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静かな誘い 第12話

いつものように、ニコはゴリムとガルドに起こされた。


「起きろ」

「朝だぞ」


頭の上から落ちてくる、容赦のない声。


「……うぅ」


返事にならない声を漏らしながら、ニコは体を起こす。

目は半分も開いていない。


ニコは、朝が苦手だった。


廊下に出ても、足取りは覚束ない。

虚ろな目のまま、流れに身を任せるように歩く。


やがて、皆が整列している場所へと合流した。


視線の先には、いつもの光景――

だが、どこか違う。


崩落事故のあった鉱山の採掘は、今も止まったままだ。


代わりに、魔獣と人間の大集団が畑へと向かう準備をしている。


飼育員は二名。


そのうちの一人が、ニコに近づいてきた。


アレンだ。


彼は、周囲を気にするように視線を巡らせてから、ニコの耳元に顔を寄せた。


「ニコ、今日はお前は来なくていい」


「……え?」


一気に目が覚める。


「お、俺、首ですか?」


「早まるな」


アレンは即座に否定した。


「違う。ベルモット先生のご指名だ」


「……え?」


思わず、聞き返してしまう。


「医療室に行けってさ」


胸の奥に、わずかな不安が広がる。


(……何か、重大事か?)


だが、指示は指示だ。


「……分かりました」


ニコは頷き、皆とは逆方向へと歩き出した。



医療室の前に立ち、ニコは一度深呼吸をする。


そして、ノックした。


コン、コン。


「……はい」


中から、女性の声が返ってくる。


「すぐ行きますので、少し待ってもらっていいですか?」


足音と、器具の触れ合う音。


どうやら忙しそうだ。


(……大丈夫かな)


不安が、じわりと膨らむ。


やがて。


ガチャ、と音を立ててドアが開いた。


「すみません、お待たせしました」


現れたのは、白衣姿の女性だった。


「どうぞ、お入りください」


穏やかな笑顔。


「私は助手のエルナです」


柔らかな声だった。


「私はニコと申します」


「ニコさんどうぞ、こちらへ」


エルナに促され、ニコは医療室の奥へと進む。


――その瞬間、思わず足を止めた。


「……?」


そこにあったのは、医療室とは思えない光景だった。


丸いテーブル。

白いクロス。

繊細な装飾の施されたティーセット。


どこか、西洋の小さなお茶会を思わせる空間。


(……なんだ、ここ)


消毒薬の匂いはほとんどなく、

代わりに、ほのかに甘く、深い香りが漂っている。


「こちらへどうぞ」


エルナが静かに席を示す。


恐る恐る近づくニコに、奥から声がかかった。


「来てくれてありがとう、ニコくん」


そこにいたのは――ベルモットだった。


いつもの獣医としての厳しさは影を潜め、

穏やかな表情で、ティーポットに手を添えている。


「……お呼びでしょうか」


「ええ。今日は診察ではありません」


ベルモットは微笑む。


「お茶に、お付き合いください」


ニコは一瞬、言葉を失った。


(……お茶?)


戸惑いを隠せないまま席に着くと、


ベルモットは、何も言わずにティーポットを手に取った。


動きはゆっくりだが、迷いがない。

長年、同じ動作を繰り返してきた人の手だった。


まず、ポットに少量の湯を注ぐ。

くるりと回し、すぐに捨てる。


器を温めるためだけの湯。

それ以上でも、それ以下でもない。


次に、茶葉。


匙ですくう量は、きっちり一杯。

だが、山盛りではない。

平らに整えられた、その“少しの差”に、ニコは目を留めた。


(……多すぎると、渋みが出る)


ベルモットは、茶葉をポットへ落とすと、

今度はしっかりと沸いた湯を注ぐ。


音が、違った。


ただ注ぐのではない。

湯が茶葉を叩き、絡み、包み込む音。


蓋が閉じられる。


すぐには、注がない。


ベルモットは、時計も砂時計も見ない。

ただ、湯気を見る。


香りが、立ち始める。


最初は、軽い。

次に、甘さが混じる。

そして――芯のある香りに変わる。


ニコは、無意識に息を吸った。


(……まだ)


ほんの少しだけ、待つ。


ベルモットの指が、蓋に触れた。


その瞬間、

ポットの中で茶葉が完全に開いたのが、分かった。


注がれた紅茶は、

透き通った深い琥珀色。


濁りはない。

揺らせば、光をそのまま通す。


カップに注がれても、すぐには手を付けない。


湯気。

表面のわずかな揺らぎ。

香りの変化。


ニコは、じっと見つめる。


熱すぎれば、香りが分からない。

冷めれば、輪郭がぼやける。


――今だ。


ニコは、そっとカップを持ち上げた。


一口。


舌に触れた瞬間、

苦味はない。

だが、薄くもない。


香りが鼻へ抜け、

わずかな甘さが、後から追いかけてくる。


ベルモットが、ゆっくりと目を細めた。


「……今のタイミングで飲みましたね」


驚きではない。

確認するような声だった。


「紅茶は、待ちすぎても、待たなすぎてもいけません」


ベルモットは、自分のカップに口をつける。


「香りが一番高く、味が最も澄む一瞬があります」


ニコは、小さく頷いた。


「……分かります」


それだけだった。


だが、その一言で十分だった。


ベルモットは微笑む。


「良かった」


その言葉には、

“紅茶を楽しめた”以上の意味が込められていた。


少し落ち着き、テーブルに置かれた小皿に目を向ける。


そこには、薄く輪切りにされた果実が並んでいた。

色は淡い琥珀色。

表面はわずかに乾き、指で触れれば、まだ弾力が残っていそうに見える。


甘い香りが、紅茶とは別の方向から、静かに立ち上っていた。


「良かったら、こちらもどうぞ」


ベルモットが、穏やかな声で勧めてくる。


ニコは一つ手に取り、指先でそっと確かめた。


(……ドライフルーツだ)


口に運んだ瞬間、その確信ははっきりした。


(りんごだ)


「これ、ドライフルーツですか?」


そう尋ねながら、もう一口かじる。

甘みと、ほのかな酸味。


「りんごのドライフルーツですね。とても美味しいです」


それは、お世辞でも何でもなかった。


久しぶりに味わう“嗜好品”に、ニコの胸が、静かに弾んだ。


「今日は、君とゆっくり話がしたかった」


ベルモットの言葉に、ニコは一瞬、動きを止めた。


「……えっ、僕とですか?」


胸の奥が、わずかにざわつく。


(俺も、この世界について色々知りたい。

でも――異世界から来たことを隠したまま、

上手く聞き出す自信なんて、ない……)


そんな思考を見透かしたかのように、

ベルモットは静かに紅茶を置いた。


そして、穏やかな声で、こう言った。


「ニコくんは――異世界人かね?」



この回は物語の中ではとても重要な「静かな転換点」です。


ベルモット先生は、問い詰めることも、暴くこともしません。

ただ紅茶を淹れ、言葉を選び、ニコの心がに問いかけます。


異世界の話も、正体の核心も、

ここではまだ“答え”として提示されていません。

あるのは、理解しようとする姿勢と、受け止める覚悟だけです。


ニコにとってこの時間は、

初めて「拒絶されない可能性」に触れた瞬間でもあります。


静かな誘いとは、

逃げ場のない問いではなく、

立ち止まってもいい場所を差し出すこと。


その空気が、次の話へと繋がっていきます。


お読みいただき、ありがとうございました

引き続きお付き合い下さい。

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