消えない記憶と暖かいひと時 11話
次の日の朝。
昨日の話をする者は、誰もいなかった。
寝付けなかったニコは、まだ薄暗い時間に目を覚ました。
まぶたの裏に、昨日の光景がこびりついている。
廊下にはすでにガルドとゴリムがいた。
二人とも座ったまま、動きが鈍い。
眠れなかったのは、ニコだけじゃない。
「ニコ、今日は早いな……」
眠そうにゴリムが言う。
「……」
ニコは答えない。
沈黙が落ちる。時計の音だけがやけに大きい。
少しして、ニコが言った。
「ガルドさん、大丈夫ですか?」
「ああ、大丈夫だ。」
ガルドは短く言い切って、続ける。
「俺とクレイグはポーションを飲んだからな。体は……なんともない」
でも、その声にいつもの張りはない。
大丈夫だと言いながら、目が疲れていた。
ニコはうなずきかけて、やめた。
言葉にすると、昨日がまたここに戻ってくる気がした。
ガルドは返事の代わりに、ゆっくり息を吐いた。
ゴリムは視線を逸らしたまま、ぼそっと言う。
「寝ようとすると、あれが来る」
続く言葉は出ない
しばらくしてニコが問う
「……今日は、どうしますか?」
自分でも、声が細いと思った。
ガルドが少しだけ顔を上げる。
「いつも通りに戻す。できる範囲でな」
ゴリムが立ち上がり、肩を回した。
「やることはあるからな」
気を紛らすように言い立ち上がる。
ニコも立ち上がった。
昨日は消えない。けれど、消えないままでも歩ける。
三人は言葉少なに、集合場所へ向かった。
朝の冷えた空気が、皮膚の上をなぞっていく。
廊下をゆっくりと進みの集合場所に近づくと
すでにアレンが来ていた。
いつもなら、忙しそうに歩き回って皆を叩き起こす。
だが今日のアレンは違った。
「おはよう!」
集まってくる魔獣たち一体一体に
立ち止まって、やさしく声をかけていく。
それが、逆に妙だった。明るい声なのに
場の空気が軽くならない……
全員が揃うと、アレンは一度だけ
いつもの“管理者の顔”に戻った。
「オスロ、後ろについてくれ!」
少し待つ。
全員の位置を目で追い、揃ったのを確認してから
アレンの声が廊下に響いた。
「今日も、いつものように並んでくれ」
普段ならガヤガヤと喋りながら整列が始まる。
だが今日は違った。誰一体、口を開かない。
静かなまま、整列が終わる。
アレンはその様子を見て、言葉を選ぶように一拍置いた。
「……ちょっと聞いてくれ」
誰も返事をしない。
沈黙が、返事の代わりだった。
「みんなには悪いんだが
今日も露天風呂の作業をしてもらう。」
その瞬間、廊下の空気がざわついた。
声ではない。足の踏み替え、尾の揺れ、耳の動き。
身体が先に反応する“騒めき”だった。
アレンはすぐに続ける。
「今日は、園長とクルツ先輩も
一緒に来てくれる事になってるから
安心してくれ。」
その名に、ニコはわずかに耳が動いた。
クルツ。元冒険者。
冒険者認定に落ちてしまい、修行も兼ねて
園長のいるこの魔獣園で働き始めた人だ。
――つまり今日は、現場に“強者”が増える。
それは安心材料のはずなのに
胸の奥の硬いものはほどけなかった。
ニコは列の中で、黙って前を見た。
昨日の恐怖を抱えたまま
また「今日」が始まろうとしていた。
――――
「よし、行こう!」
アレンの声に押されるように
みんな重い足を上げて歩き始めた。
列の前方にはクルツがつき、全体を導く。
後方には、二頭のヒッポスが引く大きな荷車。
その荷台にサンが乗っている。
そして最後尾。
アルヒッポスに騎乗した園長が
一定の距離を保って続いた。
隊列は静かだった。
足音と、荷車の軋む音だけが道に残る。
しばらくして、無事に露天風呂へ着いた。
――だが、そこにはすでに「待ち受ける者」がいた。
湯気の向こう。
温泉の中に、いくつもの影が見える。
「なんだ、あれはー!?」
アレンが思わず叫ぶ。
その声に、みんなの視線が一斉に吸い寄せられ
釘付けになる。
アルクトス・ベアがいなくなったことで
露天風呂の“主”が消えた。
今まで近づけなかった弱い魔獣たちが
冬の厳しい寒さをしのぐために
温泉を使いに戻ってきていたのだ。
小さな体。細い脚。怯えた目。
湯の中で身を寄せ合い、必死に温もりを守っている。
だが――こちらの気配に気づいた瞬間。
弱い魔獣たちは、慌てたように温泉から飛び出した。
湯が跳ね、湯気が乱れる。
そして、逃げる。
一目散に、森の影へ消えていった。
残ったのは、揺れる湯面と、急に冷えた沈黙だけだった。
少し経ち、みんなが落ち着いたのを確認してから
クルツが口を開いた。
「温泉はもともと、この辺りの魔獣にとって
――冬を乗り切るための癒やしの場所だからなぁ」
どこか噛みしめるような言い方だった。
さっき逃げていった小さな影が、頭に浮かぶ。
しばらくして、アレンの指示が飛ぶ。
「みんな聞いてくれ。昨日やった掃除を
これからもう一度やる。準備してくれ」
静かな声なのに、よく通る。
全員の身体が同時に動き出す。
アレンが手でオスロに合図をする。
オスロは迷いなく、すぐ所定の位置についた。
二回目の掃除が始まった。
湯の縁を整え、石をどけ、泥を掻き出す。
昨日と同じ手順。けれど、昨日より手が重い。
疲れのせいだけじゃない。心のどこかが
まだ固いままだった。
その一方で――
園長とクルツ、そしてサンは
吊るされたアルクトス・ベアへ向かっていった。
巨大な影は、木にぶら下がったまま静かに揺れている。
昨日の恐怖をそのまま形にしたような存在だった。
園長が言う。
「みんな、作業が終わったらコイツを荷車に乗せるぞ。いいな」
それは命令というより、確認だった。
だが、聞いた瞬間に背中が冷える。
――――
作業が終わる少し前。
森の奥――遠い林の影から
視線が突き刺さるのをニコは感じた。
逃げた弱い魔獣たちが、恐る恐るこちらを覗いていたのだ。
近づくわけでもなく、ただ、確かめるように。
ニコは気づいていた。
けれど、何もしなかった。言葉も、合図も。
――自分たちは、弱い魔獣の居場所を横取りした。
そう思えてしまったからだ。
温泉の湯気が揺れる。
覗く目は消えない。
ニコは手を動かしながら、胸の奥だけが、ずっと重かった。
作業が終わると、園長の声が露天風呂に響いた。
「おおい! ガルド、クレイグ!
力の強い者を連れて、こっちに来い!」
声に気づいたガルドとクレイグは
近くの数名の肩を叩き、無言で連れていく。
その歩き方だけで、何をさせるつもりなのか
――皆、察してしまう。
ガルドが問う。
「えん、ちょう、なんで、しょうか?」
片言だが少しずつ話せる様にはなって来た。
園長は顔を吊るされたアルクトス・ベアへ向け
短く言った。
「……これだ」
二人がアルクトス・ベアに視線を向けた瞬間
身体がびくりと震えた。
昨日の“あれ”が、また目の前にある。
恐怖は消えていない。
ただ、押し込めていただけだった。
園長が続ける。
「荷車に乗せる。手伝え」
「……はい!」
「はい!」
我に返ったように返事をする。
慎重に、息を合わせて下ろす。
吊るし縄を緩め、巨体が揺れないよう支え
地面に触れる瞬間まで気を抜かない。
重さが腕に、肩に、骨にくる。
そして、そのまま荷車へ。
木の板が軋み、ヒッポスが不安そうに鼻を鳴らす。
ようやく載せ終えた時、誰かが小さく息を吐いた。
園長は視線を移し、命じる。
「クルツ。サンを護衛して、コイツを園まで持っていけ」
「はい、わかりました」
クルツは返事をしてから、サンを見る。
だがサンは、アルクトス・ベアから目が離せないでいた。
クルツは少しだけ待った。
それから、できるだけ穏やかな声で呼びかける。
「……サンさん。行きましょう」
サンの肩がわずかに跳ねる。
それでも視線はまだ、巨体に縫い付けられたままだった。
作業が終わった後、露天風呂の周りの掃除に取り掛かっていた。
昨日、アルクトス・ベアが暴れた跡を目にした瞬間
動きが止まってしまった。
手にした枝も、掴みかけた落ち葉も、そのまま。
視線だけが跡をなぞっている。
そこへアレンが近づいてきた。
声はいつもより低く、やさしい。
「焦らないでいいから。ゆっくり掃除してくれ」
その一言で、ようやく空気が少しだけ動いた。
しばらくして、みんなも少しずつ体を動かし始める。
落ち葉や折れた木を拾い集め
脇にまとめて積んでいく。
そんな時、アレンとオスロの話し声が聞こえた。
「この壊れた縁は、俺らじゃ無理そうだなぁ~」
「そうですね」
――――
アレンの声が広場に響く。
「みんな、集まってくれ!」
皆がゆっくりと集まり、静かに整列する。
アレンが言う。
「これからお湯をためるから、昼飯に帰ろう」
「はい。」
いつもなら大喜びするところだ。
だが今日は、食欲があまりない者が多いのか
喜ぶ者は少なかった、返事も、勢いがない。
オスロがぽつりと言う。
「今から帰れば、ちょうどいい時間ですね」
アレンはうなずき、園長のもとへ歩いていった。
「園長。作業もひと段落して、ちょうど良い時間なので……
いったん帰ろうと思います。よろしいですか?」
園長は顎をさすり、低く笑う。
「そうだな。わしもちょうど腹が空いた頃だ。
帰るとするか」
それから園長は、露天風呂の方へ視線を向けたまま、
ふと思い出したように言った。
「……アレン。ここ
湯がたまったらどうするつもりなんだ」
アレンは少し間を置いて、答える。
「ここですか? 湯がたまったら午後は作業はやめて
あいつらを、入れてやろうと思っています。」
園長は小さく目を細めた。
何かを確かめるように、もう一度だけ頷く。
「……わしも久しぶりに入ってみるか」
――――
露天風呂のある方角を
マレナは落ち着かない様子で見ていた。
どれくらい経ったのだろう。
ふと遠くに、人影が見えた。
――アレンたちだ。
マレナは息を呑み、次の瞬間には厨房へ駆け込んでいた。
いつもおとなしいマレナが、珍しく声を張り上げる。
「帰って来ましたよ〜!!」
その声が食堂じゅうに響いた。
途端に食堂がざわつき、みんなが席を立つ。
扉が開き、足音が重なって行く。
途中、サンが医務室の前まで走り
ドアを叩き、返事も待たずドアを開ける。
「ベルモット先生帰って来ましたよ!」
呼びかけはすぐに広がっていく。
やがて全員が揃って
門へ向かって一斉に動き出した。
アレンが首をかしげて言った。
「みんな、どうしたんですか?」
サンが、待ちきれないといった調子で答える。
「待ってたんだよ。ほら、食事の用意できてる!」
「さ、急いで急いで!」
背中を押されるようにして、一行は食堂へ向かった。
食堂に入ると、サンが手を叩く。
「さぁ〜、みんな! 席についた、ついた!」
魔獣たちはどこかぎこちなく、けれど言われるままに
ゆっくりと席につく。
いつもの賑やかさはまだ戻りきっていない。
サンが声を張る。
「みんな、料理運んでちょうだい!」
どうやら今日は、料理をテーブルまで持ってきてくれるらしい。
厨房ではロルフが、次々と肉を焼いていた。
「こんないい肉は、焼きたてを食わなきゃもったいないだろ」
そう言いながら、ロルフは手を止めない。
焼き加減を見て、返して、また次の肉へ。
食堂には、ジュウッと肉の焼ける音が響く
それと共に、香ばしい脂の香りが流れ込み――
沈んでいた空気さえ、少しずつほどいていった。
そして――運ばれてきた皿が、目の前に置かれた瞬間。
「おおおぉ〜!」
あちこちから驚きの声が上がった。
自分の前に置かれたものを見て、魔獣たちは目を丸くし
次々と歓声をあげる。
さっきまでの沈んだ空気が嘘みたいに、食堂が一気に明るくなる。
ニコも同じだった。
思わず声が漏れる。
「おおおぉ〜! ……これ、ステーキじゃないか!」
ニコは思わず笑みがこぼれた。
「しかも、冷めないように鉄板に乗ってる……」
皿ではない。鉄板の熱が、肉の湯気を絶やさない。
「付け合わせも、ポテト、人参、ブロッコリーだ」
その瞬間、ニコの胸の奥がきゅっとなる。
――自分のいた世界。
料理の匂い。
それが、ここで目の前にある
不思議ではあるが同時にとても
嬉しかった。
食堂のあちこちで歓声が上がり続ける。
しばらくして、入口の方がざわりとした。
園長とベルモット先生が姿を現したのだ。
二人はそのまま厨房の方を覗き、ロルフに声をかける。
「ロルフ。わしにも一枚、分厚いの頼む」
ロルフは火加減を見たまま、短く返事をする。
「わかりました。少々お待ちください」
ベルモット先生も、当たり前のように続けた。
「私にも一枚、お願いします」
「わかりました。少々お待ちください」
はずんだロルフの声が返って来る。
ニコは匂いを楽しみながら、ゆっくりと口に運ぶ。
切り分けてくれているので
ナイフを使えない魔獣にとっては本当にありがたい。
その断面は、まさに芸術品だった。
鮮やかな赤身に、繊細な脂のサシがきめ細かく入り込んでいる。
見事な霜降り――まるで和牛のようだ。
鉄板の余熱でじわりと溶け出した脂が
香ばしく甘い香りを立ちのぼらせる。
驚くほど柔らかく、そのまま口へ運べば
噛む間もなく舌の上でほどけていく。
焼き加減も絶妙だった。
表面のカリッとした香ばしさの直後に
凝縮された濃厚な旨みと上質な脂の甘みが
一気に口いっぱいに広がる。
飲み込んだ後も、嫌味のない上品な脂の余韻が長く残り
――またすぐに次の一切れへと手が伸びてしまう……。
しばらくすると、魔獣たちは満足した顔で次々と立ち上がり
食器を返しに行った。
ニコも少し遅れて返しに行くと
調理場の前でサンが皿を受け取りながら言った。
「美味しかったでしょう!
私もあんな高級な肉を調理するの、初めてだよ〜」
「えっ?」
「アルクトス・ベアだよ。脂の、のりが最高だった」
「ええー!? アルクトス・ベアだったんですか!?」
ニコの驚きの声が食堂に響いた。
他の魔獣たちも同じように、一斉に声を上げる。
「えええー!?」
園長がぼそりと呟く。
「そんなに驚くことか……」
向かい合わせで食べていたベルモットも、
声を上げそうになったが――かろうじて堪えた……。
やがて食堂に静けさが戻り、それぞれ休憩を取っていたが
疲れたのかテーブルに伏せて寝ている者が大半だった。
ニコもそのうちの一人である。
一時間ほど経っただろうか。
アレンの声で目が覚める。
「みんな起きてくれ!」
皆がゆっくりと顔を上げ、伸びをする。
「これから露天風呂に入りに行く。準備してくれ」
ガルドが聞いた。
「おれ、たちが、おん、せんに、はいて、も、いいん、ですか?」
アレンはうなずく。
「お前たちのおかげで綺麗になったんだ。……
一番風呂はお前たちだ!」
「わぁぁー!」
この辺りには温泉が多い。魔獣たちの中には温泉に入ったことのある者も多いようで
嬉しそうな声が上がった。
魔獣たちが外へ出ると、魔獣園のほとんどの職員が待っていた。
アレンが頭を下げる。
「遅くなってすみません」
園長が言う。
「構わん。気にするな」
「ありがとうございます」
アレンが呼びかけた。
「それでは、みなさん行きましょう!」
ゾロゾロと列になって進み始めた。
――――
到着するとアレンが呼びかける。
「こちらが女性。男性は向こう側に移動して下さい」
アレンはこう見えて紳士である。
二手に分かれ、温泉に入り始める。
その中で一人だけ、もぞもぞしている者がいた。
ニコである……。
ガルドがやさしく声をかける。
「ニコ、気持ちいいぞ。一緒に入ろう」
ゴリムも声をかけた。
「俺もニコと一緒に入りたい」
湯けむりがもうもうと立ち込める中
仲間の声に腹をくくったのか
ニコはかじかんだ足先をおそるおそる沈めた。
熱い湯が、ビリビリと痺れるような感覚で肌を刺す。
それでも、少しずつ体を沈めていく。
冷え切った体を包み込むような温かさが
じわり、じわりと広がっていった。
思わず「ふぅぅー」と長い溜め息が漏れる。
吐息はすぐに濃い霧となり、空へと消えていった。
極寒の静寂と、湯の圧倒的な温もり――
その中に浸りながら、ニコは何気なく遠くを見ていた。
細い木が生い茂った影に、猿に似た小さな魔獣が顔をひょこり出し
こちらを見ていた。
目が合った瞬間、素早く隠れる。
だが、去ろうとはしない。
もう一度顔を出した時、その可愛さにニコは思わず手招きした。
「こっちにおいで」
恐る恐る近づいてきたそれは、少し離れた
誰もいない場所の湯にそっと入った。
ガルドも気づいたようで言う。
「あれはスィミアの子供だな」
そして湯気の向こうを指す。
「奥の方に見えるのが母親じゃないか」
ニコがガルドの視線の先を見ると
母親が周りの仲間に何か言っているのがわかった。
慌てて――助けを懇願しているようにも見えた。
ニコは今度は母親に向かって、手招きする。
「こっちにおいで」
なぜかニコの言葉を聞いたかのように
スィミアの母親も恐る恐る、子供のいる場所へ近づいてきた。
いつものことだが、ニコは魔獣にあまり警戒されないようである。
それを見た仲間のスィミアたちも、次々と温泉に浸かり始めた。
極寒の地で、あたたかい時間がゆっくりと過ぎていった。
あの露天風呂の湯気は、きっと忘れない。
昨日の光景は、どれだけ目を閉じても薄くならなかった。
怖さは胸の奥に貼りついて、眠りの邪魔をして
言葉さえ奪っていった。
それでも――暖かいものは、確かにそこにあった。
湯気の向こうで、仲間が笑っていた。
熱い湯が皮膚を刺す痛みのあと
身体の芯までほどけていく温もりがあった。
分厚いステーキの香りに
食堂が少しずつ息を吹き返していくのを
ニコは見た。
消えない記憶は、なくならない。
でも、消えないままでも、
人は――魔獣は、生きていけるのかもしれない。
怖いまま、進む。
震えたまま、手を伸ばす。
そして、誰かの温もりに気づく。
湯の縁からひょこりと顔を出したスィミアの子は
きっと「大丈夫?」と聞いてきたわけじゃない。
それでもニコは、あの小さな目に見つめられて
少しだけ救われた。
次に怖いものが来ても。
次に胸が固くなっても。
今日みたいな暖かいひと時を、また重ねていけたら
――それはきっと、消えない記憶に呑まれないための
いちばん確かな方法だ。
明日もきっと、簡単じゃない。
それでも、湯気の向こうに手を振るように。
ニコは、もう一度だけ深く息をして、歩き出す。




