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空に消える点 第34話

園長室を出た瞬間、ゴリムは廊下の空気がやけに冷たく感じた。

胸の奥は熱いのに、足元が落ち着かない。


――その代わり、お前は斥候の真似事をしろ。

――サイレント・ウィスパーを、素手で、無傷で捕まえて来い。

――午前中の仕事は免除する


「……午前だけ免除、ねぇ」


楽になるはずの言葉が、妙に重い。

いつもなら朝から汗をかいて、体を動かして、腹を空かせて

――考え事なんて途中で消える。

だが今日は、考える時間が残る。いや、残りすぎる。


(どこにいる)

(臆病な鳥だ。人の気配がある場所には居ない)

(霧の出る渓谷……静かな森……)


頭の中で森を組み立てながら歩いていると、喉の渇きに気づいた。

口の中が乾いて、舌が張り付く。


「……喉、渇いたな」


考えながら歩くと息が浅くなる。

ゴリムは舌打ちし、園の外れにある小さな水場の方へ向かった。

職員が美味しい水を求めて桶で水を汲みにくる

岩のくぼみに湧き水が溜まる場所だ。


木々の影が濃くなり、湿った土の匂いが増す。

やがて滴る水音が聞こえた。


水場。


ゴリムは膝をつき、手で水を掬った。

冷たい水が喉を滑ると、張り詰めていたものが少しだけほどける。


「……生き返る」


もう一口飲み、岩に腰を下ろす。

滴の音が一定の間隔で続き、葉の擦れる音が遠くで揺れる。


(……ここなら、静かだ)


背を木に預けた瞬間、瞼が重くなった。

午前中の仕事が無いからといって、身体が休まったわけじゃない。

昨日までの疲れが、今になって押し寄せる。


うとうと。

うとうと。


落ちそうで落ちない浅い眠り。

呼吸だけが森と同じ速さになる。

ゴリムは動かない。動けない。

ただ、そこに“寝ている塊”として存在する。


――ぽたり。


水が落ちる音が、一つ近く聞こえた。


水面が、ふわりと揺れる。


小さな影が、石の縁に降りた。

羽音は、ほとんどない。

霧に溶ける淡い色が、目を凝らしてようやく形になる。


……サイレント・ウィスパー……


首を細かく動かし、周囲を確かめる。

すぐ近くにゴリムがいるのに近づくのは、ゴリムが動いていないからだ。

呼吸も深く、規則正しく、森の一部みたいに静かだ。


ウィスパーは一歩、また一歩。

慎重に水へ寄り、嘴を水面へ近づける。


飲む。


その瞬間、ゴリムの意識がふっと浮上した。

瞼の裏に、園長の言葉が蘇る。


(……ああ、そうか)


(こいつが来る場所は……水だ)


声に出さず、頭の中でだけ確信した。

「どこにいる」ではない。

「どこに来る」だ。


だが――


喉の奥が反射で動いた。


――ごく。


唾を飲み込む、ほんの微かな音。


それだけで、世界が反転した。


サイレント・ウィスパーの首が跳ねる。

目が鋭くなり、身体がふっと浮いた。


ゴリムは目を開けた。

開けた瞬間、鳥と目が合った気がした。


ふわり。

音もなく、羽ばたきもほとんどなく。


次の瞬間には、ぐん、と高く――高く。

霧を抜け、木々の上を越え、空へ溶けていく。


見えるのは、小さな点。

飛び立つ姿だけが、空に小さく点が残り、すぐ消えた。


「……唾の音で……?」


掌から水が落ちる。

静けさだけが戻る。


悔しさが喉元まで来たが、ゴリムは声を出さなかった。

声を出せば、もう二度と寄らない気がした。


(……捕まえる以前だ)

(近づけねぇ)


次の日から、ゴリムは森を歩いた。

しかし姿は見えない。

見えないまま、ある瞬間だけ“点”が上がる。

空へ抜ける小さな点。

それが、サイレント・ウィスパーが居た証拠だった。


(……百メートル以内に入っただけで逃げてる)


距離を測れるほど見えていない。

だが分かる。

こちらが“近づく気配”を出しただけで、点が上がる。

姿すら見えない遠さなのに。


「……百メートルも無理かよ」


ゴリムは歯を噛み、足元を見た。

枯れ葉。小枝。乾いた土。

踏めば鳴る。擦れば鳴る。

自分の体重が、そのまま音になる。


(音だ)

(俺の足が、森に喧嘩売ってる)


ゴリムは“歩き方”を作り直した。


足を上げない。

踏み込まない。

置く。


踵から乗らない。

足の外側から、そっと。

体重を一気に落とさず、地面の感触を確かめながら移す。


最初は遅い。

遅いのに音が出る。


――ザッ。

――カサ。

――パキ。


苛立ちが湧く。

だが声を出したら終わる。

ゴリムは黙って繰り返した。


土の上なら少し静かに歩ける。

湿った苔の上なら音はほぼ消える。

枯れ葉の帯は避ける。小枝は踏む前に見つける。


何日も続けるうちに、ゴリムは足の裏が変わっているのに気づいた。

重い身体を運んでいるのに、音が減る。

むしろ、その重さが“静けさ”に変わっていく。


柔らかい。

踏んだ瞬間に地面へ“吸い付く”みたいに沈み、衝撃をそのまま飲み込む。

土の粒、苔の湿り、枯れ葉の薄さ――それを足裏が先に受け止めて

音になる前に消してしまう。


(……ニコの足みたいだ……)


衝撃を殺し、音を殺すための、柔らかい厚み。

踏みしめても鳴らない“間”ができていく。


同時に感覚も鋭くなった。

小枝がある場所はわかる。

枯れ葉の重なりも、音が出る帯も、踏む前にわかる。


(……感覚が研ぎ澄まされ……感じる)

(どこが鳴るか、分かるようになってる)


そして、確かに距離が縮んだ。


飛び立つ“点”が、前より少しだけ大きく見える日が出てきた。

逃げる瞬間が、少しだけ遅れる日が出てきた。


(……近づける)


だが、また新しい壁にぶつかる。


同じように歩いているのに、

ある日は詰められて、ある日は早く逃げられる。


「……なんだよ、これ」


音は抑えている。

足も鳴らしていない。

なのに距離が違う。

姿は見えない。ただ“点”が上がるタイミングが違うだけだ。


ゴリムは立ち止まり、頬に当たる空気を感じた。

葉の揺れ方、霧の流れ方、肌を撫でる冷たさ。


(……風か)


風上から近づくと、自分の匂いが先に流れて逃げられる。

風下から近づくと、少しだけ詰められる。


何度も試して、確信になる。


(匂い……?)


風に乗って、自分の匂いが先に届いている。

鳥は目で見て逃げる前に、“俺がいる”と分かっている。


ゴリムは自分の腕を嗅いだ。

汗。園の匂い。食堂の油。鉄の匂い。

人や魔獣と一緒に過ごす匂いが、いくつも染みついている。


「……そりゃ逃げるわ」


その日のうちに、ゴリムは渓谷の方へ向かった。

霧の奥、滝の音が低く響く。


白い飛沫が舞い、岩肌が濡れて黒い。

滝は冷たく、容赦なく落ちている。


ゴリムは靴を脱ぎ捨て、服も最低限まで外した。

そして滝壺の浅いところへ踏み込む。


「……っ、冷てぇ!」


声が出ても滝音に飲まれる。

ゴリムは腕を、肩を、首を、何度も水で擦った。

汗と匂いを落とす。耳の裏まで洗う。髪も濡らす。


(匂いを消す)

(俺を森の“異物”じゃなくす)


滝の冷たさが頭を冴えさせる。

胸の奥の焦りが少しだけ洗い流されていく。


ゴリムは滝から上がり、岩の上で息を吐いた。

濡れた身体から湯気が立つ。

森の匂いが、少しだけ自分に馴染んだ気がした。


「……次は、風上からだ……

風下から近づいて、匂いを逃がしてちゃ意味がない。」


ゴリムは拳を握る。


「音は殺して……匂いも消して……」


まだ捕まえてはいない。

だが、確かに前に進んでいる。


ゴリムは濡れたまま森へ戻った。

次に空へ点が上がる時――それが今までより近い場所であることを、信じながら。


第34話「空に消える点」は、戦う物語ではなく

――“戦い方を学ぶ物語”でした。

剣を握れば強くなれるわけではない。走れば追いつけるわけでもない。

臆病なサイレント・ウィスパーは、その事実を容赦なく突きつけてきます。


ゴリムが最初に掴んだのは、鳥そのものではなく「場所」でした。

“どこにいる”ではなく、“どこに来る”。

水場での一瞬が、彼に斥候の考え方を刻み込みます。

けれど、次の瞬間――唾を飲む音だけで点が空へ消える。

その小さな出来事が、ゴリムの世界を変えました。


今回描きたかったのは、「力の大きさ」が通用しない場面で、

ゴリムが自分の身体を“作り替えていく”過程です。

足音を消すために歩き方を変え、足裏の感覚が変わり、

重い身体そのものが“静けさ”へ寄っていく。

それは強くなるというより、世界に合わせるという進化でした。


そして、その変化の中でゴリムがふと重ねた

「ニコの足みたいだ」という感覚。


風向きで近づける距離が変わる描写も、

“見えないものが勝敗を決める”斥候の世界を象徴しています。

音、匂い、呼吸、そして一瞬の迷い。剣の稽古とは別の場所で

ゴリムは確かに「戦うための目」を手に入れ始めました。


まだ捕まえられていない。でも、もう始まっています。

空に消える点をただ眺めていた男が、

点が消える理由を一つずつ潰し、次の一歩を作っている。


次は、きっと――

“点”が消える前に、こちらの手が届く距離へ。

ゴリムの静けさが、森の静けさを越える瞬間を描いていきます。


お読み頂きありがとうございます。

次回も楽しみ下さい。

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