第9章 鎮魂
本作はムーンライトノベルズで連載中の「アコニットの町で」の過去譚ですが、単独でも戦記作品として楽しんでいただけると思います。
その後、蛮族は再び山頂に陣取ったが、その頃にはグラント=アコニット連合軍は既に山麓へ降りてしまっていた。
スリヤ族族長で総指揮官のバンコは追撃を主張したが、被害を多く出したアグニ族、カーシャ族をはじめ、他部族の族長に反対されてしまった。
彼らはサイグナス山脈の北側をリビン王国から奪い返すことに成功したため、それを戦果とすべき、と主張したのである。
バンコは癇癪を起こし、スリヤ族単独で追撃を命じるも、全力で副官のカロに諌められ、渋々退却を命令した。
夕日が山の端に沈みかけ、街道には長い影が伸びていた。
退却の混乱がようやく収まり、生還した両軍の兵ら千人ほどが、互いに支え合いながらだらだらと歩調を合わせている。
兜を脱ぎ、手綱を握る手は泥まみれ。鎧は矢傷と土埃で黒ずみ、誰もが一日で十年老けたような顔をしていた。
その疲れ切った隊列の中央で、二騎が並んで歩いていた。グラント侯爵アンドリューと、ドリス子爵カイルである。
夕日を背に、二人の影はどこまでも伸びて続いていた。
「……どうにか、生き延びたな」
アンドリューが、乾いた笑いを漏らす。
「閣下に助けていただきましたので」
「私もお前に助けられた。殿軍をしてくれていなかったら、私たちはとっくにホーステイル砦か山の中で死んでいた。礼を言うのはこちらだ」
カイルは少しだけ視線を落とした。
「いえ……隊が崩れかけた時、閣下の旗を見て励まされたのは、むしろこちらです」
「謙遜はよせ。私は見たぞ。敵の矢が降ってくる中、最前列で兵を鼓舞していたお前を」
アンドリューが横目でカイルを見やる。
「あんな熱い将とは思わなかったな」
「どんな将だと思ってらしたのですか?」
「いかなる時も氷のように、冷静沈着に指揮をしていると思っていたよ」
カイルは心外だという顔をした。
「私とて人の子ですよ……熱くなる時もあります。ただ、兵を安心させたくて、感情を努めて押し殺すことはありますが」
「援軍の勢いをかって、山頂へ敵を押し返す時など、嬉々として指揮してたな。あの時、お前が笑ったのを初めて見た気がする」
カイルはわずかに頬を赤らめ、あえて前を向いた。
「戦好きだと思われるのは心外です」
「世間はそう思っているだろうよ。兵士らに高価な武具を買い与えているというだけで、戦好きが財力を誇示していると思っている」
「私はアコニットの兵が大事なだけです」
「知ってる……いや、今回よくわかった」
カイルは返事をせず、前を向いたままだったが、表情はどこか穏やかだった。
馬蹄と足音だけが、夕暮れの街道に続いていく。
「……ドリス子爵……いや、カイル」
「はい」
「お前は頭が切れる。だから、もう少し絡め手を覚えろ……」
「絡め手ですか……」
「軍議で自分の主張を捻じ曲げないのは立派だったし、結果としてそちらが正解だったが、社交界で猪突猛進は通用しない。自分の意見を通すには、同調する味方を多く作り、相手の利を説くのだ。頑迷なのも良し悪しだぞ」
「肝に銘じます」
「戦場であれだけの駆け引きができているのだ。社交界向けの絡め手もすぐに覚えられるだろう。さもないと、そのうち政敵に潰されることになる」
「その時は……また閣下に助けていただくつもりですよ」
カイルは微笑んだ。
「こいつめ……」
アンドリューは意外に可愛げのある笑顔だと思い、ふっと笑うと、泥だらけの外套を直した。
「まあ……死にかけた仲というのは、悪くない」
「奇妙な縁です」
「奇妙でも、縁は縁だ。私はお前を気に入ったぞ、カイル……私と盟友にならんか?お前となら駆け引きなしに話ができそうだ」
夕風が吹き抜け、二人の外套を揺らした。
「……ありがたいお言葉です、閣下」
二人は言葉を交わしながら、ゆっくりと行軍する兵たちを見渡した。
その顔には、戦いを終えた者だけが見せる静かな連帯の色があった。
一週間後、バーリー大公領内の村や町でわずかな補給を受けながら、連合軍はようやくドリス子爵領へと入った。
行軍の途中、老騎士アベル・ボリバルの封土であるフマリア村に立ち寄ることとなった。
アベルの帰還を知ると、村は沸き立った。
農具を手にしたまま駆け出す者、家々の戸口に立ち尽くす者、兵士として駆り出された家族を探す者、老騎士と兵士らの無事を喜ぶ声が、疲弊しきった軍の列に久方ぶりの温度を与えた。
兵士らは村の外れに陣を張り、騎士団と負傷兵、そしてこの村の出身者だけが村内へ入った。
ボリバル家の屋敷の前には、すでに家族が揃っていた。
アベルの妻エマ、嫡男トーマスの妻ポーラ、そして六歳ほどの幼い孫オスカー。
彼らはアベルが馬を降りると、一斉に駆け寄ってきた。
「お帰りなさいませ……」
エマの声は震えていたが、確かに喜びの色を帯びていた。
アベルは深くうなずき、ただ一言、「ああ」と答えた。
だが、屋敷前に立つ一同が、騎上のカイルの姿に気づいたとき、
空気がわずかに張り詰め、全員が頭を垂れた。
その背後には、戦塵にまみれながらも、明らかに只者ではない気配をまとう一騎が控えている。
誰も名は知らずとも、鷹の旗印から王家に連なる高位の貴族であることだけは察せられた。
アベルは一歩前に進み出て、その騎士がグラント侯爵であることを告げた。
アンドリューらが馬を降りると、家人らは息を呑み、下げられた頭はさらに低くなった。
「お祖父様……父上は?」
幼い声が、場に不釣り合いなほど澄んで響いた。
アベルは沈痛な面持ちになり、答えぬまま一歩前に出ると、布包みから短剣と指輪を取り出した。
エマは短剣を見た瞬間、息を呑んだ。
遺品を受け取る指先がかすかに震え、胸元に短剣と指輪を当てる。
だが、声は出なかった。
代わりに、静かに目を伏せる。
長い年月、騎士の妻として、そして母として覚悟してきた別れを、ついに現実として受け取ったのだ。
ポーラは短剣から目を離せずにいた。
唇が震え、何かを言いかけては、言葉にならずに飲み込む。
腕の中のオスカーを、必要以上に強く抱きしめる。それが、今の彼女に許された唯一の感情の吐き口だった。
「……父上は?」
オスカーはもう一度問いかけた。
返事が来ないことに、不安そうに周囲を見回す。大人たちが皆、下を向いている理由が分からない。
ただ、胸の奥がざわつき、母の服をぎゅっと掴んだ。
年嵩の侍女が、耐えきれずに顔を覆った。
嗚咽が漏れ、それを押し殺すように膝を折る。
「坊ちゃまが……」
カイルは、その光景から目を逸らせなかった。
自分の命令の先にあった死が、こうして名前と顔を持ち、家族の中に残っている。
カイルは、アベルとエマ、そしてポーラとオスカーの前に片膝をつき、頭を垂れた。
「ポーラ殿、エマ殿。このカイルが、トーマスを死なせてしまった。その命の重さを、言葉では言い尽くせぬ……だがトーマスは味方を救うため、騎士の鑑として戦い抜いた。私はその忠誠を……生涯忘れない」
カイルは一瞬、言葉を探すように口を閉ざした。それから、ゆっくりとオスカーに視線を落とす。
「幼いオスカー、聞くが良い。お前が七歳になったら私の小姓とする。お前の父が私に捧げた忠誠を、今度は私がその息子に返す。お前を立派な騎士に育て上げるとお前の父と約束した。父が守った名誉を継がせることを、このカイルが誓おう」
エマはカイルの前にひざまづいた。
「頭をお上げください、領主様……トーマスは騎士の務めを果たしたのですね……これほどの誉れはございません」
カイルは何も言わずに、下を向いていた。
肩が少し震えている。
「トーマス・ボリバルは、ドリス子爵家の家臣ながら、グラント侯爵家のために尽くした勇士である。先ほどのドリス子爵のボリバル家への誓いはこのアンドリュー・グラントが保証しよう。アーヴィン子爵、チェンバレン男爵も同様に証人である。」
カイルは、ゆっくりとアンドリューの方へ向き直った。
一言も発さぬまま、膝を折り、深く頭を垂れる。
それは臣下としての礼であり、
同時に、戦場で交わされた誓いへの応えでもあった。
その姿を見て、カイルの譜代家臣であるユーグ・コスト騎士団長と騎士ドワイト・オズボーンが頭を下げた。
アベルが、エマが、ポーラが、ボリバル家の家人たちが、誰に促されるでもなく、次々に頭を下げていく。
屋敷前に、言葉のない静けさが満ちた。
アンドリューは、それを制することも、誇ることもなく、ただ静かに受け止めていた。
夕暮れの光が、下げられた頭の列を淡く染める。
それは勝利の光景ではない。
だが、カイルにとっては、
二度と忘れてはならぬ戦の終わりだった。
最後までお読みいただきありがとうございます。林忍です。
第9章「鎮魂」は、死者のための章であると同時に、生き残った指揮官が、その死を背負う覚悟を示す章です。
カイルがトーマスの遺族と向き合うことで、彼がどんな領主で、どんな将なのかが、言葉ではなく態度として示されました。
生き残った指揮官が、その死を背負う覚悟を示す章です。
次章、第10章「惨状」では、彼らの“帰る場所”が、どのような姿になっているのかが描かれます。
戦場を生き延びても、安心できるとは限りません。
引き続き、お付き合いいただければ幸いです。
明日19時30分に、またお会いしましょう。




