第8章 突撃
本作はムーンライトノベルズで連載中の「アコニットの町で」の過去譚ですが、単独でも戦記作品として楽しんでいただけると思います。
山腹の杉林の陰で、スリヤ族族長の指揮官バンコは唇を歪めた。
“竜の牙”の異名を持ち、味方の若い兵にさえ恐れられる猛将だが、その実、慎重に戦況を読む男だった。
ただし——予想外の出来事に直面すると、冷静さより怒りが勝ってしまう——バンコの悪癖だった。
彼は山頂、尾根道へ続く山林を睨み上げていた。
「“毒花“の軍勢は二つに割れる。山頂の守りと、尾根からの逃げ道……どちらも薄くなるのが常だ」
副官のカロが笑い、腰の短弓を軽く叩く。
「山頂をいかに早く叩くか、ですな。カーシャ族の連中が持ち堪えてくれればよいのですが……」
バンコは鼻で笑った。
「先ほどの正面攻撃で連中の力は掴んだ。山頂の守りは、主力でまとめて踏み潰せる……計画に狂いはない」
そこへ、斥候が駆け込んできた。
「ほ、報告っ……毒花軍、東の林道へ入りました!」
「よし、思った通りだ」
だが、斥候はさらに声を震わせた。
「しかし……全部です!全軍、尾根へ!」
「……全部だと?」
バンコは聞き返し、思わず眉根を寄せた。
「山頂には、ごくわずかの兵しか残っておりません!しかも、山道に障害物を設置して後退していきます!」
カロが目を剥いた。
「兵を割かなかった……?全軍で尾根を突破するつもりか!」
バンコは舌打ちした。
「追い詰められて、毒花将軍もついに焼きが回ったか……それとも、突破して自分だけでも逃げる腹か?」
「奴らの攻撃力なら、不可能ではありませんが……」
「ならば山頂を奪え!尾根へ逃げる背中を叩き潰す!」
バンコは立ち上がり、座っていた床机を蹴り倒した。
「追撃の構えを取れッ!挟み撃ちで終わらせるぞ!!」
「先鋒はこのドワイト・オズボーンが引き受ける!皆、盾を隙間なく構えよ!」
アコニット軍は密集して盾を構え、カイルを中心に前進した。道幅は五人並ぶのがやっとの幅だ。
左右の木陰から矢が飛んでくるが、盾で防ぎながら進む。前列の重装歩兵が、まるで大蛇の鱗のように固く並ぶ。
短弓では大盾を貫通できず、伏兵たちは焦りを見せ始めた。
「いけるぞ!このまま進め!」
ユーグ・コスト騎士団長が叫ぶ。
蛮族は打つ手がなく、盾の鱗の大蛇の前進を止めることができない。
やがて林が途切れ、両脇が小高い崖になった。
正面には敵歩兵がおおよそ三、四十人。盾と槍を構え、アコニット軍同様、道幅いっぱいに七、八列の方陣が敷かれている。
「洒落臭い!捻り潰せ!」
ドワイトが叫ぶ。
盾と槍がぶつかり合い、金属音が鳴り響いた。
前列はまだじりじりと押し込み、敵盾列を確実に下げている。
ドワイトは、正面の歩兵だけなら五分で押し潰せると踏んでいた。だが崖上から降り注ぐ矢が、前列の集中を切り裂く。
伏兵の防御は思った以上に硬く感じられ、押し込み速度が目に見えて落ちはじめた。
「盾を上げろ!矢を叩き落とせ!正面を援護しろ!」
カイルが左右に命じる。
「まずい……想定以上に時間を食う」
ミック兵士長は額に汗を浮かべ、前線を見つめる。左右の崖から敵の弓兵がこちらを狙っている。プレッシャーは軽くはない。
「坊ちゃん、前列が押し切れねえぞ!」
息を切らし、兵士たちは盾を押し出す力を振り絞る。だが、敵の盾列はほとんど動かない。密集の列の端から、矢が側面をえぐるように降り注ぐ。
突撃開始から数十分——押し返しはしないが、前列は踏み止まるのがやっとだった。
進撃の勢いは、ほぼ消えつつあった。
その時、後方の防御を指揮しているアベルに、斥候から山頂が敵軍の手に落ちたという報告が来た。
「わはははは!連中、思ったよりモタモタしておったな!皆、踏ん張れ!もうすぐ前線が突破できるぞ!」
「応!」
老騎士アベル・ボリバルは豪快に笑って見せたが、少し時間がかかっていると感じていた。
もしこのまま前進が止まってしまえば、全滅を免れない。前衛を信じるしかない。山頂から迫る敵軍を睨みつけながら長男トーマスの遺品、短剣に触れた。
一時間を待たず、戦況は目に見えて悪化した。アコニット軍の密集盾列が、完全に“止まった”のである。
盾と盾が噛み合い、どれだけ押しても一指も動かない。
「前が……動かねえ!」
「敵の弓、近づいてきてます!左右の崖、さらに増援!」
左右の崖を走る影が増えていた。山頂を落とした敵本隊の弓兵が、両側面の崖へ回り込み始めていたのである。矢の飛来は徐々に増え、盾の縁を叩く金属音が途切れなく響いた。
「くっ……囲まれたか!」
ユーグが吐き捨てる。
前進方向の敵防御陣は半数近く減らしたが、頑強に抵抗を続けている。
左右からは射撃の集中。
そして背後からは、山頂を占領した敵本隊がアベル指揮する後衛と交戦を開始した。
ミック兵士長は歯噛みした。
「坊ちゃん、このままじゃ押し潰される!」
カイルは無言で前方を睨み続けていた。
矢がないので、歩兵前進以外に手が打てない。前線のドワイトだけにかかっている。
アコニット軍三百足らずは、挟み撃ちの袋小路に押し込まれた。
兵の呼吸は荒く、盾列の隙間から漏れる声は次第に怯えを帯びていき、全体を支配しようとする。
山頂からアコニット軍を眺めていたバンコは上機嫌だった。
兵士らの目の前で毒花将軍を処刑し、首を肴に美酒に酔いしれ、兵士らを奴隷として他国へ売り払ってやる。これで忌々しい毒花軍に苦しめられることもなくなる……
その時——
山道下方から、地を震わせる重い蹄音が響いた。
「……なんだ?」
副官のカロが振り返った瞬間、鬨の声が山肌を揺らす。
「敵の援軍です!金の鷹の旗……王国軍の旗印です!」
先頭を駆ける大柄な影。
薄汚れた白い外套が土埃を巻き上げ、槍の穂先が朝日に閃いた。
——二時間ほど前……
グラント侯爵アンドリューは、突如馬の首を翻した。
「やはりドリス子爵の救援に向かう。助けを待つ味方を見捨てたと言われるのは騎士の恥辱だ。負傷している者はここで待機し、防御陣を張れ。名誉を求める者は続け!」
チェンバレン男爵アルフレッド騎士団長は少し髭をいじっていた……しかし馬の首を返し、甲冑を締め直す。
麾下の騎士団もこれに従い、口々に叫んだ。
「私も暴れ足りなかったのだ!」
「このグラント軍の騎士団に、臆病者など一人たりともいないことを証明しましょう!」
「閣下、お任せを! ドリス子爵を生きてお連れします!」
アンドリューはうなずき、アーヴィン子爵に指示を出した。
「イアン、負傷兵らを指揮し、防御陣地を構築しておいてくれ」
「はっ!」
イアンは頭を深く下げながら、上手いやり方だと舌を巻いた。
負傷した騎士や兵士らは、救援に行けなくても、"侯爵から与えられた重要な任務を遂行している"という名誉を得るため、後ろめたさなく留まることができる。
そして侯爵が自ら先陣を切るという行動に、先ほどまで彼を諌めていた騎士らは、忠誠心とロマンが最大限に刺激され、ここで追従しなければ、騎士としての存在価値そのものが否定されるため、誰もが誇りを持って続く。
"騎士の名誉"という最大の武器を使って、わずか数分で最も覚悟の決まった精鋭部隊を編成してしまったのである。
山道を塞いでいたアグニ族の兵士らが、馬群の音を背後に聞いた時、槍を構えた騎士が目前に迫っているのを見た。
山道ぎりぎりを並走しながら、敵防御陣へ一直線に突撃してくる。馬の脚が砕石を蹴り、蹄鉄の火花が飛び散る。
アコニット軍の兵がざわめいた。
「うおおお……!助かったぞ!」
「グラント軍騎士団だ!敵を押し込め!」
ドワイトの指揮で大楯を前に敵の逃げ道を逆に塞いだ。
瞬く間に敵防御陣地が崩れ、敵兵が潰走する。グラント軍の歩兵部隊が崖を登り、槍を持って両脇の弓兵へ突撃していく。
アコニット軍を苦しめていた伏兵らは支離滅裂に敗走した。
「ドリス子爵!無事か!?」
馬を降り、アンドリューが叫んだ。
「閣下!感謝します!」
カイルが盾の間から現れ、兜の面を跳ね上げると、アンドリューの手を握った。
アンドリューは、こんな喜んだ顔もできるんだな、と少しカイルのことが可愛く思えた。
「カイル、再会を喜ぶのは後だ。後衛を退却させよう」
「はっ!」
カイルはうなずき、手慣れた指揮で瞬く間に方陣を完成させると、敵本隊と交戦中のアベルらと入れ替わるように重装歩兵を交代させた。
「アルフレッド、弩弓で支援させろ」
アンドリューの指示でグラント軍弩弓隊が前に出て、矢を放つ。敵の前線が崩れた。
「よし!押せ!」
カイルの号令とともに、地響きがするような鬨の声が上がり、アコニット軍が突撃を敢行した。
足止め部隊が全滅し、崖の上の弓隊が敗走した上に、グラント軍の援軍を見て、蛮族の前線は恐慌に陥った。山頂から降りてくる部隊と逃げようとする部隊が入り混じり、尾根から林へ転落する者まで現れた。
やがて、敵は山頂からも引いて行き、アコニット軍は前進を止めた。
「今だ!全速力で麓へ走れ!」
グラント騎士団も急ぎ退却を開始した。
(どちらが潰走してるのかわからんな)
アンドリューは馬を走らせながら、楽しそうにその光景を見ていた。
明けましておめでとうございます。林忍です。
第8章「突撃」では、退路を切り開くための正面突破と、援軍到着による戦局の反転を描きました。
突撃は勇壮に映りますが、その実態は、押し合い、耐え、削られ続ける消耗戦です。
グラント侯爵アンドリューの救援は偶然ではなく、彼自身の判断と責任によるものでした。
戦場を動かすのは剣だけでなく、人の決断でもあります。
そしてこの脱出は、決して無傷ではありません。
前へ進めたのは、帰れなかった者たちが踏みとどまったからでした。
次章、第9章「鎮魂」では、戦の終わりと、その代償を描きます。
静まり返った場所でこそ、失われた命の重さが浮かび上がる章です。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
次回、19時30分にお会いしましょう。




