ざわめく呼び声 第13話
ニコの時間は、止まっていた。
恐れが、心を支配している。
思考は、完全に停止していた。
――どれくらい、そうしていただろう。
やがて。
やさしい呼び声が、凍りついた心を引き戻す。
「ニコ……ニコくん」
「……はっ」
視界が、ゆっくりと戻る。
「大丈夫かい?」
ベルモットの声だった。
「ぼ、僕は……」
言葉が、うまく出てこない。
「落ち着きなさい」
静かだが、確かな声。
ニコは言われるまま、深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
胸の鼓動が、少しずつ落ち着いていく。
ベルモットは、すぐには話さなかった。
一拍置いてから、穏やかに口を開く。
「ニコくん。安心して、聞きなさい」
紅茶のカップを、そっとテーブルに置く音。
「私にはね――異世界人の知り合いがいたんだ」
ニコの指先が、ぴくりと動いた。
「この紅茶の淹れ方も、その人に教わった」
言葉の一つ一つが、胸に落ちてくる。
だが、ニコは口を挟めない。
ただ、聞いていることしかできなかった。
「長い付き合いでね」
ベルモットは、少し遠くを見るような目をする。
「私がまだ助手をしながら、勉強していた頃からの友人だよ」
静かな回想。
「その頃、師匠の仕事に同行して、このフェルナに来たことがある」
「……この宿にも、泊まった」
ニコの喉が、小さく鳴った。
ようやく、言葉を発する余裕が戻ってくる。
恐る恐る、尋ねた。
「……い、今……その方は、どちらに……?」
ベルモットは、すぐには答えなかった。
ただ、静かに紅茶を見つめていた。
「……もう、亡くなっている」
ベルモットは、そう静かに告げた。
ニコの肩が、わずかに落ちる。
「ニコくんも、知っていると思うが……サンさんの旦那さんだよ」
その瞬間。
ニコの頭の中で、アレンの話が一本に繋がった。
(……あの時の……)
ベルモットは、淡々と語り始める。
「13年ほど前のことだと思う」
紅茶の表面が、わずかに揺れた。
「ある剣士が、魔獣を引き連れて、この宿を襲撃した」
ニコは息を呑む。
「その頃、その剣士は……人を殺し続けていた」
「だから、国から通達が出ていたんだ」
ベルモットの声は低い。
「――見かけ次第、注意せよ、と」
「全土に、な」
「その時、ギルドから派遣されたのが……」
一拍。
「今の、園長だよ」
(……そんなことが)
ニコは、心の中で呟いた。
ベルモットは、少し視線を落とす。
「私は、その現場に居合わせた」
「……今でも、忘れられない」
指先が、カップをなぞる。
「不思議な光景だった」
「……え?」
ニコは、思わず声を漏らす。
ベルモットは、一度、息を吸った。
「泣いていたんだよ」
静かな声。
「その剣士が」
ニコの目が、見開かれる。
「……泣いて、いた?」
「そうだ」
ベルモットは、はっきりと繰り返す。
「泣いていたんだ」
少し間を置いて、続ける。
「私は仕事柄、人が泣く場面を何度も見てきた」
「恐怖で泣く人」
「後悔で泣く人」
「失う前に泣く人」
「だが……」
言葉が、わずかに詰まる。
「その剣士は、殺す相手を前にして、泣いていた」
ニコの胸が、ざわつく。
「その姿が……」
ベルモットは、目を伏せた。
「家族と別れる時の涙と、重なって見えた」
「……心が、揺れたよ」
沈黙が落ちる。
ニコは、しばらくしてから、静かに尋ねた。
「……他の皆さんは、ご無事だったんですか?」
「ああ」
ベルモットは頷く。
「その男は、それ以上、誰も殺してはいない」
「それどころか」
視線を上げる。
「暴れる魔獣たちにも、こう命じていた」
「――絶対に、殺すな」
ニコの背筋に、冷たいものが走った。
「……」
「そして」
ベルモットは、ゆっくりと言った。
「それから数年後」
「ここは、魔獣園になった」
その言葉は、偶然とは思えない重さを持っていた。
「園長はその時守れなっかた事をいまでも悔やんでいる
だから冒険者を辞めてここの園長になったんだろうな。」
ニコは、ゆっくりと息を吐いた。
その時、守れなかった命があったのだろう。
助けられなかった誰か。
救えなかった何か。
だから――。
先生と園長は
(ここに、残った……)
守る側に立つことを選び、
もう二度と、目の前の命を見捨てないために。
ニコは、そう思った。
そして、胸の奥が、少しだけ温かくなる。
(……この場所は)
(贖いであり、祈りなんだ)
ベルモットは、ニコの表情を見て、何も言わなかった。
ただ、静かに紅茶を一口含む。
その沈黙が、
答えそのもののように感じられた。
この回では、
かつてこの地に現れた「謎の剣士」が語られました。
魔獣を従えながらも、
無差別に殺すことはせず、
むしろ「殺すな」と命じていた存在。
そして、泣いていた剣士。
ベルモットはその場に立ち会い、
医師としてではなく、
一人の人間として心を揺さぶられました。
理解できない光景だからこそ、
今も忘れられず、心に奥に秘めています。
園長もまた、
その事件を「守れなかった記憶」として抱えています。
討伐の成否ではなく、
救えなかった命。
その悔いが、
彼を冒険者ではなく、
この魔獣園の園長にしたのでしょう。
剣士の正体も、
魔獣が統率されていた理由も、
まだ明かされていません。
ただ一つ――
この世界には、
善と悪だけでは語れない真実がある。
それだけが、静かに示された回でした。




