ゴリムの心の内 第32話
角馬場の砂が、ばさっ、ばさっと跳ねた。
ハスキーは低い姿勢のまま、地面を舐めるように加速する。
爪が砂を掻き、尾が旗のように振られ、耳はぴんと立ったまま
――獲物を追う時の本気の目だ。
「ウォンッ!」
吠え声一つで、空気が切り替わる。
ヒッポスは「え、また?」という顔で首を振り
のそのそと逃げる。逃げると言っても
本気で走れば敵ではないのだ。
ヒッポスは、あえて全力では走らず
角馬場の端へ、端へと追い詰められないように
――大きく弧を描いて歩く。
ハスキーはその動きに合わせて回り込み、斜め前へ、斜め前へと詰める。
砂が舞う。
蹄が鳴る。
鼻息が、ぶわっと白く広がる。
「こらぁーハスキー! ヒッポスに怪我させたらご飯抜きだからなぁ〜」
ニコの声が飛ぶと、ハスキーは一瞬だけ振り返った。
だが、視線はすぐ戻る。獲物は目の前だ。
ヒッポスはついに「もういいだろ」とでも言うように
ぴたりと立ち止まり――大きな体を揺らしながら
ゆっくりニコたちの方へ向き直った。
その瞬間。
ハスキーは、追うのをやめた。
ぴたり、と止まる。次いで、ちょこちょこと小走りになり
ニコの足元まで戻ってくる。
舌を出して、息をはぁはぁと吐きながら
それでも胸を張って見上げてくる。
(……完全に、僕がボス扱いだ……)
ニコが小さく頷くと、ハスキーは満足そうに尻尾を振った。
まるで「命令待ち」の兵士のように、その場で座る。
――何事もなかったように、稽古が終わるのを大人しく待ち始めた。
「みんな木剣に振り回されることは無くなったな。」
「はい! ありがとうございます。」
ニコたちは軽く頭を下げて、そろってお礼を言った。
「まだ一割にも届いてないからな。気を抜くなよ。」
「………」
返事を呑み込んだのは、否定できなかったからだ。
握り方、振り下ろし、足運び。形は整ってきた。
でも、クルツの一太刀を見ていると
――あれは別の生き物みたいだ……
しばらくして、今日の稽古が終了した。
この頃になると、ふらふらになることは無くなったが
疲れは相変わらずである……
ニコは今になって、なぜ園長が午前中だけと言ったか理解した。
「この状態では午後も修行しろと、もし言われたら無理ですよね〜」
「ほんと……そうだな……」
クレイグが、肯定するように言った。
「……」
ガルドは、うんうんと頭を下げている。
ゆっくりと食堂に向かって歩き始めた。
ーーーー
食堂の扉を押し開けると、熱と匂いが一気に押し寄せた。
煮込みの甘い香り、焼けた油の匂い、パンの香ばしさ。
食器が触れ合う乾いた音と、誰かの笑い声。
午前の修行帰りの身体に、その空気はやけに優しく感じた。
「うわぁ……生き返りますね……」
ニコがほっと息を漏らす
クレイグが料理をテーブルに置き肩を回して椅子に腰を落とす。
「修行の後の飯は、なんでこう……旨いんだろうな」
ガルドも無言で頷き、椅子を引く音を立てて座る。
そこへ。
隣のテーブルから声が聞こえた。
「おう、帰ったか」
声の主は、先に食堂に入っていたゴリムだった。
いつもなら真っ先に“飯!”と叫びそうな男が、今日は妙に静かだ。
大きな腕を組み、壁際の席にどっしりと座っている。
ニコは気づく。
ゴリムの前には、まだ湯気の立つ皿があるのに――
食事を取っていない。
視線は卓上ではなく
食堂の奥、窓の外の方向――角馬場のある方へ向いていた。
「ゴリムさん、もう来てたんですか?」
「ああ……腹減ってたからな」
ぶっきらぼうに返す。
声はいつも通りだ。
でも、目だけが少し違う。笑っていない。
クレイグが気軽に言った。
「どうだ、こっちの修行。見てたか? だいぶ形になってきたぞ」
「へぇ……そうかよ」
ゴリムは鼻で笑った。
笑った“ふり”だけして、すぐに視線を逸らす。
――その動きが、ニコには刺さった。
(……見てたよね……)
ニコは食堂の窓からこっちを見ている
ゴリムに気づいていた。
ゴリムは自分の席から離れない。
修行の場に来ていないのに、耳だけは、心だけは
ずっと角馬場に置いてきたみたいだった。
ガルドが、
「ゴリム、食べないのか」
「食う。あとで」
短く言い切る。
強い口調。いつもの“ゴリムらしさ”で、押し返す。
でも。
その“強さ”は、誰かを威圧するためじゃない。
自分の胸の奥が見えないように、蓋をしているだけだ。
ニコは水を注ぎに行くふりをして、ゴリムの横に回った。
背中が今日は、少しだけ寂しそうに見える。
「……ゴリムさん」
小さく呼ぶと、ゴリムは一瞬だけ肩を跳ねさせた。
「なんだよ」
「さっき……角馬場、見てましたよね」
「見てねぇよ」
即答。速すぎる。
否定が先に飛び出したせいで、逆に“見てた”のがバレてしまう。
クレイグが「ん?」と顔を上げたが、ニコは視線で止めた。
ガルドも、黙って皿を寄せるだけで口を挟まない。
ゴリムは、くいっと水を飲み干して、わざとらしく喉を鳴らした。
「別に……気になるわけじゃねぇし。
お前らが木剣振ってるの見たって、俺の腹が減るだけだ」
そう言って、ようやくフォークを取る。
だが、持っただけで動かない。
皿の中の肉に、フォークの先が触れて止まる。
その沈黙が、痛い。
ニコは、椅子の背に手を置いて、ゆっくり言った。
「……本当は、参加したいんですよね」
ゴリムの息が、ぴたりと止まった。
「はぁ?」
声が強い。
けれど、その強さは、怒りじゃなくて――焦りだ。
「俺が? 修行に? はっ、無理だろ。
見てわかんだろ、俺の体格……木剣なんか振れないよ……」
「僕だってゴリムさんとあまり変わりませんよ。」
「……俺はさ、そういうの……向いてねぇんだよ」
言葉は“諦め”の形をしていた。
でも、指先は震えている。
フォークを握る力が強すぎて、木がきしむ。
(向いてない、じゃない)
(向いてなくても、やりたいんだ)
「やれば出来ると思いますよ。
園長に僕がお願いしてみますよ。」
「……」
その言葉が、胸の奥に刺さったみたいに
ゴリムは息を止めた。
口を開きかけて、閉じる。
ぐっと奥歯を噛み、顔を横に向ける。
「……やめてくれ……」
強がりの声。
でも、フォークは――ようやく動いた。
肉を一口に運ぶ。
噛むたびに、肩の力が少しずつ抜けていく。
クレイグが、わざと明るく言った。
「じゃあさ、ゴリム。修行は無理でも、別の役割頼むわ」
「は? 役割?」
ガルドが、静かに続けた。
「俺たちの振り方を見ていて
何か気づいたことがあったら言ってくれ。
クルツさんの言ってることはなんとなくわかるんだが
お前の意見も聞きたい。」
ゴリムはフォークを止めた。
「……俺が……」
「お前は目がいいし、頭も切れる。」
ガルドの言い方は不器用だが、嘘がない。
ゴリムはそれに弱い。
ニコも頷く。
「ゴリムさんはすごいです。力だけじゃなくて
コツを見つけるのも早いし、器用ですし
教えるのも上手い、みんなの“先生役”だと思うんです。」
ゴリムの喉が鳴った。
照れ隠しみたいに、また肉を口に放り込む。
「……勝手に決めんな」
「嫌ですか?」
「……嫌じゃねぇよ」
小さな声だった。
それでも、ゴリムの口元は――ほんの少しだけ緩んでいた。
寂しさを隠すための強がりが、ほんの少しだけ、外れた瞬間だった。
食堂の喧騒が戻る。
皿の上の湯気が揺れる。
窓の外からは、角馬場の風が遠くに感じられる。
ゴリムは、誰にも見えないように深く息を吐き
料理に向き直った。
「ゴリムさんご飯はしっかり食べてくださいよ。」
「……」
ゴリムは返事をしなかった。
ただ、いつもより少し早いペースで、黙々と食べ始めた。
覚悟を決めた男の目で……
ーーーー
ゴリムは何も言わない。
言わないまま、皿の最後の一口まで平らげ、立ち上がり、椅子を戻した。
その動きがやけに丁寧だったのが、逆に分かりやすい。
(……決めたんだ)
ニコたちの視線を感じても、ゴリムは振り返らない。
ただ、背中を見せたまま――食堂の外へ出ていく。
廊下は静かだった。
床板が軋む音がやけに響く。
ゴリムの歩幅は大きい。いつも通り。
けれど、その足取りには、どこか“隠す”硬さがあった。
二階へ向かう階段。
ゴリムは一段、また一段と上がるたびに、肩を少しだけ強張らせる。
誰かに見られていないか、背中の皮膚が気になる。
けれど、止まらない。
二階の廊下の突き当たり。
園長室の扉。
そこだけ空気が違う。
木の香りが濃く、静けさが重い。
まるで、扉の向こうに“森”があるみたいに
気配が潜んでいる。
ゴリムは扉の前で立ち止まった。
(……言うだけだ。言うだけ……)
拳を握る。
汗ばんだ掌が、ぎゅっと鳴るほど力が入る。
コン、コン。
叩く音は思ったより小さかった。
喉が鳴る。もう一度、息を吸い直す。
「……入れ」
低い声が返ってきた。
ゴリムは扉を開けた。
園長室は、相変わらず必要な物だけが整然と並んでいた。
机、椅子、地図、武器の手入れ用の布。
そして、机の向こう――椅子に深く座る男。
園長。
ヴァルド・フェルナ。
視線だけで、人を測る目。
「……なんだ」
ゴリムは一歩だけ入って、扉を閉めた。
その瞬間、逃げ道も塞がった気がした。
「園長……」
俺に敬語は無理だ…
出せない。出したら、喉の奥で詰まって
言いたいことが伝わらない…
ゴリムはぐっと腹に力を入れた。
「俺も……修行に参加させてくれ!」
言った瞬間、自分の声がやけに大きく聞こえた。
園長は眉ひとつ動かさない。
「無理だ」
即答。
「……っ」
ゴリムの奥歯が鳴った。
強がりが、今にも割れそうになる。
「……なんでだよ。俺だって……俺だって……!」
園長は椅子の背にもたれ、指先で机を一度だけ叩いた。
「お前は体格も体力も、あいつらより劣る。
今の稽古は“根性”じゃ埋まらん差が出る。
木剣を振るだけで終わりじゃない。
踏み込み、止まり、切り返し、また踏む。
その回数に、お前の身体が先に潰れる」
「……俺が、潰れるってのかよ」
「潰れる。無理に付いて来れば、動きが遅れて周りの足を引っ張り
怪我につながる。――それが一番危険だ」
「……」
園長の視線が、一瞬だけ柔らいだ……気がした。
そして、その次の瞬間、園長はふっと目を細める。
(そういえば……)
園長の脳裏をよぎったのは
――こいつは、ニコに名前を付けてもらっている。
「……ゴリム」
園長が、短く名を呼ぶ。
ゴリムの背筋が反射で伸びた。
「お前を“剣”に混ぜるのは難しい
だが……斥候なら使えるかもしれん」
「斥候……?」
「見て、聞いて、戻る仕事だ。
お前は目がいい。鼻も利く。足も速い。
それを“戦い方”に変えろ」
ゴリムは机を見た。園長の目を見た。
それだけで、喉が乾く。
「……やる」
園長は少しだけ口角を上げた。笑ったのではない。
“試す”顔だ。
「よし。条件がある」
「条件?」
園長は机の上の地図を指でなぞり、森の一角を示した。
霧の出る渓谷へ続く、静かな森。
「ウィスパーを捕まえて来い」
「……鳥?」
(正式名称はサイレント・ウィスパー。
一般のスズメより一回り小さい。握り拳ほど。希少種)
園長の声は落ち着いている。
だが、その言葉の端に、わざとらしい難しさが混じっている。
「捕まえるのは簡単じゃねぇだろそんな鳥……」
「簡単ではない。臆病で、音に敏い。
鳴き声がするところに危険な生物はいないと言われるほど臆病だ。
つまり、近づけば逃げる」
ゴリムは眉を寄せた。
「……じゃあ、どうしろってんだ」
園長は、そこで一拍置いた。
「素手で。無傷で。連れて来い」
「……は?」
言葉が抜けた。
“素手”“無傷”――条件が二つも増えたようなものだ。
「怪我をさせるな。羽を折るな。怯えさせて潰すな。
“捕まえる”だけだ」
ゴリムは喉を鳴らし、拳を握り直した。
(無理だろ、これ……)
だが同時に、胸の奥が熱くなる。
“無理”と言われて終わるより、
“無理そうな命令”を突きつけられる方が、まだいい。
「……わかった」
園長は視線を外さずに言った。
「お前がそれを出来たら、修行の輪に入れる道は作ってやる。
出来なければ……今まで通りだ」
「……やる」
園長の目が、ほんの僅かに鋭くなる。
「行け」
ゴリムは踵を返し、扉に手をかけた。
開ける直前、園長が低く付け足す。
「――一つだけ覚えとけ。
斥候は“勇気”より“静けさ”だ。
力で勝たなくていい、臆病なのは、むしろ強みだ。」
「……静けさ、ねぇ」
ゴリムは小さく呟き、扉を開けた。
廊下の空気が、やけに軽い。
(見てろよ、園長)
(俺だって……やれば、出来る)
ゴリムは階段を下りながら、知らず知らずのうちに歩幅が速くなっていた。
その背中を、園長は扉の隙間から見ていた。
(……ニコの名付けの力がどんなものか……)
園長の内心は冷たく、静かだった。
“試す”ための静けさ。
(名が、どこまで“進化”を運ぶのか……)
その答えを、園長は――ゴリムの手で見ようとしていた。
第32話
「ゴリムの心の内」を、お読み頂きありがとうございました。
今回は、剣の稽古そのものよりも
――その稽古の外側にいる者の心を描きました。
前に立てる者だけが戦っているわけではなく
輪の外にいる者もまた、別の形で戦っている。
ゴリムの「参加できない寂しさ」は、弱さではなく
“仲間を想う強さ”の裏返しです。
そしてもう一つ。
園長が提示した課題は、単なる試練ではありません。
サイレント・ウィスパーは、力でねじ伏せられる相手ではなく
静けさと観察と、相手の世界に“溶ける”ことでしか近づけない存在です。
ここで必要なのは剣の腕ではなく、斥候としての“生き方”――呼吸を沈め
足音を消し、風を読む感覚です。
ゴリムが変わろうとしているのは、技術だけではありません。
「見られたくない」「知られたくない」強がりを抱えたまま
それでも一歩だけ前へ進む。その姿を、私は“勇気”と呼びたいと思います。
声を上げる勇気ではなく、誰にも見られない場所で自分を削り続ける勇気です。
園長の内心にある「名付けの力を見極めたい」思いが
「今回の重要な軸でした。」
この世界では“名”がただの呼び名ではなく、存在の輪郭を変え
進化へと繋がる――その可能性がある。
園長は善意だけで動く人物ではなく、必要なら冷静に試す。
その現実があるからこそ、ニコの名付けが持つ意味も
より重く響くのだと思います。
次は、ゴリムが「静けさ」を身にまとっていく時間。
足の裏の感覚、風向き、匂い――小さな差が大きな結果を生む世界に
彼が踏み込んでいきます。剣ではなく、“気配”で勝つ。
その一歩が、ゴリム自身の居場所を作っていくはずです。




