魔獣の王に君臨していることが引き金だというアンズーの言葉……。
これがニコたちにどのような試練をもたらすのか
これからの展開もぜひ楽しみにしていてくださいね。
いつも読んでくださり、本当にありがとうございます。
もし「これからの展開が気になる!」「ゴリムの優しさにほっこりした」など
少しでも楽しんでいただけましたらページ下部から
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